天国行きを目論んでさまよう4人の亡霊。『独裁者たちのとき』
ヒトラー、スターリン、ムッソリーニ、チャーチルの実写映像からサンプリング&リミックス。その画像処理と構築だけで4年かかったという。自慢やぼやきや嘲りを主体とする彼らの台詞もすべて実際の手記や発言から引用された。まさにミュージシャンシップならぬDJシップの根性焼きを見せつけられるようなマジカルな映像体験である。AIによる処理はほぼ行われていないことを、ソクーロフ監督自身があえてアナウンスしているほど、加工の痕跡が感じられず、驚くばかりだ。
むろん、本作の映像は、解像度の高いリアリズムを志向しているわけではない。4人の動きはかなり緩慢であり、荒涼とした廃墟が広がる中、連れ立って彷徨している。全編で霧がかかっているようにかすんでいて、まさに夢の中のようであるが、「悪夢」とは言い切れない曖昧さが効いている。地獄でも天国でもなく、その中間的な「煉獄」の設定だという。天国行きを目論んでさまよう4人の亡霊の姿は、生臭くも哀れだ。
第二次大戦時の権力者たちを集結させているわけだが、チャーチルが含まれていることに最初は違和感を抱いた。常識的には、チャーチル以外の3人が「悪」のセットではないか? しかも、ここでのチャーチルは、必ずしもその他3人と対峙する「正義」ではない。3人ほどワルではないが、同じ程度に油断ならない狸親父として描かれるところに、ソクーロフらしい冷徹で相対的な眼差しを見出すことができ、ようやく合点がいった。逆に言えば、過去作『太陽』でフォーカスした昭和天皇をここで再登場させなかった意図も、なんとなく理解できる。昭和天皇は、正確には権力(=政治家)ではなく権威(=王)であり、ラインナップに入れなかったのはソクーロフの見識だと見ていい。
4人には複数の「分身」が現れ、互いに会話を交わしたりする。それはクローンというよりも、アメーバの分裂・増殖を想起させ、どこか原始的だ。巨大な祝祭空間のような場所で、群衆が液体状に一体のうねりとなって蠢き、ヒトラーたちが手を差し伸べるシーンは、間違いなく本作のクライマックスだが、その不気味な海のような形象は、個体となる以前の細胞組織を思い起こさせる。この種の生物学的なメタファーが興味深い。ソクーロフの先輩筋にあたるアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』の舞台となった惑星の王国は、SFでありながら泥と糞尿まみれの中世的都市だった。観念論は軟弱な西欧の所産。と言わんばかりにそれを本能的に忌避し、唯物論に傾くソ連映画の誇り高き伝統が、本作にもはっきり表れている。
背景となっている廃墟のイメージの源泉は、18世紀イタリアの版画家・建築家のピラネージの作品だという。ローマ遺跡から霊感を得て、独特の奇怪な空間を描出した彼には、考古学の関心とともに類稀な空想力が備わっていた。それは本作に至るまでのソクーロフのフィルモグラフィーに通じる。現にソクーロフは、いくら真摯に歴史と向き合ったとしても、すべてを理解するのは困難だとの主旨をインタビューで述べている。不明の部分を中腰で引き受ける忍耐強さと、自身のイマジネーションに身を任せる勇気。そういう美点が、今回も霧がかった画面から確かに伝わってくるのだ。