初恋の色
部屋中に響き渡る怒号、本棚があればそこから本を引きずりだし、植物を倒す。その行き場のない、声にならない、人間の奥底に眠るなにかそのもののようだった。
さも皮肉なことに、まるで人間そのものに見えるそれを物憂げな表情でそれを視界から外す。
もう慣れたつもりだった、もう幾夜もこんなことばかり繰り返してきた。
僕には弟がいた。4つ下の、大人しい弟だった。
しかしある事故をきっかけに障害を持ってしまった。僕はまだ子どもで、弟に何があったかなんて到底理解できなかった。
ただ毎日、昔と変わってしまった弟を眺めては、えも言われぬ心の歪みを心の奥に隠していた。
少し気が立てば物にあたり自分の気が済むまで、叫び散らす。どれほどの深夜であろうと気にもとめず暴れ回るのだ。
ついこの間までの家庭とは何もかもが変わってしまった。誰が悪いわけなんかじゃない。苦しいのは自分だけじゃない、そう思っては心を押し殺し続けた。
いつからだろう。もう、当たり前として捉えてしまいそうだ。この地獄に、終わりは来るのだろうか。
満足に寝ることも出来ない。その年受験を控えていた僕は、誰も頼ることもせず、ただただ絶えない苦しみの中にいた。
ここから飛んだら楽にでもなるのだろうか
逃げ場を求める僕の瞳にうつる滲んだ街の風景すら、なぜか心を痛めつけてしまう。
どの光にも家庭があって誰かが幸せに暮らしているのかもしれない、そんな光が彼を嫌なほど1人にするのだ。
このどうしようもない心の歪みの受け皿だけが日に日に崩れていった。
弟を責めれるはずもない。歪み切った心のかたわれでせめて人を傷つけないようにばかり考えていた。
そんな頃だ、彼女に恋をしたのは。
ー最近つらそうだけど、なんかあったの。ー
心配そうな面持ちで僕の顔を覗き込むのは昔から仲の良かった、いわゆる幼なじみだった。
驚いた。鈍感なやつで昔から人の気持ちに気づくのが信じられないほど下手な彼女が自分の心を見透かしたようだった。驚きと少しの恐怖が混ざった、なんとも言えない顔で僕は言った。
ーなんでもないよ。ありがとう、大丈夫。ー
これは彼女の単なる興味なんだろう、追い詰められきった、打ち明けてしまいたい気持ちに蓋をして、僕の心の底へおしやった。
ーふーん。ー
何故か微笑む彼女は、それ以上何も聞かなかった。
打ち明ける悩みにしてはあまりにも重く、打ち明けたところでなんにもならない。
彼女に弱みを吐き出してしまいそうな僕は自分の心の弱さを悔いた。
答えも、意味もない疑問を自分にぶつけては自己嫌悪の念に呑まれる僕は、日々押し殺していく自分の心をまた、無視する。
ーやっぱり、あなた辛そうじゃないー
次の日も、微笑む彼女は彼の顔を覗き込んでそういった。
ー話したら楽になることだってあるのよ、話ちゃえば。ー
中学生にしては随分大人びたようなことを言う彼女。夕日に反射する彼女の髪は、淡い波のように見えた。
ー大丈夫だって、ちょっと貧血気味なだけだよ。ー
冗談交じりに笑うの僕の表情は果たして彼女には笑顔に見えたのだろうか。
ーほっといたらあなた、このまま死んじゃいそうだしー
ーいいんだ、なんでもないよ。ー
本当に打ち明けてしまいそうになって教室をあとにした。もう、心に嘘をついて笑うのすら限界だった。
その行動が、自分の心とは裏腹なのは僕は分かっていた。分かってなお、怯えていた。
僕は自分の弱みを出してしまうことに怯えていた。あの場に残っていれば僕はきっと泣き出してしまっただろう。言ってしまいたい。
もしかしたら、自分のこの、今にも崩れそうな心を、彼女は支えてくれるんじゃないか。滲んで見えない靴紐を結びながらそんなことを考える彼の手は震えていた。
教室に戻った時、もし彼女がいたら打ち明けてしまおう、僕は来た道を戻った。
もう夕方だ。薄暗い教室で荷物を片付ける彼女。見ただけでなぜか泣けてしまいそうになった。
ーねぇさー
声をかけてみた。
ーん、どうしたの、忘れ物?ー
不思議そうに彼を見つめる彼女。
ーもし、もし君が誰にも言わないって言うなら、聞いてくれないか。ー
何も言わずに彼女は微笑んだ。
そのまま、僕は少しずつ話し始めた。涙で声が枯れていく、途中から何を言ってるのかすら自分でも分からない。それでも彼女は聞き続けてくれた。
そうして、彼は初めて、声にならない、それでも必死に、今までの自分をさらけ出してしまった。
ーほら、そんなにも辛いじゃない。ー
と、微笑む彼女
ー誰も悪くないんだ、母も、父も、弟も、誰もみんな辛いからだから、僕なんかが、、ー
言葉につまる、次の言葉を言い切ってしまうことはあまりにも簡単なのに、言い切ってしまえばもう何故か戻れないような気がしていた。
ーねぇー
めずらしく真剣な顔をする彼女。
ー人と比較して、なによ。ー
ー人と比べて自分が少しでも楽だからってあなたが我慢する理由なんかにならないのー
ー頭の中で、仕方ないとか整理つけようとしても心はそうじゃないんだから、そのまま泣いたっていいじゃない。そうでしょう?ー
僕は何も言えなかった。ただ、止めようとしても止まらない涙が、頬を伝っては落ち、いくら拭っても止まらなかった。
いいのよ泣いて。あなたのためのあなたでいなよ。
何も言わずに微笑む彼女は、そう言ったかのように、ただ、静かに僕の横に、寄り添ってくれた。
2人の教室に夕日が差し込む。
涙が真っ赤に染る。
あの日の教室より美しい色を僕は知らない。
あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございました。
僕自身、本当に体験したことを綴ってみました。中学を卒業し、もう彼女とは久しく会っていませんがあの優しさにとても救われた自分がいました。正直で、優しい人ほど、損をする世の中です。でも、それでも優しくありたいって思える人が本当に素敵なんだなと僕は思います。もし、この文を読んで少しでも優しくありたいと思っていただけたら、僕はとても嬉しいです。
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