『Wicked』、「鈍い意味」、「まなざし」、三人目の魔女
米国で2024年11月22月に公開され、大ヒットと言えるオープニング興収を達成し、実写ミュージカル映画の歴代最高記録を塗り替えることが確実視されている、映画『Wicked: Part 1』。日本では邦題『ウィキッド ふたりの魔女』として、2025年3月7日公開予定と本日発表された。公開が本当に待ち遠しいが、このnoteではミュージカル原作(そのミュージカルにも小説の原作があり、早川書房から今年5月に邦訳版が出版された)も含め、ロラン・バルトやスラヴォイ・ジジェクから言葉を借りながら、気ままに考察したい。(なお、記事終盤の空想パートにのみ、ミュージカル第二幕のネタバレを含む。)
『Wicked』のポスタービジュアル
考察の題材は、『Wicked』のポスタービジュアルである。以下、前者はミュージカル版の画像、後者は映画版の画像を、Wikipediaから借用した。(なお、トップ画像はPlaybillから借用した。ミュージカル版とほぼ同じだが、陰影がついたバージョンである。)
映画版のポスタービジュアルが公開された今年10月、ファンがAIツール等を活用しながら映画版のポスタービジュアルをミュージカル版に似せて作り直す(fan edits)ということが起こり、エルファバ役として出演するシンシア・エリヴォが否定的なコメントを投稿するなど、一連の騒動が話題となった。(すでに英語版Wikipediaの項目にも挙げられている。Marketingセクションの"Poster criticism"を参照)。
二種類のポスタービジュアルをめぐって、なぜこのようなある種の熱狂が生まれたのだろうか。
ポスタービジュアルの差分として、主に二点挙げられる。「エルファバの唇の色」、そして、「エルファバの両目が見えているか」である。
「鈍い意味」
エルファバの唇の色は、ミュージカル版は赤、映画版は緑である。前者はおそらく、赤い口紅を塗ったものと想像される。しかし、そもそもミュージカルにおいて、エルファバが赤い口紅を塗った姿で登場する場面は一度もない。(「ポピュラー」が歌われるなかで、グリンダがエルファバに口紅を塗るシーンはあるものの、赤ではなく無色である。該当シーンの動画参照。)
つまり、赤い口紅を塗った姿のエルファバはポスタービジュアルのなかでしか存在せず、何も説明されないままの謎と言える。
さて、そのような謎、見えてはいるが捉えどころのないものが持つ意味合いについて、ロラン・バルトは、エイゼンシュテイン監督の作品『イワン雷帝』や『戦艦ポチョムキン』のフォトグラム分析を通じて、以下のように述べている。
バルトの二つの区分を踏まえるなら、赤い口紅(を塗ったエルファバの口元)は、鈍い意味を持つように”感じられる”。
ここでバルトがフランス語で「sens」の語を用いているのは、「意味」に加えて、同時に「感覚」の意にもなり、その両義性を活用するためである(篠田浩一郎『ロラン・バルト』p.347)。そのため、sens obtusを「鈍い意味=感覚」と記載したい。(なお、バルトの両義語法については、ライブパフォーマンス『GIFT』観賞後noteで取り上げた。)
鈍い意味=感覚は、どのような効果を及ぼすのだろうか。バルトがさまざま語るなかのひとつが、以下である。
要約するならば、鈍い意味=感覚は、それ自体が内容を持たない代名詞(「それ」)であり、《余分に》やって来る、傷(いわば忘れがたく強烈なトラウマ)を私たちに残すものである。
その趣旨は、スラヴォイ・ジジェク(つまりはラカン派精神分析の視角)が言うところの、「欲望の対象=原因」、〈対象a〉と重なるように思う。(これらの用語については、映画『PERFECT DAYS』の考察noteを参照されたい。)
「まなざし」
ジジェクいわく、この欲望の対象=原因は、「まなざし gaze」となる。つまり、私たちが見るのではなく、私たちが見られるのである。
さて、ここで題材のポスタービジュアルに戻りたい。
ここまで見てきたように、ミュージカル版の赤い口紅で塗られた口元は、バルトが言う鈍い意味=感覚であり、ジジェクを経由して理解すれば、それは「まなざし」となる。
しかし、映画版では、赤い口紅の姿はなく、エルファバの肌の色と同じく(何か塗っているとは思われるが)緑色の口元である。
他方で、お察しの通り、エルファバの両目が帽子のツバで隠れずに真っ直ぐにこちらを見つめているのである。これは、文字通り鑑賞者が”見られている”のだが、「まなざし」にはあたらない。
以上のことから、ポスタービジュアルの差分をなくそうとするfan editsは、「まなざし」の熱狂を(意図せず)奪われたことに対する抵抗だった、と考えられるのではないだろうか。
三人目の魔女
ここまで鈍い意味=感覚や、欲望の対象=原因など、取るに足らない無意味なものを扱ってきた。しかし、ジジェクによれば、人は意味を求めて「空想」するものでもある。以降はバルトやジジェクとは関係なく、ファンとしての個人的な「空想」を書いていきたい。
空想するのは、「結局、なぜ赤い口紅を塗る必要があったのか」。
結論はシンプルで、「ネッサローズという不在の表象」ではないだろうか。
タイトルの『Wicked』は”悪い”魔女にかかっているが、劇中に登場するのは、The Wicked Witch of the Westのエルファバ、そしてThe Wicked Witch of the Eastのネッサローズである。ネッサローズといえば、第二幕からのルビーの靴や、椅子に張られた赤地の布が印象的だ。
ネッサローズは第二幕中盤でドロシーの家に潰され、劇から退場してしまう。また、『Wicked』は悪い魔女エルファバと善い魔女グリンダの知られざる友情の物語として語られることが基本路線だ。しかし、三人目の魔女ネッサローズ抜きには展開しえない物語である。(そもそも、ネッサローズへの付き添いがなければ、エルファバはシズ大学に入学していなかったかもしれない。)
また、ポスタービジュアルから話は逸れるが、オリジナルサウンドトラックには第二幕「The Wicked Witch of the East(邦題:総督の椅子)」だけが収録されていない。この曲を歌い上げるネッサローズは、観劇のそのときにしか立ち現れない。
このように、ネッサローズは『Wicked』において非常に重要な役割でありながら、ことごとく「不在」になってしまう。エルファバが塗った赤い口紅は、ルビーの靴の代わりに拾い上げた、ネッサローズの持ち物だったのかもしれない。そのような「不在」としての存在だからこそ、それ自体が内容を持たない代名詞として、赤い口紅を塗った口元が「まなざし」となる。
以上を踏まえると、映画『Wicked: Part 1』はミュージカル第一幕までの内容であり、ネッサローズの「不在」まで行き着いていないため、映画版のポスタービジュアルに赤い口紅を塗った姿のエルファバではないことは、むしろ妥当とも考えられる。米国では2025年公開予定の『Wicked: Part 2』のポスタービジュアルは、果たしてどうなるだろうか。