東山魁夷は風景画家なのか?
東山魁夷は風景画家なのか? この問いについて、かねてから思うところがあった。先月まで山種美術館で開催されていた『東山魁夷と日本の夏』に足を運び、さらに突き詰めて考えたくなったので、その思考の足跡を残しておく。
この特別展では、同館が所蔵する魁夷の全作品が展示された。スケッチを含めて19点。なかでも白眉だったのが、川端康成からの勧めで、時代の波に飲み込まれる前の京都の風景をとどめるべく制作された連作『京洛四季』だ。
このうち《年暮る》はこの館でたびたび展示されているように思う。見かけるたびに感銘を受けていたが、4つの連作として観ると、あらためて感じ入るものがあった。
鷹峯にちなんだ《春静》と、修学院離宮を描いた《緑潤う》は、たまたま今夏の京都旅行で訪れた先でもあったので、現地の記憶を呼び起こしながら観た。そうそう、こんな感じだったな、と。旅行記でアップした写真も観ていただきたい。
確かに4点とも風景画である。しかし、写実を極めているわけではないのもまた事実だ。これらは風景画といっていいのだろうか。風景といっても、画家の心象風景ではないのか、と思えてならないのだ。
若き日の魁夷は、師の結城素明から「心を鏡のようにして自然を見ておいで」と助言されたという。言葉通りに受け取るなら、虚心坦懐に写生に励むことの大切さを説いたものといえるし、実際に魁夷はそういう態度を終生堅持した。
しかし、このエピソードは、主観を排して客観的に写し取る、という単純な話ではないはずである。なぜなら、自然を写す「鏡」は、ほかの誰でもない画家自身の胸のうちにあるからだ。いくら写実であっても、人間が描く限り、描く者のフィルターを通すことになる。
ドイツに留学した魁夷は、ロマン主義の画家フリードリヒを初めて日本に紹介した。魁夷自身も影響を受けているとされる。フリードリヒは、ゲーテやシラーを起点とするシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の継承者にして体現者である。彼の風景画には、自身の主情が色濃く反映しており、宗教画のような威厳さえ湛えている。
魁夷の場合、さすがにシュトゥルム・ウント・ドラングではないし、それを日本的なるものにアレンジしたというわけでもない。といって、花鳥風月や生々流転のような典型的な和の趣とは距離がある。まぎれもない日本画だが、それは平面性の重視といった造形の面では当てはまるものの、むしろ国籍・地域性は希釈されている。
雪降る大晦日を描いた《年暮る》は、除夜の鐘が聞こえてくるがゆえに、静寂に包まれている。沈黙や無音ではなく、静寂。そんな印象は、連作の他3作にとどまらず、代表作の多くに共通している。
今回の展覧会でも展示されていた幅9メートルに及ぶ《満ち来る潮》(※ヘッダーの画像はその一部)は、砕け散る波しぶきの勢いが優勢で、彼にしては珍しくしんとはしていないかもしれない。とはいえ、同じ大作であっても、例えば唐招提寺の障壁画に描かれた山海の景色は、やはり静けさが支配的だ。絵の物理的サイズに比例して、画家の主張も大きくなり、どうしても「騒々しく」なってしまうという傾向は、魁夷には必ずしも当てはまらない。
彼は静寂を描く画家だった。その意味で日本的な美感が根底にあるが、立ち現れる世界はユニバーサルである。だから彼の作品は、どんなに静謐でも豊穣なのだ。人がまどろみの中に見る夢のように、儚くも生々しい。