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この知的暴力を正面から受け止められるか?──コンヴィチュニー演出・二期会『影のない女』
1回のスワッピングでどっちにも子がデキちゃった話。R.シュトラウスのオペラとは到底思えない? いや、むしろオペラ的なのかもしれない。ペーター・コンヴィチュニー演出による二期会『影のない女』は、いつもの彼らしく良識派の観客の眉をひそめさせ、げんなりさせる奔放な読み替えで、非良識派の期待に応えた。これがワールドプレミエであることが日本人として誇らしいと感じたのは自分だけだろうか。
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(C)Werner Kmetitsch
舞台は現代。皇帝はギャングのボス、皇后は娼婦のなりで、キャデラック風の車から降りてきて、ピストルの銃撃音が鳴り響く。遺伝子組み換えのラボやメンタルクリニックや高級ダイニングで、キャストたちが不毛なもめ事を繰り広げる。この程度なら、ここ30年ぐらいの欧州オペラ演出の平常運転の範囲内だろう。
コンヴィチュニーに対して、今や古い/新しいの判断基準はふさわしくない。クラシカルとは言わないが、これはもうスタンダードなのだ。だから、表面的なスタイリングに囚われてはならない。
コンヴィチュニーは新聞の取材に応えて、『影のない女』に窺える女性蔑視は受け入れがたいとのコメントを残している。オファーがあったから引き受けた仕事のようだ。むろん彼はプロフェッショナルであるから、共感できないなりにこの作品をどう今の時代に立ち上げるか思案した。
オリジナルの『影のない女』は、ありていに言うと妊娠オペラである。皇帝と皇后、染物屋のバラク夫妻、この二組が不妊を乗り越え、来るべき子宝を礼賛する。「影」とは女が妊娠する能力のことであり、つまり「影のない女」は妊娠できない。この設定から、正直ちょっと…と感じるのが現代の感覚だろう。要するに、不妊の理由が女性だけに押しつけられているわけだ。男が種無しなんじゃないの?という発想は皆無なのである。
コンヴィチュニーの演出では、記憶が鮮明ではないのだが、バラクの妻は序盤から、皇后もおそらく中盤からお腹が不自然に膨らんでいた。クッションかなにかを入れているようだが、妊婦のように見せているのが面白い。影があるかないか(=妊娠できるかどうか)は無意味化しているように思えた。
この二組が、冒頭に書いたようにスワッピングを行うわけだ。バラクの妻を皇帝がレイプする。裏切られた皇后はバラクを誘惑して彼に跨る。プレイとしてのスワッピングとは言えないし、B級ロマンポルノみたいだけど、まあそういう自暴自棄の気分や欲望は、特別なものではなく、ある意味では人間的だろう。もっと言えば、人間も動物であり、「つがい」は入れ換え可能という唯物論的な認識さえ見えてくる。
「一発一中」で二人とも妊娠するのは、コンヴィチュニーにしては少々拙速では、というのは冗談としても、二人とも出産にまで至るのはオリジナルにはないアレンジである。しかも、皇后の赤ん坊は生れ出てすぐに、からかうような調子で極めて厭世的なセリフを(今回の公演では日本語で)発する。ふざけきった悪趣味、殺伐とした乾きはコンヴィチュニーの真骨頂だ。赤ん坊は「望まれなかった命」の代弁者として機能する。まさにオリジナルとは真逆の方向性だが、そこに人間社会の古くて新しいリアリズムを感じた。
歓喜にあふれる第3幕のエンディングはカットされ、第2幕第5場が最後に置かれた。皇帝とバラクは高級ダイニングでつるむならず者で、女たちは始末され、皇帝は赤ん坊を連れて去ってしまう。女たちは使い捨ての「産む機械」と言わんばかりのバッドエンド。あまりにも単細胞で妻依存だったオリジナルの皇帝とバラクを、純然たる悪に転化した。ここでコンヴィチュニーは、幼かった男たちを力尽くで独り立ちさせたのかもしれない。
オリジナルのエンディングは、現代の感覚だと相当に白々しく、ご都合主義の極みである。イソップ寓話の「金の斧」の世界観。正直さ、善行ありきで、しかもそれを女性だけに求めている。コンヴィチュニーも“終わりよければすべてよし”の世界だと批判的に指摘しているぐらいだ。ベートーヴェンの『フィデリオ』のエンディングの耐え難さをあらためて思い起こした。あれを漫然と喜んでいる場合ではない。
音楽にも少し触れておこう。本作は壮麗なオーケストレーションが聴きもので、ライトモチーフ的な手法も霊感に満ちている。R.シュトラウスのオペラなら『サロメ』や『ばらの騎士』より断然好きだ。オケの演奏はおおむね的確だったが、室内楽的な響きの場面では、緊密さよりはその薄さが気になった。いつも感じるが、やはり会場(東京文化会館)が大きすぎるのかもしれない。歌手は、バラクの妻役が中低音域で痩せた地声を放ってしまう瞬間が結構あった以外は、健闘していたと思う。
ただ、コンヴィチュニー演出の醒め切った世界を構築するために、演者のたたずまいはかなり重要なファクターであって、どうだろう、純日本人的な体格は不利だし、お人よしの雰囲気が抜け切っていないとうまくはまらない気もする。
世評では、オリジナルの音楽が切断されたり丸ごとカットされたりすることへの憤怒や怨嗟の声が多い。そこまで潔癖なのかと驚いてしまう。自分はそのあたりにほとんど抵抗はない。著作権が切れていればそれは人類の共有財産だろう。著作権が切れていなければ著作権料を払えばいい。後世のクリエイティヴィティは、先人の成果から連なるものである。そこではあらゆるチャレンジが認められるべきであり、それを受け入れるのが文明的態度だと考える。
そもそも、劇場には魔物が棲んでいるし、オペラ自体が生き物ではないのか。コンヴィチュニーはブレヒトの大きな影響を受けている。劇とは、メタであり倒錯であり問題提起であるという信念。とはいえ観念に逃げず、そこにはふてぶてしい肉体がある。
寿司と温泉を好む花鳥風月の国。天皇を断頭台に送らずに無血革命を二度(明治維新とGHQ統治)も成し遂げた国。そんな趣深いポライトな国・日本の人々が、コンヴィチュニーの知的暴力を受け止めるには、一定の覚悟が求められる。誰もが認める古典の甘美さに酔うだけでは、人生は詰まらない。
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