純真と不純を攪拌するポップの魔法──ビリー・ポール『360 Degrees Of Billy Paul』
(この記事は、だいぶ前にブログに掲載していた記事を大幅にリニューアルしたものです)
1972年にリリースされたビリー・ポールのアルバム『360 Degrees Of Billy Paul』はなかなか趣深い。というのも、のちに結婚披露宴の定番BGMとなった”Let's Stay Together”と、いかにも結婚披露宴の場にふさわしくない”Me And Mrs. Jones”が1枚に収録されているからだ。
前者はアル・グリーンの全米ナンバー1ソングのカバー。歌詞の内容は、タイトルのとおり「いつもいっしょにいよう」という純愛ものだ。ピーター・バラカンは、著書『魂のゆくえ』で、友人から結婚パーティーの選曲を頼まれたとき、アルの歌うこの曲で最後を締めくくったと記している。
こちらはアルのオリジナル。
15分で作詞したというアルが、キリスト教式で神父が読み上げる誓いの言葉「病めるときも健やかなるときも、悲しみのときも喜びのときも…」を意識していたのは間違いないだろう。とにかくストレートな愛の歌である。
後者はビリー・ポール最大のヒット曲だ。日本でも通俗的によく知られたヒットソング(と思うけど最近はどうなんだろう?)だが、歌詞内容は、要するに不倫である。
目に浮かぶような光景だが、あくまで表現が抑制的なのがいい。歌詞全体を通して「やましい、でも抑えられない」といった感情の揺れが効いている。
「細心の注意を払わないと。高望みしてる場合じゃない」と自分に言い聞かせている主語がWeというのがじんわり熱くない?
これを書いたのはプロデュース・チームのギャンブル&ハフ。2人が作曲し、名パートナーのケリー・ギルバートが詞を提供した。フィリー・ソウルの全盛期を築いたチームらしいさすがの職人芸である。とはいえ、この歌詞では、結婚披露宴で流すのは明らかにご法度だろう。
ところが、ビリー・ポールのアルバムのこの2曲において、歌詞は無視して──たいていの日本人は洋楽とそのように接している──音像だけに耳を傾けていると、少しやっかいな事態がやってくるのだ。
まず、”Let's Stay Together”のビリーのバージョン。
アルのオリジナルに比べるとかなりスロー・テンポで、まずそこに意表を突かれる。コードワークにしても編曲にしても、アルのバージョンは安定感があり、メンフィス・ソウルの根っこが隠せないアーシーな肌触りが基調にある一方、ビリーのバージョンは、そもそもコードをガラッと変えていて、ジャジーな編曲も相まって、確かに美しいのだが、退廃的なニュアンスさえ出ている。もっというと、「心中しよう」と歌っているかのようだ。予備知識がないと、この曲が「アル・グリーンの”Let's Stay Together”」と認識できないかもしれない。それほどまでに、聴感が異なる。
”Me And Mrs. Jones”は、先に挙げた音源で明らかなように、ブルースやゴスペルの感覚を踏まえた情熱的なソウル・バラードであり、高らかに盛り上がるサビはほとんど「愛の賛歌」のような佇まいだ。むろん、テンションコードを使って複雑な響きを醸すことで、不穏な予感が挟み込まれるから、そう一筋縄ではいかない細やかな作りなのだが、さらっと聴くだけではそのあたりはスルーしてしまうかもしれない。
つまり、サウンドだけで判断すると、ビリー・ポールの”Let's Stay Together”は、結婚パーティーでは避けたほうがいい。”Me And Mrs. Jones”なら、英語の分からない日本人しかいないならまあオッケーじゃん?となる。半分は冗談だが、この2曲にフォーカスするだけでも、純真と不純、健全と退廃、相反する価値観が攪拌されていることが分かるだろう。それがまさに味わいであり、ポップの魔法なのである。
ビリー・ポールは公民権運動に深い関心を寄せていたことで知られている。このアルバムの”I'm Just A Prisoner”はそのことをしっかりと伝えてくれる佳曲だ。
直接の言及はないが、この囚人が黒人であるのはほぼ間違いない。無実の罪で5年間投獄されていることを嘆き、憤っている。人種差別に対するプロテストソングであり、シリアスでドラマティックなアレンジや展開が、表面的な怒りにとどまらない深さをもたらしている。
ちなみに、”I'm Just A Prisoner”というタイトルの歌は、1969年にキャンディ・ステイトンが小ヒットさせているが、まったく別の曲である。
ここでは「私は愛するあなたの囚人なの」と歌われるから、”prisoner”はあくまでフックとして機能している言葉であり、ポジティブで直球のラブソングとなっている。これは推測だが、おそらくこの曲がギャンブル&ハフの脳裏にはあって、同曲のタイトルが示す世界をぐっとシリアスに反転させて、ビリー・ポールの色に仕立てようとし、ビリーもその期待に応えたのではないだろうか。
ビリーは、ソングライターではなくシンガーだった。その点では、ギル・スコット・ヘロンやテリー・キャリアーとはやや立ち位置を異にしているが、アフロ・アメリカンとしての自覚が自身の音楽を支えているところは、やはり彼らの同朋といっていい。
なによりも、シンガーだからこそ、曲との適度な「間合い」を取るのに長けていた。白人であり女性であるサラ・ジェーン・モリスの”Me And Mrs. Jones”の卓越したカバーは、つまりはレズビアンの歌に変貌しているともいえる。でもそんなことはどうでもいい。ここには、人種や性別を超えた、先人とその成果への敬意がある。ゆえに芸能の色気が生まれ、ポップの「虚構」が煌めくのだ。
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