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【コラム】円環と伝達──鈴木光司『らせん』読書ノート

 情報としての身体。『らせん』はそのようなモチーフに貫かれている。

 無論、身体(corps)とはたぶんに物体(corps)でもある。しかし二重らせんの表象──遺伝子/DNAを前に、身体は情報へと還元されうるものとして立ち現れざるをえない。以下に展開するのは、『らせん』の物語構造を、そうした観点から素描し、批評的契機を抉出する試みである。

 本作の物語は序盤、象徴的なシークエンスから転がり始める。監察医である主人公:安藤が、死んだ友人:高山竜司を解剖する一幕である。

[…]よく見ると、臍のすぐ上、縫合された皮膚の隙間から、新聞紙の切れはしがはみ出ていた。丁寧に縫い合わせたはずなのに、ほんのわずか、折りたたんだ新聞紙の角が露出しているのだ。[…]印刷された数字が見える。読みにくい、小さな数字。安藤の顔は引き寄せられた。

鈴木光司『らせん』(27頁。以下、引用部はすべて同書単行本から)

 安藤は続く部分で、ここに刻まれた六つの数字を「暗号」として見出す。彼の頭の中で数字はアルファベットへと変貌し、意味のある言葉の連なり──RINGという単語──へと変換される。RING。リング。前作のタイトルを突きつけるところから『らせん』は始まる。だがごく普通に考えれば、新聞に刻まれた数字は数字でしかなく、暗号であるはずがないし、いかなる操作を施そうと、いかなる単語を抉出しようと、それは妄想にすぎない。暗号解読というのはある程度体系化された精緻なものだが、ここにある状況はその種の精緻さを明らかに欠いている。解剖過程の緻密さに比して、この「解読」のプロセスはいささか異様に映るのだ。「物質」的身体を相手にする解剖から、身体が(新聞という媒質はあるものの)胚胎しまた露出した「情報」を相手にする解読へ、という、ここにあるプロセスはどこか異様で、いかがわしいものとして演出されていた。

 実際、最初の解読は何度となく本文中で想起されたが、回を追うごとにそれに対するエクスキューズは減じていった。それは彼を取り巻く状況がそうさせた、ということもできるだろうが、新聞紙が新聞紙でしかない、という事実が揺らぐことはない。こうしたギャップは「いかがわしさ」を際立たせる。付言すれば、そうした解読への欲求はしばしば異様なかたちで表出していたものでもあった。「暗号解読の癖が抜けきらないのだろう、安藤は、窓明かりが作る明暗の模様に文字を当てはめようとした」(215頁)。それは続く箇所で「何の意味もない」と否定されるが、さらに続く箇所では安藤が懲りずに窓明かりへと視線を移している様が、そのまなざしがマンションへの訪問という具体的行動へ接続していく様が描写される。

 このように「異様さ」は『らせん』を規定している。それは本作がホラー・ジャンルとして構想され執筆されたことに由来しているのだろうが、その表現がある種の陰謀論的想像力をたたえた「解読」のいかがわしさによって縁どられている、というのは、無視できない緊張感をたたえてわれわれに迫ってくるかに見える。なぜなら、身体に刻まれた情報を契機に、「解読」から「呪いのビデオテープ」を中枢に据えた怪奇の世界へと足を踏み入れていく安藤という主体の行為は、取りも直さず、われわれの読解行為でもあるからだ(なお、こうしたオーバーラップを捉えるメタ的な視点は、物語の進展にともなってはっきりと提示されることになる)。

 とはいえ、解読行為のいかがわしさはのちのシークエンスで否定されることになる。先に見てきたものとは異なる暗号を解読し、その結果を告げた安藤に対し、元同級生の宮下は以下のように言う。

「ま、ミューテイション(引用者注:安藤の解いた暗号の答え)で、間違いなさそうだ。この方法なら答えは常にひとつに決定されるもんな」

224頁


 ここにおいて、解読行為が単なる誇大妄想ではないか、という内省は放逐されている。そのうえさらに、情報を読み解くという過程が、複数の回答を導出するという視点もまた取り除かれている。残るのは一つの解読と一つの回答だけであり、そこに差異やノイズはない。

 この単一性・同一性が無謬であることへの確信は、また、本作の身体観、というより人間観を縁どるものでもあった。

 というのも、本作における「身体」(=人間)は遺伝子として、DNAによって分かちがたく規定された情報体として見出されているのだ(=情報・遺伝子としての身体)。特定の塩基配列から、特定の個体が生成される、という認識は、きわめて精細な──今日であれば生物の教科書に掲載されているような──図録とともに解説される。コードはそれ自体として人間であり、人間もまた、それ自体としてコードであるということ。

 ゆえに貞子は再びこの世に生まれ落ちることができた。高山も、そして海に消えた安藤の息子も、情報の痕跡から再生することができた。ビデオテープを巻き戻すようにして。あるいは、生と死の直線を円環リングへと変じさせるようにして。

 遺伝子という二重らせんの情報体において、個体の同一性が円環のうちに保存され、円環のうちに伝達されていく。そのような物語としてこれはある。そしてそれを支持するものこそ、「ビデオテープ」に他ならなかった。より正確に言えば、「ビデオテープ」の情報に。

 記者の浅川(前作『リング』の主人公だ)が記したレポート『リング』は、非業の死を遂げた山村貞子が念写したビデオテープの内容を詳細に書き取っていた。というより、それはビデオテープそのものだった。テープがテクストを媒介して伝わる、というのではない。テクストはテープと同一のものとして立ち現れ、そしてそのように機能していた。それは取りも直さず、角川書店から1991年に刊行された鈴木光司『リング』の完成系である。テクストがただちに映像、つまりある事態、ある状況を漏れなく伝える媒体であるということ。テクストがただちに、商業的要請やその他もろもろの事情から改変を受けることなく、ある現実そのものとしてありつづける文字の連なりであるということ。無論、そうした小説のありかたがきわめて理想化された一種のファンタジーであることを、われわれはすでに実感とともに知ってしまっている。大胆に改変され、それゆえに「Jホラー・ブーム」と呼び表されるだけのムーブメントを作り出した映画『リング』の公開された世界に生きるわれわれは。しかし、そうではない現実がありうるとすれば。そうした思考が必然的に析出したのが『らせん』であり、『らせん』における『リング』であり、『リング』に規定された『らせん』であったのではないか。

 絶対的同一性を備えた情報を伝える二重らせんと、それに規定された物語。そのようなものとして『らせん』はあった。

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