巡る、出し切る
ふと夢を見て、ふと、気付けたことがある。
このnoteにも度々出てくる「お世話になっている人」、その人はわたしにとって、親代わりというか、「心の底から信頼できる人」というか、そういう人だ。
親代わり、といっても、まぁ毒親育ちだから一般的な親がどうかは知らないが、
その人は、人の選択や尊厳を奪うことは決して無いし、
同じく人を否定、拒絶することも、ない。
対峙する相手のことをよく知った上で、「相手にとって(ものすごく重要なポイント)」おかしいと思う事は批判してくれる。
同じく「相手にとって」嬉しいこと、楽しいことは同じように喜んでくれるし、応援して伸びるようにサポートしてくれる。
だから、少なくともわたしにとって、
そして、なんだか心の底に悲しみや寂しさを背負っていて、
「どうにか誰かを傷つけずに解決したい」と思ってる人にとっては特に、本当になくし難い人だと思っている。
その人が勧めてくれたことがきっかけで、こうして書き出すことを始めた。
そして、わたしの日常生活には、「その人から教わったこと」が散りばめられている。
それらは、受け取った時から輝いたり、味がしたり、響いたりして、刺激になって何かをわたしに刻み、理解させてくれることもある。
一方その時のわたしには、心地良い空気やとても細かいミストのように、
あまりにも繊細で優しくその場に調和して馴染んでいたり、
わたし自身が疲れていたり他の何かに気を取られていて気付けなかったりして、
しんしんと、心の奥に降って積もっていたものもある。
この、積もっていたものたちが、
ふとした時に「タイミング」が来ると
芽を出してくれるのだ。
今日、さっきもそういうときだった。
わたしたちの感情というエネルギーは膨大で繊細で複雑で、
今は忘れてしまっているような、幼くて、純粋で、世界が狭くて広くて無限で、自由で不自由な時に、
むくむくと生まれ、芽を出し、育って、今の感情の大本になっている。
この時に「毒親」だったり、
「お互いの意思疎通がうまく行かない(構造やパワー的に毒親ではなくても親側が原因のことが多い)」と、
その芽は傷付き、曲がり、一部が腐ったりする。
この時に、「これは傷だ!曲がった!痛いよ、折れてるよ!」なんて気付けるといいんだけど、
大概は「よかれと思ってやってもらった」ことだったり、
「当たり前のように親が肯定している」ことだと、子供はその芽をそのままにする。
きちんと気付ければ、親に訴え、真っ当な親なら治したり手当したりしてくれるだろうし、
そうじゃなくても、もうすでに大人であれば、自分や他人の力を借りて治せる。
逆に治してないと、「傷を肯定する、よいものとする」こととなり、
他人に分かってもらおうと押し付けたり、分かってくれそうな人(大概は幼い子どもや女性)に擦り付ける。
これがまた、傷(悲しみ、寂しさ、淋しさ、悔しさ、怒り)を生む。
先程は「大人であれば治せる」と書いたが、実はこれ結構大変なことだ。
まず、前提の「傷に気付く」ことが難しい。本当に難しい。
そして、「傷を認めて、よく観察する」ことも難しい。
さらに「観察した上で、その傷を受けた時のエネルギー、感情を出し切る」ことも、なかなか難しい。
難しいというのは、方法が分からなかったり、認めることが怖かったりするから。
だけど、この「エネルギー、感情を出し切る」ということをしないと、上手く回らないから、
結局大切な人を傷付けたり、自分を傷付けて痛めつけたり、
果ては病気になったり、自分で幸せを遠ざけたりする。
「エネルギー、感情を出し切る」ことができれば、フラットになり、
自分なりの感情の扱い方、出し方、エネルギーの回し方を「学ぶ、分かる」土台がそこでできてくる。
この「エネルギーの巡り」が、やっとさっき、腑に落ちてきた。
長い道のりだし、「土台ができてから」の道もあるし、
先程「難しい」と書いたように、それまでの道も小さなものから大きなものまでハードルはあるし、
もう、日々コツコツやっていくしかないんだけれど、
難しくても、痛みがあっても、それを見ないふりしてヘラヘラやり過ごす人生よりも
「確実に自分に向かって生きている」と思うし、「内側が、エネルギーが巡っていく」ことはとても気持ちがいいものだ。
腑に落ちてきたこれからも、もっともっと深めて、続けていく。
今と未来の私にはそれが大切。
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