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『her』、「聴くこと」、「声のきめ」

米国では2013年、日本では2014年6月に劇場公開された映画『her(邦題:her/世界でひとつの彼女)』。なぜ、この映画に惹かれ、今も話題にしてしまうのか。ロラン・バルトのエッセイから言葉を借りながら、気ままに考察したい。

『her』と声

OpenAIが2024年5月13日に発表した「GPT-4o」の会話インターフェイスで用いられた合成音声が『her』でAIアシスタント"サマンサ"を演じたスカーレット・ヨハンソンの声に似ていたことも含め、まるで『her』の世界だ、と多くのメディアが10年以上前に公開された映画を再び取り上げた。
そして、その後スカーレット・ヨハンソンの申し立てによってその音声の提供が中止となったことで、さらに注目を集めることとなった。

『her』は、公開当時からサマンサの声に関する話題が複数あった。
ひとつは、ポストプロダクションのタイミングで、サマンサの声を演じる俳優の変更があったことである。つまり、監督のスパイク・ジョーンズの判断により、スカーレット・ヨハンソンは撮影後に起用されたのだ。
さらには、本作を扱う映画賞のなかで、サマンサの声"のみ"を演じたスカーレット・ヨハンソンがノミネート/受賞する要件を満たしているか見解が分かれたことは、議論の的となった。
結果的にローマ国際映画祭では声だけの出演で史上初の最優秀女優賞を受賞した、その声についてThe Guardian誌は以下のように称している

Blessed with a naturally deep, expressive and erotic voice, Johansson turned in an extraordinarily deft and beautiful, yet totally disembodied, performance that won her the best actress award at the Rome film festival and has some critics calling for Oscar plaudits (though the Golden Globes have already excluded her from contention).

The Guardian, 28 Nov 2013
"Interview: Spike Jonze on Jackass, Scarlett Johansson's erotic voice and techno love"

『her』は、人々とAIの関係性を主題とする物語や、映像・美術についてもさまざま語りたくなる映画だが、前述のように、AIアシスタント"サマンサ"の「声」を魅力の一つに挙げずにはいられないだろう。
個人的な話を正直に書くと、記憶の限り10年近く前に飛行機の中で『her』を観た当時、私はとりわけ映画好きでもなく、スカーレット・ヨハンソンについてもまったく認知していなかった(2003年公開の映画『 Lost in Transration』を2023年に観たことが、初めて認知した機会であった)。それでも、その声には不思議と惹かれ、作品とともに強く印象に残った。

「聴くこと」、「声のきめ」

なぜ/どのような「声」に惹かれるのか。この問いについて、「聴くこと Écoute 」、そして、「声のきめ Le Grain de la voix」という音楽論としてのエッセイを綴ったロラン・バルトから示唆を得たい。
まず、「聴く」とは何か。バルトは、思い切って単純化するが、という前置きとともに、以下のように述べる。

聞く entendre は生理学的現象である。…聴く écouter は心理学的行為である。
第一の聴き取りの場合は、生物は自分の聴力…を指標の方へ向ける。…第二の聴き取りは解読である。…第三の聴き取りはまったく現代的な問題に属するのだが…語られること、発せられることではなく、語るもの、発するものを対象としているのである。第三の聴き取りは相互主体的空間において行われるものと思われる。そこでは、《私は聴く》ということは、《私のいうことを聴いてくれ》ということなのだ。

Barthes, Roland (1976) "Écoute" /沢崎浩平訳(1984)「聴くこと」『第三の意味』pp.155-156

ここでバルトが力点を置いている、相互主体的な「第三の聴き取り」が生じる状況の典型は、次の通りである。

現代の聴き取りの典型的な道具である電話は、二人の通話者を、理想的な(必要とあれば、堪えがたい、といってもいい。それほど純粋なのだ)相互主体性の関係に置く。なぜなら、電話は聴覚以外のすべての感覚を無用にする。

Barthes, Roland (1976) "Écoute" /沢崎浩平訳(1984)「聴くこと」『第三の意味』pp.164

では、聴くことの相互主体の関係・空間における「声」について、バルトはどのようなものを想定しているのだろうか。ここで、以下に引用する通り、声の《きめ》いう言葉が用いられる。

歌う声、言語〔ラング〕が声に出逢うまさにその空間、そして、言語が、聴く術を心得ている者に、声の《きめ》と呼び得るものを聞かせるまさにその空間、それは息ではない。喉という、音声の金属が硬化して、輪郭が形作られる場から現れる身体のあの物質性である。
語ることの身体性である声は、身体と言述とが分節するところに位置する。そして、この中間部においてこそ、聴くことの往復運動が実現されるであろう。

Barthes, Roland (1976) "Écoute" /沢崎浩平訳(1984)「聴くこと」『第三の意味』pp.168

以上の「聴くこと」からの抜粋をやや意訳的にまとめると、電話に代表されるような音声(のみ)のやり取りにおいて、聴き手は、語り手の身体を聴いているのである。
語り手の身体としての声の《きめ》について、バルトは上述のエッセイの4年前に、その言葉を題名とした別のエッセイを残している。そこでは、なぜそれに惹かれてしまうのかの一端も示されている。

《きめ》とは、歌う声における、書く手における、演奏する肢体における身体である。私が音楽の《きめ》を知覚し、この《きめ》に理論的な価値を与えるとしても…、私は自分のためにまた新しい評価表を作ることしかできない。その評価は、多分、個人的なものであろう。なぜなら、私は、歌う、あるいは、演奏する男女の身体と私との関係に耳を傾けようと決意しているからである。そして、この関係はエロティックなものであるが、全然《主観的》ではないからである。(耳を傾けるのは、私の中の、心理的《主体》ではない。主体が希望する悦楽は主体を強めたりはしない──表現しはしない──。それどころか、それを失うのだ)。

Barthes, Roland (1972) "Le Grain de la voix" /沢崎浩平訳(1984)「声のきめ」『第三の意味』pp.197

最初の一文で、声の《きめ》が身体と結びつけられているのは「聴くこと」と同じだと確認できる。
その身体をめぐる関係について「エロティックなもの」と表現されているが、ここで注意すべきは、バルトは「エロティック」という言葉を単純な性的意味合いではなく、最後のカッコ書きの通り、自己の喪失を伴う欲望(つまり「享楽 jouissance」)を表す言葉として用いている。つまり、声の《きめ》は、享楽の対象なのである。
(なお、「享楽」は、沢崎浩平訳『テクストの快楽』での訳語に合わせるなら「悦楽」である。また、1977年に書かれた「音楽、声、言語 La musique, la voix, la langue」では、ジャック・ラカンの言葉をそのまま用いて、人間の声を〈対象a〉と位置付けていることからも、声の《きめ》と享楽との関連が見いだせる。)


さて、『her』に話を戻そう。
前半で引用した通り、The Guardian誌は、スカーレット・ヨハンソンの「エロティックな声 erotic voice」と「完全に身体から分離したtotally disembodied」演技を称賛した。しかし、これをバルトに倣って読み替えるなら、むしろそこに身体を聴いてしまう、享楽の対象としてのその声を称賛すべきである。
そして、電話に近しい状況でAIアシスタントとの音声のやり取りが繰り広げられる『her』の設定において、撮影後に声を変えるというスパイク・ジョーンズの判断は、声それ自体の重要性を十分理解していたと考えられる。
最後に、『her』の歴史的な位置付けを端的に語るなら、それはAIと欲望/享楽の次元を結びつけたことにあるだろう。

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