善悪の先にあるもの(アニメ『バビロン』をめぐる私的感想)
以下は『バビロン』というアニメを観た私の感想であるが、主に作品の内容それ自体についてではなく、「自殺」や「善悪」についての私の個人的な考えを述べた。
また、それをふまえた、最終回のラストシーンに対する私の解釈を記した。
ネタバレを含むので、作品を未視聴の方はご注意いただきたい。
また、自殺に関してトラウマのある人や、パニック障害を患っている人などは、以下を読まないでいただきたい。
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●曲世愛は実在しうると私は思う
『バビロン』というアニメは、暗鬱で残虐であり、荒唐無稽な物語に見えるかもしれない。だが私にとってこのアニメは、極めて現実的な物語である。
このアニメの冒頭あるいは末尾には、よくある注意書きが挿入されており、それは以下のような一文から始まる。
「番組はフィクションであり、登場する人物、場所、団体、および法律等は実在のものとは一切関係がありません」
はたして本当にそうだろうか? 確かにこの番組はフィクションだ。場所・団体・法律等も実在しないものだ。だが、「登場する人物」はどうだろう?
詳細は後述するが、私は、この作品に登場するマガセというサイコパスは、「実際に存在するかもしれない」と思う。
●自殺は是か非か
『バビロン』というアニメで描かれたテーマは大きく2つあると思う。ひとつは「自殺」であり、もうひとつは「善悪」とは何かという問いである。
この作品における自殺の描かれ方は、正直言って安直である。あくまで、「善悪」について考えるための材料として、自殺がフォーカスされている。そのため、自殺にまつわるヒューマンドラマを期待して観たら肩透かしを食らうだろう。
物語は最初、あたかもサスペンス劇のように展開するが、終盤においてその体裁は投げ出され、最終的には視聴者おいてけぼりの「善とはなんぞや?」という問答に収束していく。
予想外のストーリー展開は観ていてエキサイティングだったが、エンタメ作品として、万人受けするとは言い難い側面があることも確かだろう。
作品内で提起された問いに関して、視聴者が自分自身でも答えを考えながら観ていかないならば、さぞかし困惑させられる展開の作品であるに違いない。
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さて、『バビロン』という作品には、死を「選択可能な権利」として法的に認めようという政治的な主張を持った人物が登場する。(イツキという名の若い政治家)
はたして自殺は是か非か。
作品内でも触れられているが、法的には、自殺自体が罰せられることはない。
だが心理的にはどうだろう?
少なくとも私が言えるのは、こうして今日も生きている私は、自殺する人の苦しみを知らない、ということである。
数年前、駅のホームで自殺した人を見たことがある。周囲に立ちこめる急ブレーキをかけた電車が発する焦げ臭い摩擦臭と、まるで腹話術師の人形のような首が切れた男性の死体を、今でもハッキリと思い出すことができる。
なぜその人は自殺したのだろう? 他人や自分自身に絶望したからか? 経済苦からか? 病苦からか? 別の道はなかったのだろうか?
その人は赤の他人だったが、私はその後数日、ずっと悲しくそわそわした気分で過ごした。もしその人が私の知人であったなら、私はどれだけの精神的な打撃を受けただろう。
人の心というものは、非常に不安定なものだと思う。その安定が脅かされたとき、死は眼前にその存在を現す。ゾッとする感覚とともに。だが同時に、心の安定が逆方向に振れたなら、目の前の現実が塗り替えられるほどの喜びがあるだろう。
死と快楽は過敏すぎる精神にとっては隣り合わせの存在である。「恐怖」と「快楽」の間に、無感覚の領域が確保されていることが、精神の安定にとって重要だと私は考えている。その土台がなければ、ほんの少しバランスが崩れただけで奈落の底だ。
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この作品の主人公であるセイザキという名の男性と一人の大統領は、善いこととは「続くこと」であり、悪いこととは「終わること」であると考えた。この善悪をめぐるひとつの解答について、あなたはどう感じるだろうか?
もし私が自分なりに善悪を定義するとしたら、善は「人々の心を安定させるもの」であり、悪は「人々の心の安定を脅かすもの」だ。
自殺が感覚的に悪に思われるのは、それが「生きることがよいことである」ことの根拠を脅かすからではないかと私は思う。逆に、もし自殺に社会的なコンセンサスが得られるならば、生きなければならないことがむしろ人々の心を不安にさせるかもしれない。たとえば切腹によって名誉が守られるというような文化の下では、自殺しないことが悪になり得る。
自殺が悪であることに根拠などなく、もしあるとすれば、単に社会の規範に背く行為が人々の心の安定を脅かすということでしかないのではないか。
なぜ生きなくてはいけないのか。なぜ死んではいけないのか。その問いに対する私の一つの答えは、「それには根拠がないから、人々がお互いに同じものを信じ合うことで、それを維持する必要がある」だ。
そして、それは単に価値観の問題ではなく、精神の安定/不安定と密接に結びついた問題でもあると私は思うのである。
●曲世愛の能力の発動原理
ところで、この『バビロン」という作品が描いている自殺というものは、心の苦しみとは少しニュアンスが異なる。というのも、若干奇妙に聞こえるかもしれないが、「快楽」と結びつけて自殺を含む死を描いているのである。
このことは、一見すると自殺する人の心の苦しみを軽んじているようにも見える。だが、実はこの点が、私にとって、かなり興味をそそられた部分なのである。
私は、人間の脳には、精神の感度を調整する「つまみ」のようなものがあると思っている。感度を高めればより敏感にこの世界を感じ取ることができるが、その分だけ精神はより無防備になる。そのつまみの調節は、非常に繊細な作業のため、通常は無意識下で行われ、自分で意識的にコントロールすることはできない。
しかし、違法なドラッグなどは、強制的にその「つまみ」の設定を変える作用を持っていて、通常では感じることができない強い覚醒状態を人間にもたらす。そのような物質を社会が厳しく取り締まるのは当然のことだ。
だがもし、その「つまみ」を自由自在に「意識的に」コントロールできる人がいたとしたらどうだろう。そして、もしその人が、自分の精神をコントロールするときに自分自身に対して使うその心の動かし方で、他人の耳元に囁きかけたとしたら? 他人の精神をも自由にコントロールできたとしても不思議ではない。
この『バビロン』という物語に登場するマガセという人物の能力を、私はそのようなものだと思った。たとえば第二話の事情聴取のシーンの最後に、マガセのまばたきとセイザキのまばたきが同期するようなカットがある。まばたきや呼吸といった、無意識的な人間の活動にアプローチして、それを他人と同期させて支配するのがマガセの才能なのではないだろうか。覗きこんだ瞳孔の動き、漏れ聞こえる吐息、そういったものを瞬時に捉えて支配しているのだと思う。
もし精神のコントロール(および故意の暴走)がマガセの能力の発動原理であるならば、その能力を、人を殺すだけでなく、救うためにも使用できるはずである(新約聖書におけるイエスや使徒などが人を癒す描写に私がそれなりのリアリティを感じるのは上記理由のためだ)。だがマガセはその能力を、人々の心を暴走させて殺すために使用している。
はたして、その能力はマガセにだけ備わった能力なのだろうか? 『バビロン』の物語のなかで、マガセの攻撃を受けた人間は皆、それに抗うことができずに支配されているように見える。だが、マガセから受けた精神の揺さぶりを自分の中でコントロールして収めることに成功する人もいるのではないだろうか。そしてその感覚を自分の中で再現することも。そうなれば、それはマガセ固有の能力ではなく、人々の間で伝播しうる能力となる。
もし高度な精神のコントロール能力を誰もが手にすることができたなら、人は死の恐怖から自由になるだろう。そして社会的規範によって方向づけられた善悪の観念から解放され、より自分自身の感受性を大切にして生きて行くことが可能となるのではないか。
●精神の安定と引き換えに売り渡されるもの
かつて私にとって、目の前のこの現実は、今よりも遥かに生きづらいものであった。この社会は不正義と不誠実に満ち、人々はあまりにも非共感的で、無感覚で、自分の正しさを絶望的なまでに疑っていないように思えた。
まっとうな人間性、まっとうな感受性とは何か。社会規範によって方向づけられた感受性の在り方から離れて、精神をより敏感にコントロールすることは可能だろうか。私は人生のあるときに、この問題について真剣に考え、そして逃げた。社会という人々の間で共有された精神の安定的な在り方から自由であろうとした私は、ひねってはいけない「つまみ」を回してしまったのかもしれない。ある日自分の感受性が暴走するのを感じた。もしマガセに攻撃されたら、あんな感じで死んで行くのだろうと思う。死ぬのが怖かった私は、あっさりとその恐怖を前にしてヒヨり、生まれて初めて神に祈った。「この社会に依存して生きさせてください」と。
私は社会にすがりついたのだが、その効果は絶大だった。私の精神はずいぶんと安定し、そして鈍感になった。
社会は強力な精神安定装置である。同じ価値観を共有することで、人々は自分の精神の不安定さから目を逸らすことができる。音楽に例えるなら、それは調律装置であるといえるかもしれない。音という本来不安定なものをチューニングすることで、楽器の音色は安定し、そして他の楽器と調和して音楽を奏でることができる。
しかし、社会という装置もまた、万能ではない。それが人々の感性を一定に方向付ける代わりに、多くのものをこぼれ落ちさせ見えなくさせるからだ。ピアノの鍵盤と鍵盤の間に存在する、無数の音の揺らぎが抜け落ちる。
それぞれの社会が、それぞれの「鈍感さ」を内包している。異なる文化間での紛争はなくらない。社会の内側で、背を向けられ傷つき消えていく命に加担しているのは自分かもしれない。
正しさを無根拠に信じることが、誰かを傷つけ、殺す。
はたしてこの精神の安定は、その鈍感さを正当化できるほどに「善」なのか?
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私がこの『バビロン』というアニメを観て思い出させられた現実とは、私自身のこの善悪をめぐる問いである。社会の前にひざまずいた者の責任として、売り渡したものを回収していく必要があるのではないか。この社会の中で、より共感的で人の痛みに敏感な人間の在り方を、模索し続けていかなくてはならないのではないか。
そのためになら、私はこの世界が「終わること」ではなく、「続くこと」を願う。
だから私は、自分の考えを改めなくてはならない。善悪は、単に精神の安定/不安定によって片づけられるものではないのだ。
この『バビロン』の物語が提示した、「善とは続くこと」であるという答えには、未来の社会への想いが託されているのではないだろうか。
そして、終わらせることが「悪」であるならば、悪を求める者が何を行い得るかもまた自明である。物語のラストシーンにおいてマガセは、「子供」という未来の象徴ともいえる存在に話しかけているのである。
だが、その後、彼女が何をしたのかは描かれていない。
●ラストシーンをどう解釈するか
最後に、私のこのアニメの結末に対する解釈を述べておきたい。
多くの視聴者が、セイザキはマガセの攻撃によって自分で自分を撃って死んだのだと思ったに違いない。また、物語の風呂敷を広げっぱなしのまま終わったことにガッカリした人も多いようだ。
だが私は、別の感想を持った。私は、セイザキは生きていると思う。最終回でマガセと対峙したセイザキは、マガセから受けた精神の揺さぶりをかろうじて制御し、その支配からギリギリのところで抜け出すことに成功したのではないか。そしてセイザキはマガセに向けて発砲するが、マガセに逃げられてしまった。それが最後の銃声の意味ではないかと私は思ったのである。
マガセが、アメリカ合衆国大統領が殺害されたあの現場から、警備を突破して逃げ出すことは容易だろう。だがそれが可能な人物が、もう一人だけいると私は思う。セイザキである。
もしセイザキがマガセの攻撃を回避し得たなら、セイザキ自身も、マガセほどでないにせよ、強力な精神コントロール能力に目覚めた可能性がある。そして、セイザキは、その善の力によって警備員の精神に働きかけることによって、現場から脱出できはしないだろうか。しかも、相手を殺すことなく。(たとえば、真面目過ぎるセイザキの目を見た者は皆、思わず固まって動けなくなるとか)
その後、逃亡したセイザキがどうなったかは、分からない。大統領を銃殺した超ド級の国際指名手配犯であるから、あまり自由には行動できないだろう。だが、彼が世界のどこかで、人々によい影響を与えながら生きている可能性を私は考えたい。
そしてマガセについてだが、あの最後のセイザキとの対決の時、覚醒したセイザキからの逆襲の精神攻撃を受けた可能性がありはしないだろうか。つまり、マガセの悪に、セイザキの善の力が、なんらかの影響を与えたのだとしたら。
マガセは、セイザキの息子を殺すのとは「別の道」を選ぶことができるかもしれない。
私には、あのラストシーン(最終回のCパート)での、セイザキの息子の表情は、父がまだ生きていることを知っている顔に見えた。その少年の表情は、イツキという政治家の息子、タイヨウ君の泣き腫らした顔とは対照的だ。イツキは家族を置いて去ろうとしていた。だがセイザキは、家族の下へ帰るという、大統領との約束を果たすのではないだろうか。
そして、セイザキの息子に話しかけるマガセの表情は、揺らいでいるように思えた。
善と悪との間で。
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今後、人間という存在の膨大な言動パターンを学習したAIによって、私たちの言動は、知らぬ間に支配され方向づけられていく可能性がある。たとえマガセのような能力を持った人間の実在が荒唐無稽であったとしても、精神が操られることそれ自体は、もしかしたらすでに私たちの日常に忍び込んでいる現実かもしれない。
その中で、私たちはどれだけ、自分自身でいられるだろうか? 私には、アニメ『バビロン』は、自身の在り方を見つめ直すよいきっかけになったと思う。
ところで、『バビロン』の第10話に、私にとって印象的だったセリフがある。
それはセイザキが、共に事件を追いかけたひとりの女性に対する感情を吐露した言葉だ。少し長いがそのまま引用したい。
「彼女のことは、自分でもうまく言い表せない。
部下の女性でした。けれどたぶん、それ以上の感情を持っていた。
恋愛感情ではなく、きっと私は、そう、憧れていたのです。
正義をむねとする女性だった。
正義を心から信じ、自身もそうあろうとしていた」
そのセリフを聞いて私は、ハッとさせられた。なぜなら私にも、似たような感情を抱いている人がいるからだ。
そして私は、その人への自分の感情にようやく気付いた。
この感情の名は、「希望」だ。
その人は、この世界がもっと美しいものであり得ることを信じる強さを、私に教えてくれた。
もしその感情を知らなければ、きっと私は、この『バビロン』というアニメを観ても、そこに光を読み取ろうとすることはなかったに違いない。
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