サルトル『嘔吐』と吐き気と重力

私は映画とか小説があまり得意ではない。とくに感動的なものや、心動かされるものがとても苦手だ。おそらく、心が動かされるその感覚に慣れていないからだろう。
しかし名著や名作というものはやはり手を出しておきたい。知らないでおくのはやはりもったいないというか、そもそも心動かされることに慣れたいのもある。そこで今回はジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』を手に取った。

そもそもなぜこれを手に取ったかというと、実存主義に興味があったからだ。「実存は本質に先立つ」という言葉が実存主義の代名詞な気がする。曲がりなりにも哲学書を読んできた中で、現代において実存主義というものは一種の完成形だということを見る。ではその実存主義とは何かと調べてみると、代表されるのがこのサルトル、そして『嘔吐』だそうだ。ちなみにサルトルが一番最初に実存主義を掲げたわけではなく、キェルケゴールなども実存主義に属するそう。詳しいことは他者にお任せする。

なぜ小説の『嘔吐』なのか

はっきり言って、この本を知ってから手を出すのに1年近くかかっている。理由は小説だったからだ。ちなみに同じ理由でニーチェにも手を出していない。今まで読んできた哲学書は小説ではなかった。小難しく書かれている本が、科学系論文のような構成、論理性でしょうにあっていたのだと思う。しかしだんだんとそれにも限界が見えてきていた。
ハイデガーの『存在と時間』なんとか読了したはいいものの、ページ数に対しての情報量の少なさに驚いた。いや、それは私の読解力のせいかもしれないが、一つの言葉を説明するのに100ページはかかっていた感覚がする。「これはーーだ。でもこの場合はーーではない」という定義づけ、証明が続いて、さすがに疲れた。
同様に、実存主義を知るために「実存主義とは」と銘打った本を数冊読んだが、さっぱり頭に入らなかった。回りくどくてわかりにくくて仕方がない。

さて、ここでなぜ小説である『嘔吐』なのかを説明する。それは、主観性だ。現象学などもここに若干当てはまるだろうが、実存主義は客観性ではなく主観性の哲学なんだと思う。これはハイデガーの「現-存在」なども当てはまる。「死への先駆」を主観的に描いたらどれだけわかりやすかっただろうか、と今では思う。このような主観性の哲学は、論理的に並べるととても厄介だ。あまりに主観性が強いと論文としてのていが成り立たなくなる。いっそのことフィクションとして成り立たせれば、回りくどいことをせずに済むのではないか、私はそう分析した。実際、これが実存主義の本として有名なのはわかりやすさとしての両立であると思う。

「吐き気」の正体

さて、本の内容の分析に移ろう。もちろん、素人の分析なのできちんとした論考を見たい方はご遠慮願いたい。全てを分析するのは面倒なのでタイトルと繋がっている主人公ロカンタンの覚えた吐き気の分析にとどめる。

もちろんこの吐き気は胃の内容物を外に出す前兆ではない。違和感、気持ち悪さとしての吐き気だ。私が考えるに、この吐き気は圧倒的情報量だと思う。ロカンタンは触れているもの、見えているものを詳細に分析し、絶対に行わない行動、独学者の目を潰すことなどを考え、吐き気を覚えていた。ここには普段は現れない量のdataが存在している。歯磨きをするとき、歯ブラシを握って、前後に歯ブラシを動かすことを考えることはない。しかしこれを意識してみると、とても気持ち悪い。無意識下の運動を意識下することがどれほど情報量の多いことなのか。潜在的に処理してくれることがどれほどありがたいのか。

さて、このロカンタンは独学者はかつて愛したアニーと会話し、そのズレを実感していく。つまり、認知するものが違う。
独学者は図書館の本をアルファベット順に読み進め、知識を得て、物事を知っていく。それに対してのロカンタンの態度は簡単に言うと苦笑いだ。二人の大きな違いは「意味」だろう。独学者はヒューマニズム、すなわち人間のため、そして己のために独学をするのに対して、研究をしているロカンタンはそういった考えはない。特に人のために、自分のために研究しているわけでもない。惰性というわけでもなさそうだ。つまり意味などないのか?これに関しては後述する。
続いてアニーとの会話だ。どうやらアニーとロカンタンはかなり近い感性を持っていたようだが、久しぶりに会うとアニーは変わっていて、よくいる女性になったんだろう。アニーにはすでに相手がいて、自分が変わってしまったことを理解していた。そして「あなたが変わらないことに安心した」、「変わらないことで自分がどこにいるかわかる」と発言している。これも独学者のものと合わせて後述しよう。

なぜ「実存は本質に先立つ」か

独学者は、ヒューマニズム、人間のためにという思想があった。これは彼が経験した戦争にも影響されていると思う。つまり、ヒューマニズムというものは彼が気づく前から存在しており、彼が気づいたことで彼の思想に「植った」のではないだろうか。独学者の求めた意味は、後天的な獲得ではないか。だが多くの人間が「人間のために考えるはず」であり、独学者もその論理をロカンタンに当てはめようとしていた。

これを簡単に(?)表現するために、物理の概念を導入する。

生まれた意味がある、ないの差というものを、「重力の支配下に置かれているか」で表現しよう。生きる意味を考えたとき、「家族を養わなければならない」といった理由が挙げられるとこれは家族という重力に引き寄せられていると言える。独学者のヒューマニズム、人間中心主義は、まさにそれらの重力下にあることで安定している。
「実存は本質に先立つ」が真だった場合、まず存在があるはずだ。しかしその存在は宙に浮いていて、何の重力下にもならない。生まれたての赤ちゃんは母親の重力に引き寄せられ、育っていく。しかしロカンタンのようになると話は変わってくる。そもそも自分が何に引き寄せられるのかというものを自覚的になってくる。ここに関しては気づかないで誰かに愛され生きていた方が幸せかもしれない。つまり生きる意味を自分が判断するということは、引力を選ぶ権利があるということだ。多くの人は隕石のように彷徨いながらエントロピーの増大に合わせて落ち着いた重力の下にいるだろう。しかしロカンタンの場合は、隕石ではなく、宇宙船である。自分で無重力下をただよいながら星々を見つめていく。
アニーもおそらく、この宇宙船だったであろう。しかしパートナーという星に着陸をした。そして「あなたはまだ宇宙船で、無重力を漂っている」ことを確認し、自分が改めて星に着陸したのだと理解したのである。

虚無主義に陥る

ここからは私の話になる。この本を読み、しばらくすると吐き気がする。もちろんこれは嘔吐するものではなく、「気持ち悪さ」である。厨二病くさくていうのがはばかれるが、共感覚的なところは多少ある気がする。この吐き気は上述の通り、物への存在、情報がゆえだった。

ものが存在する。いや、ものは存在していた。今私が認知したからこそものが存在し始めたように見えた。つまり私の主観からこのものは現れたが、存在をしたわけではなかった。このような主観のつながりから、世界が成り立っているならば、この世に絶対的な本質はないのだろう。この世で重要と呼ばれているもの、本質と呼ばれているものは、誰かの主観によって生み出されたもので、真の客観的な善、あるべき姿というものはないのだろう。
曲がりなりにも哲学を勉強し、真に良いこと、「健康とは何か」を考え続けた結果、このシンプルかつ無意味にも取れる結論に至るとは。

ここまでくると吐き気から本当に嘔吐しかねなかった。私は完全に虚無主義に陥り、友人にこの経験を話す中で先ほどの重力の考えを思いついた。私自身も質量を持っているはずなのに、何かの引力に引き寄せられなければならない。この宙空に浮かんでいる状況が、どれほど苦しいことなのか。自殺というものが生きる意味という引力が弱かったからだとするならば、この宙空にいる状態、何かにすがるものすらない状態とは一体何なのか。
はじめて神を信仰しようかと思った。神の前に立つといったキェルケゴールは、神というとてつもない重力のおかげで「死に至る病」の中で生きていったのだろう。

楽観的虚無主義への道

虚無主義は虚無主義でも、楽観的虚無主義というポジティブなものもある。「この世は全て無意味(本質などない)なのだから、好きなように、自分のために生きよう」というものである。名前こそ違うが実存主義に近い思想だと思う。
この文言は理解できる。しかし私はいまだに虚無主義で、「無意味なのだから」の先へ進めていない。この打っているキーボード、文章、何をすべきなのか、それすらも無意味化されていく。

最初から楽観的虚無主義な人もそれなりにいるだろう。しかし悲観的虚無主義、もしくは単に虚無主義の人間が、楽観的虚無主義に至るまでにはなかなかハードルが高いのではないかと考えている。
再度重力の話で例えると、楽観的虚無主義者はあらゆる重力を渡り歩いている。さまざまな引力にひかれ、着陸し、頓着することなくまた離脱することを繰り返している。それに対して悲観的虚無主義は宇宙の虚空を見つめ、どの引力に引かれるべきか、悩み、ついにはその引力に引かれるということの意味を理解しようとする。その点でキェルケゴールは悲観的でありながら、神という絶対的な引力を説明し、着陸したのだと思う。

自分を見つめれば見つめるほど、自らに質量があり、万有引力によって自分自身に引き寄せられるかというとなかなかそうでもないと私は思う。私自身に引き寄せられることは、社会を抜きにしては難しい。その社会とは重力の相互作用であり、やはり自分自身、つまり宙空にいる自分だけでは起こり得ない。この点において悲観的虚無主義はとても辛い。

強い重力を求めて

私とて、悲観的虚無主義のままでいたいわけではない。ここに関しては客観的哲学というより自身の生き方の問題だ。悲観的より楽観的でいたい。

虚無主義は捨てられない(何年も考えた末得た結論はなかなか覆せない)ので楽観的虚無主義を目指すことになる。そのためには、重力に引かれることが重要だ。その重力とは何か。

ここに関してはひとによって違うとは思うが、要は「楽しみ」や「喜び」だと思う。その点に着目して、重力に引かれよう。




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