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人と食べるご飯

先日、信頼している方の繋がりで、仲間になり、親しくなった人たちと
一緒にご飯をつくって食べる機会があった。

これまでにも一緒に料理したりご飯を食べる機会があったが、
わたしは結構緊張してしまって、どう立ち回ったらいいか
分からなかったり、食事を楽しむことができなかった

だけど、ほんの少しだけど、前より気を張らずに料理が出来るようになり、
料理すること、食べることにも緊張が減り楽しむことができた。

そして、繋がっていると思える人と、作る料理・食べる料理は、
心もお腹も温まって満たされるんだな、と思えた。
そして、食事の「普通の量」ってこのくらいなのか、と
知る機会にもなった。

思い出してみると、私が育った家庭の食事は、
「ただお腹に食事を入れること」が目的になっていたんだと気付いた。

食べ合わせや、栄養、彩りなんかは考慮されないメニュー、
作ってもらった食事に感想やお礼を言ったりするでもない家族たち。
むしろ、父からは作った母に対して「味が一定しない」とかなんとか、
どうでもいい文句が出ていたくらいで。

しかも家族は全員ヘビースモーカーだったし、さらにその中でも父や母は
基本的に酒を飲んでてアル中みたいなもんだったし。
その上、よく分からない味やレシピへの「こだわり」が多くて。
結局味は濃いし、しょっぱかった。

手作りの料理も味は濃いし、さらに、「美味しい美味しい」と言って
父がよく食べ、都度私に分けてくれたのは、カップ焼きそばや
ラーメンなんかのインスタント食品やおつまみばかりだった。

そして、たまに連れて行ってもらう外食も別に楽しくもなかった。
味は不味いわけじゃなかったけど、家族の外食を楽しむんじゃなく、
「父の好み」に付き合わされているような感じだった。
行くお店も決まっていて、「すごくおいしい」とか「サービスが良い」とか「雰囲気がいい」とか、何か心が動いたことはなかったから、
記憶もとても薄っぺらい。
そしてやっぱり、父以外誰も「楽しんでない」のだ。

仲間と食べる食卓はとても楽しかった。
まず、「料理を楽しみにしてくれている」人がいる。
そして、「美味しく食べてほしい」と思いながら料理をする人がいる。
料理にも感想を伝えあい、色んな話をしながら、
食事にもゆっくりとした時間が流れる。
しかもホットプレート料理だったから、全員調理にも参加できるし、
できあがっていく時間も楽しみが増え、同じものを囲んでいる感覚で
繋がりも持てるし、温まっていく。

わたしも、こうやって過ごしたかった。
きっと、普通の家では交わされるような、
「今日は秋刀魚が美味しそうだったし、旬だから焼いてみたよ」とか、
「いつもと違う味付けにしてみたよ」とか、そんな会話も、思いも、
記憶の中の私の家族には見当たらなかった。
ただ、家族それぞれの「むき出しの気持ち」、「配慮の無い気持ち」
「ただの行動・行為」なんかが並んでいる食卓だった。

だから、「身体のごく一部、胃だけ」が物理的に満ちるような、
そうしておかないと、やるせなくなってしまうような食卓だったんだと、
何の繋がりもなくて、ただ、お互いの好みを並べるだけの、
寂しさであふれかえるような食卓だったんだと、今気づいた。

本当は、料理も食事も、もっと繊細でもっと思いに
溢れたものなんだと思う。
家族を無意識に肯定していて、私の食事に対する認識も
とても薄っぺらくて、物質的で、「ただお腹を満たす」ものになっていた。

やっと気づけてから、食べ物の味が濃く、深く感じられるようになった。
少しの量でも満足し、満ちるようになった。

心と体を、もっともっと「正常」に近づけていきたい。

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