最も有害な職業、それはデザイン。『生きのびるためのデザイン』読書まとめ
この強烈な文面が、読み始めて10秒で現れるのがこの本です。
ヴィクター・パパネックが48歳になる1971年に出版されました。日本では高度成長期の時代で、大阪万博の後だろうか。便利な道具がたくさん出た時代で、インダストリアルデザインの重要性が際立っていた時代だと思います。
デザインの定義の確認
この本について語る前に、まずはデザインの定義を確認しておきます。今日デザインないし、デザイナーというと、イラストレーターやアーティストのような、芸術的な側面が強いと思われます。
しかし本書であったり、より広義的なデザインというとどちらかというと「編集者」、アレンジする人というニュアンスで捉えてもらうとわかりやすいです。例えばイベントのファシリテーターはイベントのアレンジをしており、友人との会話は、自分も友人も相手の関係のアレンジを。畑仕事は作物や、自然とのデザインと言えそうです。
つまり人類全員、人間の振る舞いというものは、全てが全て何かしらのデザインであると言えます。
ここら辺はサティシュ・クマールの映画のタイトル、「サティシュの学校 みんな、特別なアーティスト」とも近い思想がありそうです。
しかし今日ビジネスとなっているデザインというものは前者であり、後者の思想など滅多にない。そしてついには芸術的側面すら存在も希薄となっている。
この本のゴール地点
この本は縦断的に、多分野に渡り展開するため、まとまりが感じにくいところもありますのであらかじめ私の主観でこの本の要点を見出しにしました。
人の美的センスが失われ、機能性というデザインが価値となってしまった
技術革新により、<機械による完全なもの>がデザインとなり、マーケットに浸透した
デザインというものは、世界を変えるための行いであることを思い出さなければならない
デザインの専門化こそが害悪であり、多分野とコラボし、デザインの観念を得た万能人が、デザインの生き残る道である。
人の美的センスが失われ、機能性というデザインが価値となってしまった
この問題は、いつから始まってしまったのでしょうか。プロダクトの大量生産が行われ、世界の資本主義化が進んだあたりでしょうか。
機能というものと、美的満足というものがいつしか二項対立になってしまう、もしくは「形態は常に機能に従う」というルイス・サリヴァンの言葉でまとめてしまい、やはりこの比較構造から抜けることができなくなっているのでしょうか。本書ではこのような盲目的な価値基準を批判しています。いいものというものは、便利だとか美的だとかその程度で判断を人間はしていません。しかしその価値基準そのものを、最近のデザインも忘れ、社会全体が美的センスの軸を失ってしまいました。
モノゴトの良さというものを、多面的に捉えること。それこそがデザインそのものの良さを測る指標なのでしょう。
技術革新により、<機械による完全なもの>がデザインとなり、マーケットに浸透した
技術革新は、様々な問題を一挙に解決しました。この話は山口周氏など、たくさんの人が解説しているので多くは触れません。
しかし大半のプロダクトデザインは問題を解決する、もしくは新たな問題を創造するに留まりました。
ここで重要なのはプロダクトデザインは問題を解決しない方が良かったのかというとそういうわけではありません。本書の指摘のひとつに車の話があります。
このほかによく言われるのは、車は大量輸送を可能にした結果、都市への一極集中を生み出したという指摘です。この指摘はイヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』でも指摘があります。
今日私は友人に会うために片道30kmほど運転をしましたが、これは車なしでは不可能です。車があるおかげで友人に会うことができたと言えます。
しかしこの社会に車がない場合、遠い友人に会いにいくなんて発想すらなくなります。その場合この世界に村社会は残り、私の隣人と仲良くなったかもしれません。それは現代において失われたものです。
このように、問題は解決します。特に技術は、完璧に問題を解決します。しかし結果はデザインされません。まさか車で簡単に移動できるからといって家族と離れ離れに当たり前のように生活できるなんて車を開発した際には想像がつかないわけです。
デザインというものは、世界を変えるための行いであることを思い出さなければならない
ここまでで世界が変わること・変えるデザインというものがいかに考えることが重要か、課題設定が重要かがわかると思います。
車を開発を後悔しろ、というのが主旨ではありません。副作用を考えるのはもちろん、より良い社会を妄想する力が、デザイナーには必要なのだと思います。
現状の問題を解決するのは、思ったより簡単です。しかし問題は一面的ではないのはみなさんご存知だと思います。あちらがたてばこちらが立たず、なんてことは当たり前です。その手法を考えるのが、エンジニアではなく、デザイナーとわざわざ名前を分けた理由なのかと私は思います。
例を挙げると、紆余曲折さえあれどGAFAMの創業者はこういったデザイナー思考(デザイン思考とはおそらく別)が強かったのかなと思います。彼らは、自分らが理想する世界を早い段階から描き、実現のためのテクノロジーを開発したのかなと考えています。
デザインの専門化こそが害悪であり、多分野とコラボし、デザインの観念を得た万能人が、デザインの生き残る道である。
ここまでで、タイトルの意味合いを改めて考えましょう。デザインの目的は、より良い世界の創造です。
より良い世界の創造というものを考えるひとが、本来のデザイナーの役割でした。しかし資本主義のせいなのか、はたまた本人のせいなのか、デザイナーの役割は「より良い世界の創造」から「良く見える商品の製造」に変わりました。
これはこの本を読んだ上での私の仮説ですが、デザインを専門化すると良く見える商品の製造が上手になります。理由としては資本主義的側面でその方がお金を稼ぎやすいという点、そしてデザインというものは手段であり、目的ではないことです。
今ある問題に直面し、その解決をしなければならない。デザインというものはそんな局面に立ち会うことで初めて役に立ちます。
その環境に、外部から問題解決のスペシャリストが入ったらどうでしょう。農作物の近くに生えている雑草を除去するのに除草剤を使うかもしれません。「ほら、雑草枯れたよ」って。
残念ながらこれは笑い事ではありません。問題は、多面的に存在します。自分に限ってそんなことはしないなんてことはないです。本書にあった例を引用します。
ちなみにナイロン60がマイクロプラスチック問題を引き起こすかの議論は、この本も予期しなかったでしょう。
このように外部から入るデザインというのものは、そもそも盲目的であることを忘れてはいけません。奇しくもここに人類学者の名前があるのは、最近の潮流とも一致しています。
最後に:みんながデザイナー
結局、専門家デザイナーというものはいかなる場合も問題を抱えると思います。問題が解決できるとかできないとかではなく、本質は当人にしかわからないことも多いからです。
だからこそ、改めて皆が皆デザイナーであることを最後に提案します。
皆が理想世界を描き、そのために腕を振るう。
それが万能人として、デザイナーが生き残る道なのでしょう。
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