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何もしない兄姉となんでも押し付けられる私

 日本の大学を辞めてしばらくしてからアメリカに留学することにした。というか、その頃は英語くらいしかできることもなく、勉強するのが嫌だったわけでもなく、ただ卒業作品展でみたような4年かけて卒業してもあの程度のものしか作れないことに絶望したからだった。アメリカの大学は入学する前に勉強することを決める必要がなかったのも大きかった。

 「おばあちゃんたちの面倒見るのが大変だからまだ行かないで」という理由だ。その頃は母方の祖父母がいて、母は週に2回ほど泊まりで介護登板に入っていた。母が介護で家にいない間に家にいる父、姉、兄の食事の支度などの日々の面倒を見る人がいなくなるからという理由だった。それから二年ほどして許可が出たので手始めに母が夏に学生を連れて行った学校に行くことになった。とりあえずお試しでということで、夏の終りには帰国するためのチケットも取ってあった。

 夏が終わって一時帰国した際に、母や父、叔母は日本の大学すら嫌がって辞めた私をアメリカに送り出したのはいいけれど、そうせ最初の一学期も持たずに日本に帰ってくるという賭けをしていたということを教えてくれた。家の人達は、私が何を考えているか、何を感じているか、私の行動の裏にある気持ちみたいなものには全く興味がない。彼らの頭のなかで勝手に渡しの行動の裏にある理由を決めつけていろいろなことを言う。

 一回日本に帰国して、冬物の服や夏の間なくて困った日本の食材やら調味料などを揃えて、秋学期に備えてまた渡米した。秋学期では夏に出会ったクラスの香港の友達の家でルームメイトを探しているというので、そこで暮らすことになっていた。そんな風にすごして、秋学期が終わろうというころに、突然家から連絡がきて、次の春学期は一回休んで日本で家のことを手伝って欲しいという連絡が来た。兎に角大変で家が回らないからとりあえず一学期間学校を休んで家の手伝いをしてほしいとのことだった。

 取り敢えず荷物をまとめてルームメイトの家で荷物を預かってもらえたので帰国した。飛行機に乗っている途中から嫌な予感がして、成田についてで口まで出たら兄が迎えに来ていて、家には帰らないでこのまま病院に行くという。話を聞くと、父が胃癌で手術をして入院をしているからそのまま病院に様子を見に行くとのことだった。

 病院に行くと、手術をしてちょっと痩せた父がいた。胃がんが進行していて、手術をすぐしたけれどあまり良くないようだった。帰国した理由はこれだったのかと思って、面会時間が終わるまで病院にいて家に戻った。

 家に戻ると家が大変なことになっていた。家には母と姉と兄と三人の大人が住んでいたけれど、掃除機なんていつかけたかわからないくらいほころがひどく、お風呂も汚れたまま、トイレも大変なことになっていた。仕事と父の面倒と介護が残っていた母は忙しいのはわかるけれど、なぜここまで家が汚れるのかさっぱりわからなかった。

 次の日から、病院の食事を食べたくないと言い張る父のために、毎日最低2回は病院に食事を持っていくという仕事と、家をきれいに保つこと、家の人に食事を作るのが私の仕事になった。兄は大学院生で姉は9時5時の仕事をしていているだけだったが、家のことは一切しなかった。数日に一回病院に顔を出しに行くけれど、途中で父と喧嘩して二人ともあまり行かない状況が続いた。帰国してすぐから食事を作って面会時間になる前に車で病院まで行き食事を届けて、一旦帰宅して、家のことを片付けて病院に行き、母の仕事が終わるまで病室で過ごし家に帰宅して食事の支度をするか、また病院にくなどやたら忙しい日々を送っていた。

 この期間で覚えていることは病院に行くのに新しく開通した都営12号線を使うか使わないか考えながら都庁に12号線開通おめでとう見たいなライトアップがされているのを病院からの道すがら毎日見ていたのを覚えている。なんでこんなことばかり起こるのかと真剣に思っていた。

 父が退院する前日に車で病院に行って、入院の荷物を前日に全て回収して、次の日は父の体と少しの荷物だけにするという計画をたてて病院に行ったのはいいけれど、雪に降られ家に帰るのにすごく時間がかかった。かなりの雪で、エンストを起こしたりスリップしたりして環七の途中で車が乗り捨ててあったりする中、私と母が車で帰った。兎に角車を止めないように家に帰らなければならないので、4時間くらいかけて自宅までたどり着いて夜の10時ごろだった。

 家の駐車場に車を入れたかったけれど、集合住宅の敷地内に入るまでに誰も雪かきをしてなくて、タイヤが空回りをして動かなかくなってしまった。私も熟練されたドライバーというわけでもなく、思いつく限りをやってみたけれど、車は全く動かなくなってしまって、困ったなと思っていたら、エンジン音を聞いたお隣さん夫婦が出てきて、私の様子を見て奥さんが「○○ちゃん、うちのお父さん雪の中で車運転するの得意だからおじさんが変わってくれるって」と言って運転を代わってくれた。

 こういう時は、車を前後に動かすんだよと言って少しずつ前後に動かして車を雪から出してくれた。お隣さん夫婦のおかげで車がやっと駐車できて、家についてから一時間経った頃にやっと駐車できてた。

荷物を全て車から出して部屋に運んで家に入ったら、兄と姉がテレビを見ていた。そして、開口一番「ご飯は?」だった。その日は二人とも病院に来なくて、雪がたくさん降って東京は大混乱していて、車もないのを知っているのに最初に言われたのが「ご飯は?」だった。二人は小学生でも中学生でもなく、成人している二人だ。

 荷物を片付けながら台所などにも荷物を持って行ったら、ゴミ箱のところにピザの箱が置いてあった。ピザを注文して自分たちだけ空腹を満たしていたらしいが、みんなの分を注文しておくわけでもなく、大変だったねでもなく、帰宅早々最初に発した言葉がご飯は?だった。父が入院してからも、自分たちも使っているトイレもお風呂も今も掃除することなく、汚れたままそのまま使っている兄と姉がどうかしてると思った。


 



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