自問には意味はあるが、そこで終わっては意味がない。『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』
本日(5/12)終幕。出品者の飯山由貴が、内覧会でイスラエルのガザ進攻に抗議し、美術館の支援企業を名指しで批判したことでも話題となった企画展だ。
タイトルの『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』は、ドイツの作家ノヴァーリスが、18世紀末に書き記した以下のような文章に依拠している。
国立西洋美術館は、「現在」ではなく「過去」、「東洋(日本)」ではなく「西洋」の作品が集められている。そのような収蔵品に、現代を生きる日本のアーティストの作品を組み込んで展示した。
古典が今もなおインスピレーション源たりえるような「場」を提供できているか。美術館としての自己省察が、この企画展の軸である。作品を並置する方法が多く採用されていたのは、そのためだろう。
なかでも、極めて冷徹な緊張関係を孕んでいた並置が、内藤礼の新制作《color beginning》である。セザンヌの《葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々》に並べられたのは、ほぼ真っ白に見えるキャンバス。会場の誰もがまず困惑するはずだ。
しかしながら、立ち位置をさまざまに変えて目を凝らし続けると、なんとなくかすかにピンクとブルーが浮き出てくる感覚が生じたのは私だけだろうか。それらはセザンヌ作品のキーカラーである。しかしすぐに、しょせんは錯覚かもしれないという疑念が頭をもたげる。キャプションには、「比較ではない」と書かれているのだが、比較せざるを得ない。そういう人間の本能からは逃れられないわけで、なんと恐ろしい作品だろう。内藤らしい研ぎ澄まされたコンセプトに心地よく刺された。
ロダン作品を横倒しにしてしまった小田原のどかのインスタレーション。そう書くだけだとセンセーショナルかもしれないが、4年前に英国・ブリストルで実際に起こった奴隷商人の銅像の引き倒し騒動を下敷きとして、関東大震災に関する史料など、いくつかの素材をミックスして作り上げており、さらに自身が記した長文のキャプションも掲示され、緻密に思考を編み上げた問題提起となっているのが白眉である。
美を永遠に封じ込めたいという近代以降の欲望に反して、作品の実物は破壊や消滅の可能性を宿命的に内包している。美術館は、容赦ない物理法則に抵抗する健気なレジスタンスの闘士なのかもしれない。そう考えると、美術館のことが少し愛おしくならないだろうか。
竹村京は、破損したモネの《睡蓮》を、絹糸で色彩を折りこんだ薄布のスクリーンと重ねて「修復」した。遺産への敬意を礎に、並置を超えた共創の関係を築くこと。ここに竹村の気概がある。
さまざまな形態の作品、展示を一通り観終わって強く感じたのは、今を生きるアーティストたちにとっては、偉大な先人とダイレクトに比較される、相当シビアなショーケースでもあったということだ。時の洗礼を受けていない作品が、無防備なまでに、非情な批評空間に晒されていたともいえる。
好みの問題といえばそれまでだし、個別に指摘する余力はないけれど、例えば、当館のコルビュジエの設計に触発されたという布施琳太郎のディスプレイを主体としたメディアアートは、いかにも線が細く、着想の遊戯にとどまっていて、居心地の悪さが否めなかった。
私見だが、アートはヴィデオの表現において、商業映画どころかドキュメンタリー映画やミュージックビデオにさえ後塵を拝している。ゴダールやキューブリックをはじめ、ホセ・ルイス・ゲリン、デヴィッド・フィンチャー、ポール・トーマス・アンダーソン、ワン・ビンあたりに負け続けているのが実情だ。アートは勝ち負けではない、という言い訳は通用しない。ピピロッティ・リストでさえ、シャンタル・アケルマンを蹴落とせているかというと、かなりあやしい。アピチャッポン・ウィーラセタクンは健闘している方だが、彼の場合、商業映画の文脈にある作品の方が、アート範疇の作品よりもはるかに魅力的で、アートの行き詰まりを逆に浮き彫りにしているともいえる……と連想が止まらなくなるがこのあたりにしておこう。会場では、自らストリッパーと共演した遠藤麻衣の体当たりの映像も、美術とエロスの共犯関係に批判的に迫りつつ、その再生産にとどまっている感があった。
現代のアートがコンセプト偏重となるのは、ある意味仕方のないところではある。とはいえ今回は、キャプションに限らず、作品自体に膨大なテキストが盛り込まれているケースが散見され、会場全体がテキスト過剰というべきか、意味やロゴスが氾濫していて、なんだか疲れてしまったというのが正直なところだ(上記の小田原のどかは成功例だが)。
件の飯山由貴のインスタレーションは、その顕著な例。とにかく言いたいことがある、訴えたいことがある、というパンク精神のほとばしりを好ましく思いつつ、あまりにそれが無骨でのけぞってしまう。個人的には、もっと練り上げられ、網膜上の美や巧みな仕掛けに昇華するフェイズを待ちたいという気持ちにもなった。彼女はオノ・ヨーコやマリーナ・アブラモヴィッチになれるだろうか。
『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』と問うのは自由だが、今後どうするのかが肝要だ。収蔵品を素材にした新作をお披露目するだけでは済まないだろう。田中功起のように、展示方法への具体的な提案それ自体を作品化したものは、未来志向でひとつのあるべき姿を示しているといえる。実際に常設展で、子どもの視線の高さに展示するというアイデアが一部試験的に導入されていたのは面白かったが、さらに館には、現実的で地に足のついた取り組みを推し進めてほしい。
国立の美術館が自問して終わりだったら、いかにも大御所の余興になってしまう。西美の今後の在り方について、蒐集やラーニングプログラムの方針の推移を見ていきたい。企画をひねり出すのは悪いことではないが、それよりもここが常に開かれたアクセス・交流の場となるよう心を砕くことのほうが、よほど大切なのではないだろうか。
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