私たちは神の傀儡でしかない、ならば

小さい頃よく妄想してたな。


自分の人生が全部ドラマで、勝手に心の中でナレーションとか字幕つけてみたり。

(そのときは監督脚本撮影音響美術みたいな役職は知らなかったけど)


で、自分が死んで全てが終わったらまた全然違うどこかで目覚めるんじゃないかって。





あと、なんかのドラマでテレビを見てる人が出てきて、「テレビの中にテレビ見てる人がいる!おもしろ!」って思ったこともある。


それで、「じゃあテレビを見てる人をテレビで見てる人をテレビで見てる人をテレビで…ってずーっと続くじゃん🤣」って考えてたんですよ。

ウチらのことも画面越しに見てる人いんの!?みたいな。


(あとこれは今思ったことだけど、AさんをBさんがテレビで見てて、BさんをCさんがテレビで見てて、CさんをDさんが………………YさんをZさんがテレビで見てて、Zさんを最初のAさんがテレビで見てたらおもしろくないですか?笑)





劇中劇ってあるじゃないですか。

物語の中に出てくる物語。
クレヨンしんちゃんでいうアクション仮面みたいな。


私たちの世界には、小説、アニメ、映画、絵本、無数の劇、物語が存在してる。形になってない誰かの頭の中のものも含めるともっと多い。

だから、私たちの世界ももしかしたらどっか別の世界の作品の中に無数にある劇中劇のひとつかもしれなくて。

劇中劇中劇中劇中劇中劇中劇……ってずーっと続いてる中の一部かもしれない。







ここでタイトル回収するけど、私たちって神の傀儡でしかないんじゃないかっていう話をしたくて。


ここでいう神っていうのは宗教的な神様とか崇拝すべき唯一神的な意味じゃなくて、大いなるひとつの存在とか源とかいうんですかこれ、時空の概念すらない、言葉では言い表せないもの、そういう意味。


私たちはきっと、そういう存在が仕組んだ群像劇の一部でしかない。


分離した意識としての私たち(自我)が役者で、源となる存在が総監督。(←観客も兼ねてるかも?)


…ってなると真我とかハイヤーセルフ?とかいうのはマネージャーにあたるんかな🤔知らんけど。だとしたら役者とマネージャーで良好な関係築いていきたいよね。


で、その意図に外れて好き勝手に動こうとするのが暴走したエゴ(その経験もありっちゃありだけど)。たぶん。



「俺はもう誰にも縛られねえ❗️」「私は私を生きるんだ🌟」みたいなのって、物語の中だったらクライマックスのところなんだろうけど、そもそもそう言ってる人たちもみんな物語のキャラクターにすぎなくて、神による群像劇のシナリオどおりに動いてるだけ。


私たちはみんな元から大いなる存在(源)とやらとつながってて、その意識の表現者であるっていうことからは逃れられない。





もし本当にそうだとしたら、あまりのどうにもならなさに絶望するとこなんだろうけど、今の私としてはなんかそうでもない。



なんならむしろ清々しいまである。



だって、やることがひとつに決まったんだもん。



神の傀儡として踊る。


これだけ。


なんか言い方だけかっこつけたみたいになってしまったw



いわゆる他人軸とか、我慢とか忍耐とかそういうことじゃない。


そりゃ自分以外の誰かの操り人形になるのは嫌だし、人の数だけ視点があるのでそのぶん解釈される物語世界も自分視点含めて無数にある。それはそう。


でも、大いなる存在の操り人形だったら喜んでできるんじゃないか?


だって元々その一部なんでしょ私たち。
「じゃあしゃーないか!w」ってなりそうじゃない?



言葉を使うとほんとに逆説的な表現になっちゃうんだけど、(大いなる存在的な意味での)神の傀儡として“自分役”を全うすることこそが結局いちばん自分として心地よく生きられるような気がする。





さっきの劇中劇の入れ子構造の話に戻るけど、あれの切り取り方次第では、私たちひとりひとりも物語の創造主(観測者?)ですよってことになるんだと思う。映えるスピリチュアルの話みたいに。


でも、そこだけ切り取った話ばっかりだとかえってエゴの暴走を助長させることにもなりかねないから、創造主であると同時に神の傀儡であるっていう自覚も大事かも。そのほうがなんか謙虚でいられそうだもんねw





だったらもう、神の傀儡として踊ってやろうじゃありませんか。


時にはエゴとか自分の意志(に見えるもの)(ほんとは神の意志?)も観察しながらだけど。


ほかのどの役でもない、どうせこの役を淡々と演じることしかできないんだし。


こんなヤバくて変態的で素敵な役どころなかなかないよ?😉

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