人は結局人間の道理から離れては生きて行くことが出来ないと知った
2007年。ショーン・ペン監督が作成した映画「Into the Wild」を過去に観た。知り合いの方が猛プッシュしていたので、映画はあまり見ない僕ですが最後まで見ました。
この世の中は物質主義の世界で支配されている。世の中は全てお金で解決される。裕福な家庭に育ったクリスマッキャンドレスは、幼少期から何不自由なく生活できていた事に疑問を抱き、彼が通うエモリー大学では好成績を収め、両親はハーバードのロー・スクールに通うことを勧めた。
だがそんな物質的に豊かな生活と、物事が全て物質的によって解決される世の中に嫌気がさして、学資預金を全額寄付をし、世の中の道理を知るためにアラスカへと旅立つ。
身分証明書を破り捨て、自らをアレグザンダースーパートランプと名乗り、ヒッピー生活をする夫婦と出会う。ヒッチハイクをしながら、やがて打ち捨てられた廃バスを見つけ、そこでサバイバル生活をしながら生きていくことを決意した。
幾度となく狩りに失敗し、食料が無くなり、挙げ句の果てには溶けた水で川が増幅し、帰る手段が絶たれてしまう。空腹に悩まされて口にした野草によって、中毒になり彼は結局息絶えてしまう。
最後に残した言葉は「幸福が現実になるにはそれを誰かと分かち合った時だ」と言い残したという。
人間は人間と。鳥は鳥と。ライオンはライオンと世界は全てその種族の道理の元に生かされている。いくらこの世の中が物質的なもので溢れかえっていようとも、そこから離れては生きてはいけない。
要は理想と現実は違うと言う事なんです。いくら野生動物の生活を好ましいと思ったとしても、僕達は何一つ同じ生き方が出来ない。
夜が来れば視界が奪われ、寒波が来れば寒さを凌ぐ事が出来ず。食料を取っても、それが身体に害があるのかどうかは知識に頼るしかないのです。僕は現在山の中の田舎に住んでいますが、いくらこの土地に同調した気でいても、この地に生きる野生動物達と溶け込んで生きていくことが難しい。
多くのテクノロジーに慣れきった僕達は、今現在とても便利なガジェットに囲まれている。時間を知るために時計を使い、誰かとコミュニュケーションを取るためにスマートフォンを利用する。人間の足では長距離を歩くことが困難ですし、危険を察知する能力さえも持ち合わせてはいません。野生動物と対峙する武器がないですし、寒さを凌ぐための毛皮すらも持っていないんです。
本作の主人公であるクリスは。自分は物質的な現代社会から逃れて、野生と同調できるはずだと信じていました。全てを投げ捨て、世捨て人となり、野生の道理の中で生きていけるはずだと信じてしまったんです。
人がいくらこの世の中の真実を知ろうとも、この世の中理不尽さに心が打ち砕かれそうになろうとも、悲しいかな。その枠から離れ、生きてはいけない。知れば知るほど、それが難しい物だと気がつくんです。
結局は人は人の道を歩かざるを得ない。その答えがこの映画には込められているという事です。
人は何故生きるのか?それは人が人を知るためだと思うんです。結局は人は人の愛を知り、受け取り、渡す。それが人の定めであり、役割なんです。スピリチュアル世界にいくら入り込んだとしても、この世界の物質的な物に助けられているという理由なんですよ。
だから悟りを得ようが、達観しようが、僕達は人間であり、人間社会によって生かされているんです。だからこそ、感謝をしなければいけない。人として生きられる事、支えられていること、それを知り、魂の成熟の為に日々起こる出来事を受け入れなければならないんです。
この便利な世の中を作った人が、純粋に人々が裕福になれる事を願って開発をしてきました。ですが、多くのテクノロジーを開発したとしても、必ず悪用しようとする人が出て来ます。人々を脅かす物や、戦争の兵器など。結局は間違った方向へと進んでしまうんです。
ですが、その間違った方向から僕達は知らなければいけない事があるんです。
社会があるからこそ、社会に溶け込まなければいけない。人間で産まれたならば、人と人との間にしか生きることが出来ないという事なのだろう。いくら不条理であっても、生きていくためにそのルールの元でしか生きられないという事なんです。目の前にある物をいい方向へ変えるのも自分だし、悪い方向へ変えるのも自分。自分次第で白にも黒にも変わると言うことですね。
僕はこの映画を見て今どれだけ恵まれた生活を遅れているのか?と言うことを再確認出来ました。家にいながら何でも出来る事、食うことも、寝ることも、水を使うことも、寒さや暑さをしのげる事も、何一つ不自由がない。道を歩くことも、水辺を歩くことも、全てがしっかりと安全対策がされている。いつ何処で何が起きるのか?ビクビクする必要も無いですし、夜だって町中を出歩けます。
人間が人間社会に身を置くことで、自分の身の安全が完全では無いですが、守られている。イレギュラーな感性を持ったとしても、レギュラーな世の中に助けられているという事。それが真実なのかな?と思います。
僕も昔考えたのですが、イレギュラーの感性を認めてくれない世の中はおかしいと思ってた時代があります。自分だけが正しいとも思っていた時期も恥ずかしながらあるんです。でも結局それは自分勝手な独りよがりだったんですよ。如何に自分が守られて、支えられているのか知らなかった。イレギュラーな感性をどうにかして、上手く使っていけるのか?を知らなかった。それが認められなければ、自分を閉ざしてしまった事もあります。ですが閉ざしてしまってから、非常に辛かったです。
この映画の主人公の様に自己が持つ感性だけではどうにもならないと気がついたんです。それならば、その感性を認め、受け入れながら、人の作った社会にもしっかりと交わいながら、その感性を上手く表現する。理解される様に努力をしてみる。上手くいかなければまたどうにかしてみれば良い。それが正しい生き方なのかな?と思ったんです。
その考えを持つことで自分が抱えていた問題が少しづつ改善されて、ストレスも減り、生きやすくなれた気がするんです。要は考え方一つで、自分の世界等いくらでも変えられる事をしれました。
クリスの気持ちはすっごく理解できます。彼は決して間違ってはいなかった。ただ彼は純粋過ぎた。何処までも透き通った水の様に真っ直ぐ過ぎたんです。それだけにラストのシーンはとても胸が痛くなりましたね…。
Into The Wildはすっっごくいい映画でした。僕の知り合いの方も、この映画の影響で夜雪山にこもってキャンプをする様になったとかw彼は凄い方ですが、それと同時にとても純粋な方なんです。「本当にこの映画は君に見て欲しいんだ」って熱が籠もったプッシュのお陰でこの素晴らしい作品に触れられたので感謝ですね!
もし気になった方は見てみて下さい!
それではまた🧑🤝🧑🧑🤝🧑🧑🤝🧑🧑🤝🧑🧑🤝🧑🧑🤝🧑🧑🤝🧑
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