90年代のライジングプロダクションについて
ライジングプロダクションは、1985年に芸能プロモーターの平 哲夫がアイドル歌手である荻野目洋子と共に設立した芸能事務所。
主に女性アイドルや女性タレントの育成に力を入れており、1990年代後半には男性アイドルを送り出してジャニーズ事務所とライバル構図を形成した。
沖縄アクターズスクールと協力関係を結んで一大ブームを築き、安室奈美恵やSPEEDといったアイドルを売り出した一方で他の芸能会社に比べて事務所の知名度が少し低い。基本的に送り出されるタレントや歌手たちはB級ポジションで活躍していることが多く、B級路線のアイドル事務所である。韓国で例えれば「DSPメディア」のようなポジションだとされている。
●沖縄アクターズスクールとの関係
ライジングプロダクションとは1992年に協力関係を結んだが、実はそれ以前の1987年~1991年頃までは秋元 康が特別顧問みたいな形で養成所の運営に関わっていたことがある。
沖縄アクターズスクールは、1983年に開校したものの、スターが育たず沖縄ですら話題にならなかった。そこで養成所のマキノ社長は、秋元 康にプロデュースを依頼。秋元のネームバリューを借り、1988年から約1年間、地元のテレビ局で¨夕やけニャンニャン¨風のアイドル育成番組「CATCH TV」をスタート。そこで選ばれた早坂好恵、里中茶美(ISSAの姉)、奥永知子、3人組のアイドルユニット「BANANA」などがデビュー。その甲斐あって地元でアクターズスクールの名を広めることに成功した。
同校はキチンとしたレッスンを受けさせ、歌って踊れる歌手の育成を目的にしていたが、秋元が担当していたアイドルたちはほとんどレッスンさせずにデビューさせていたのでマキノ校長は秋元のやり方に納得がいかず、決別したという。以後、秋元 康が同校を離れ、初心に戻り本格レッスンに力を入れることで多くのスターを輩出することに成功した。またB.B.WAVESをはじめ、先輩歌手のバックダンサーを務めていた練習生を後に歌手デビューさせるというやり方はジャニーズ事務所のジャニーズジュニアを参考にしたものである。
●90年代を代表するアイドルたち
★スーパーモンキーズ(SUPER MONKEY'S)
1992年にデビューした女性アイドルグループ
元々は沖縄アクターズスクールの練習生20人ほどの総称であり、その後、男女7人組となるがデビュー前に女の子の5人組に変更された。初期段階の男女7人組は1997年にデビューするFolderに受け継がれた。初期の頃は地下アイドル的なイメージが強く、ブレイクしなかった。1994年にグループ名を¨安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S¨に改名し、1995年に発表したシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」が大ヒットを記録した。
★安室奈美恵
ライジングプロダクションや沖縄アクターズスクールに加えて1990年代を代表する女性歌手であり、茶髪のロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツなどといった彼女のファッションスタイルや髪型、メイクなどに憧れる若い女性たちが大量発生した「アムラー・ブーム」を巻き起こした。
★MAX
1995年にデビューした女性アイドルグループ
当初はシングル1枚だけの企画物として結成されたが、3枚目のシングル「TORA TORA TORA」がスマッシュヒットし、avexのMAX松浦の意向でグループは活動を継続することとなった。初期の頃は、ユーロビート路線で通常のアイドルのように簡単な振り付けを踊るようなコンセプトだった。その後、カバー曲を脱し、独自の音楽スタイルを確立して90年代後半まで人気を博した。固有の音楽ジャンルやスタイル、そして他の女性アイドルグループとは差別化されたイメージを持っている。
メンバーの松田律子と宮内玲奈は、MAX、スーパーモンキーズに加入する前にC.C.ガールズのような3人組のセクシーグループとしてデビューする予定だった。宣材写真の撮影やレコーディングをするなど、デビューに向けて着々と準備をしていたが、事情によりグループの活動は白紙となり、また沖縄へ戻ることになった。その後、先にデビューしていたSUPER MONKEY'Sから2人のメンバーが脱退する事になり、そこに社長の目に止まっていた松田律子と宮内玲奈が加わったという。
★知念里奈
1996年にデビューした女性歌手
安室奈美恵の成功に続いてライジングプロが「第2の安室奈美恵」を狙って送り出した。1998年、5枚目のシングル「Wing」でブレイク。先輩である安室奈美恵やSPEEDに比べると認知度が少し低く、人気もだいぶ劣るためB級歌手といった印象が強い。それでも2、3曲ヒットした歌があるので90年代を代表する女性歌手の1人だと言えるだろう。
★SPEED
1996年にデビューした女性アイドルグループ
グループ名は日本テレビで放送されていた「THE夜もヒッパレ」内で公募したものから名付けられ、当時のメンバー全員が小・中学生であったことが大きな注目を集めた。当初、ライジングプロの平 社長は今井絵理子と島袋寛子を2人組のアイドルデュオとして売り出したかったが、「子供を2人だけで歌わせるのはかわいそう、なにか物足りない、あと2人ぐらい入れてみよう」と判断して上原多香子と新垣仁絵を加入させて4人組にしたという。
4人体制となった際には、事務所の先輩である安室奈美恵やMAXの成功をもとにユーロビートの楽曲を歌い、カウボーイハット・スカートの衣装を着てデビューする予定だった。しかし、メンバーたちがテレビ番組で「アメリカのTLCみたいなグループになりたい!」と言ったことがきっかけでストリートファッションを纏い、かっこいい路線でデビューした。実際にプロデューサーを務めていた伊秩弘将は「彼女たちを初めて見たときは、ユーロビートで踊っていた」と明かした。デビューから3年弱の期間でヒット曲、ミリオンセラーを記録し、一世を風靡した。
★D&D
1996年にデビューした女性アイドルグループ
同じ3人組であるアメリカの「TLC」をベンチマークしたグループで、ボーカルのOLIVIA、ヴィジュアル担当のAya、ダンス担当のChikanoと3つのポジションに分かれていた。そしてパフォーマンスをする際もボーカルがセンター、後ろにダンサーが2人という構成をとって活動した。この路線は後に同事務所からデビューするEARTH、w-inds.、AN-Jなどに受け継がれた。
当時、流行していたユーロビート路線の楽曲を中心に活動したが、同時期にデビューしたSPEEDが大ブレイクしたため、B級アイドル的なポジションで活躍しており、あまり良い成果が残せなかった。
★DA PUMP
1997年にデビューした男性アイドルグループ
ライジングプロダクションおよび沖縄アクターズスクール初のボーイズグループで当時、爆発的な人気だったジャニーズ事務所所属の¨SMAPのライバル¨として結成された。ヒップホップコンセプト+スーツ衣装+R&Bやダンスミュージックを取り入れ、キャッチーなメロディーにラップを織り交ぜて歌うスタイルでジャニーズ系との差別化に成功した。
SPEEDと同様に当初は、奥本 健と玉城幸也の2人組だったが「2人では見栄えが悪い、物足りない」とされ、宮良 忍と辺士名一茶が加わり4人体制でデビューしたので「男性版SPEED」と見ることもできる。バラエティ・映画・ドラマなどにも多数出演し、レギュラー番組を持つなど新たな新境地を確立。非ジャニーズ系の男性アイドルで初めて成功したグループという評価を受けた。
★Folder
1997年にデビューしたライジングプロ&沖縄アクターズスクール初の男女混成アイドルグループ
女子5人・男子2人で構成される7人組の混成グループというのは当初のスーパーモンキーズを引き継いだものである。「男女混成グループ」・「小学生男子のボーイソプラノを活かしたハイトーンでパワフルな歌唱力」・「メンバーの息の合ったダンス」といった点は同じ沖縄県出身の男女混成グループだった¨フィンガー5¨をお手本にしていた。フジテレビで放送されていた子供番組「ポンキッキーズ」とタイアップし、同じ事務所の先輩でシスターラビッツとして出演していた安室奈美恵の後継として、Folderメンバーが入れ替わりながらレギュラー出演していた。デビュー時の平均年齢が12歳弱ということ、ボーカル・三浦大知の歌唱力、女子メンバーのハーモニーの高さ、キレのあるダンスパフォーマンスが大人からも注目を浴びた。
●キャスティング力
ライジングプロダクションの平 哲夫代表取締役、沖縄アクターズスクールの牧野正幸校長は、練習生の選抜やキャスティング力が優れていることでも有名である。代表的な例として、安室奈美恵、島袋寛子、D&D、宮里明那、知念里奈、初期のDA PUMPのメンバー、橘 慶太、EARTH、Lead、谷村奈南、フェアリーズのメンバーなどが挙げられる。ルックス、歌唱力、ダンスなどに加えて、グループのメンバー構成なども他の事務所のアイドルたちに比べてバランスよく成し遂げられていると評価されている。
●ハイトーンボイス
ライジングプロダクションが売り出したアーティストの中には島袋寛子、三浦大知、OLIVIA、邊土名一茶、橘 慶太、東郷祐佳などグループに必ずハイトーンボイスが売りのメンバー&ボーカル担当が1人存在しているのが特徴的である。一例としてライジングプロダクションの平 哲夫はSPEEDを売り出す際に「子どもの面白さで勝負がしたい!」と沖縄アクターズスクールを訪ねてきたが、当初アクターズスクール側は子供だけでデビューさせる予定はないと話を断った。しかし、何度も交渉を重ねるうちに平社長の熱意に負け、アクターズ側は了承。最初は歌の得意な今井絵理子と島袋寛子で2人組のボーカルデュオとしてデビューさせようとしたが、「子供2人だけでは可愛そうだ」ということでルックス担当の上原多香子とダンス担当の新垣仁絵を加えて4人組になったという。以後、高音ボーカル+ダンスという構成のグループを多く売り出すようになった。
1990年代に全盛期を経験し、大手芸能プロダクションの一つとして成長した。しかし、2000年代に入ると人気グループの解散やメンバーの不祥事・脱退、平 哲夫氏の脱税事件、沖縄アクターズスクールとの関係を断絶するなどの影響で事務所の勢いが衰え始めた。
またLDH、スターダストプロモーションといった他のアイドル芸能事務所や特撮番組に出演していたイケメン俳優などに男性アイドル・男性タレントのポジションを奪われてしまったため、以前のような勢いは見られない。