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諦めることは、本当に大切なものと向き合うための作業

こんばんは。寺内温子です。

2025年1月。
私が禁酒をはじめて丸3年が経ちました。

第一子の妊娠が発覚したのが、2022年1月。
出産後は母乳で子育てをし、卒乳前に第二子の妊娠が発覚し、また完母での子育てが始まったため、気づけばお酒の飲めない生活が当たり前になっていました。

妊娠前はコロナ禍で飲み会はほとんどなく、コロナ禍以前は学生で、研究に没頭する日々を送っていたため、そもそも飲酒の機会が少ない人生ではありました。

それでもこの3年間、お酒を飲みたいなと思ったことは何度かあります。

自分の結婚式や友人の結婚式。
旅先での夕食。
久しぶりの同窓会。

そんな小さな「我慢」をかさねている最中、親戚から出産祝いに日本酒をいただき、内心モヤモヤしたこともありました。

アルコールだけではありません。
生ものやカフェインの摂取量、薬の服用から脱毛、旅先でのアクティビティや乗り物の運転に至るまで、妊産婦の生活に制限は付き物です。

しかし私はこれらの小さな我慢や制限を、あまりつらいものとは捉えず、自然に受け入れることができました。

なぜなら、何かを得るには何かを失わなければならないということが、かねてから実感としてあったからです。

何かを得るにはまず失うことを受け入れないといけない
(要擁有必先懂失去怎接受)

この言葉は、私が最も好きな広東語の歌の中に出てくる歌詞で、失うことがこわくて前に進めなくなりそうなときにはかならずこの歌を聴いています。
「富士山下」という歌で、ネット上で日本語訳も見ることができますので、以下にYouTubeのリンクも貼っておきます。

非常に詩的で美しい歌です。

ここでいう「失う」というのは、決して何かを犠牲にするという意味ではないと思います。

それは、断捨離における「1in 1outルール(ひとつ買う前にひとつ手放す)」に近いかもしれません。つまり、新しい生活を始めるときには、それまで当たり前のものとして持っていた習慣や考え方と決別しなくてはならないということです。

諦めることは、何かを犠牲にすることではない。
むしろそれは、限られた時間の中で本当に大切なものを見極め、それと真摯に向き合うための作業であり、ゆくゆくは諦めること、手放すことで自分自身がいまよりももっと楽に生きていくことができるはず。

二人の娘を育てるようになってから、私はそう考えるようになりました。

夫にはいつも、「やらないことを決めなさい」と言われます。

私自身も、そうしていかなければ生活が回らないことはよくわかっているつもりです。

しかし頭でわかってはいても、実際問題やろうとしていたことをやらずに眠りにつくこと、やりたかったことを諦めながら生きていくことは、そう簡単なことではありません。

足し算よりも引き算のほうが難しいなぁと事あるごとに思います。

人は基本的に、大事に集めてきたものを手放すのは惜しいし、積み重ねてきたものを失うことはこわい。

もしかすると、自分の力では如何ともしがたいことにぶち当たったときに、どのように自分の気持ちと折り合いをつけながら諦めるかということ自体が、人生における大きなテーマのひとつなのかもしれません。

そうして諦め、手放していく中で、最後に手元に残ったものが、その人の人生の中で最も大事にしてきたものということになるのでしょうか。

自分のDNAの半分を受け継ぎ、自分の身体を通過しただけで、自分とは別個の自我を持って生きる我が子。

どんなに言葉を尽くし、時間やお金をかけて手塩にかけて育てても、自分の思ったようには育たないのが子どもです。

それでも期待をし、勝手に裏切られたような気持ちになって、(あれだけ自分の時間やキャリアを犠牲にしたのに…)と感じてしまう親もいるでしょう。

そのうえで私は、我が子を育てるために何かを失い、それを「犠牲」だと感じる母親にはなりたくないと思っています。

当然、失うものもある。
しかし失うことで新たに得るものはかならずあり、それが結果的に本当に大切なものに近づくための一歩になる。

少しずついろいろなことを諦めながら、少しずつ身軽になり、諦めることさえも楽しんでいけるような女性になっていけますように。

最後に、郷土の大先輩、柴田トヨさんの詩を引用します。

歳をとるたびに
いろいろなものを
忘れてゆくような
気がする

人の名前
幾つもの文字
思い出の数々

それを さびしいと
思わなくなったのは
どうしてだろう

忘れてゆくことの幸福
忘れてゆくことへの
あきらめ

ひぐらしの声が
聞こえる

詩集『くじけないで』より、「忘れる」


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寺内温子 / 育休中のママ編集者
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