『PERFECT DAYS』と〈対象a〉
ヴィム・ヴェンダース監督が手がけ、2023年のカンヌ国際映画祭で役所広司が最優秀男優賞を獲得した『PERFECT DAYS』。日本では2023年12月22日に公開され、個人的には2024年の映画館初めになったこの作品について、ラカン派精神分析の視角から縦横無尽にポップカルチャーを/も論じるスラヴォイ・ジジェクのように考察することを試みたい。以下は『PERFECT DAYS』鑑賞後に読まれることを想定し、作品自体の説明は深くせず、ネタバレ含め記載する。
〈対象a〉 objet petit a
ラカン派精神分析はさまざまな独自概念で説明されるが、この記事では『PERFECT DAYS』を考察するにあたって、〈対象a〉という概念を参照する。なお、これまでの筆者のnoteでよく引用してきた、Kyoto Creative Assemblageの記事で紹介されている「欲望の対象=原因」と〈対象a〉は同義である。
スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳、青土社)のなかで、ジジェクはダシール・ハメットの小説『マルタの鷹』に出てくるエピソードを引用し、〈対象a〉の一側面を紹介している。そのエピソードとは、“ビルの梁”が落ちてきて下敷きになりそうになったことをきっかけに、偽名を使ってほぼ同様の生活をやり直した男についてである。
『PERFECT DAYS』に至る契機となった〈対象a〉
『PERFECT DAYS』の作中では明示されていないが、平山がかつてどのような生活をしていたのか、何が契機となって淡々と繰り返されるような日々を送るようになったのか、ヴィム・ヴェンダースがロングインタビューで丁寧に語っている。
このロングインタビューに従えば、ビジネスパーソンとしての人生(いわゆる、意味のシステム、〈象徴界〉)に嫌気が差していた平山が、契機となった日に偶然に目の当たりにした「木漏れ日」は、まさに〈対象a〉であったといえる。
(その後の劇的な生き方の変化、つまり、ある種の自己犠牲を伴って意味のシステムの外に出る行動については、欲望を超えた欲望としての「享楽」との関連も挙げることができる。)
『PERFECT DAYS』の作中での〈対象a〉
平山が寝起きすぐに愛おしいように眺めたり、昼食時にフィルムカメラで撮影しているように、『PERFECT DAYS』で描かれる日々のなかでは、「木漏れ日」は直接的に「欲望の対象」になっている。つまり、〈対象a〉(「欲望の対象」とは別にある「欲望の対象=原因」)ではない。
では、『PERFECT DAYS』の作中での〈対象a〉は何か。ここで、パンフレットで記載されている内容を示唆として繋ぎ合わせ、考察してみたい。
First Nameが示すように平山自身が「木」であるなら、「木漏れ日」には光が必要であり、一方で、「木」は影としての「木漏れ日」を直視することはできない。
『PERFECT DAYS』での平山は(Nina Simone “Feeling Good”で歌われるように)毎日にしがらみのない新しさを感じているが、親族という〈他者〉(光)によって、自身が絶った過去(木漏れ日)が浮き彫りになってしまう。しかし、そのような契機に平山は“PERFECT DAY”を感じるのである。
つまり、『PERFECT DAYS』のなかでの〈対象a〉とは、太陽の光と自然の木々が生み出す「木漏れ日」ではなく、平山を知る〈他者〉という光と平山自身という「木」によって生み出される「木漏れ日」、つまり平山の影として現前する過去(を取り巻いていた社会・環境)ではないだろうか。だからこそ、物語の終盤で「影踏み」という、影を捉えようとする遊びが扱われるのではないか。
『PERFECT DAYS』以前と作中を比べると、平山の欲望の転倒(自ら絶ったものを欲する)があるが、「木漏れ日」というモチーフは一貫している。つまり、『PERFECT DAYS』が平山にとっての「木漏れ日」(〈対象a〉)を描いた作品であることに間違いはないだろう。
そして、その〈対象a〉は映画を鑑賞している私たちにとっての「まなざし」にもなり、気づけば私たちが『PERFECT DAYS』で描かれる世界の一部になってしまっているのである。