地方小都市民の「推し活」は応援消費になりがち
地方小都市に住み始めてすでに5年が経過した。
ここでの暮らしで最高に心躍る瞬間は、新しくお店が開店したときである。
全国区のチェーン店が初上陸するなんてことがあれば、地方紙でニュースになり、エリア全体で大騒ぎとなる(笑)。
そして開店後数日間は長蛇の列ができるのだが、1ヶ月もすると、そんな行例を見かけることもなくなる。
カナメ「田舎をなめとったらあかんで」
開店当初は大賑わいだった商業施設に行く予定を立てると、その混雑ぶりを心配する私に、カナメはいつもそう言う。
意味は「混んでるわけないやん!」である。
新しい飲食店などができるたびに、同じことが起こる。
一時的に混んだりするが、ほどなく人の流れは落ち着いてしまう。
そうなると次に心配になるのは、「閉店しちゃわないかしらん?」である。
コスパが良くて美味しくて居心地が良くて混んでいないカフェなどの飲食店が、見切りをつけて閉店してしまうことが怖すぎるのだ。
すでにコロナ禍でお気に入りの店舗がいくつか閉店してしまったトラウマがある。
地方小都市に住んでいる方の多くは、同じ気持ちではないかと思う。
「閉店しないように、せっせと通わないと」と思うのである。
推し活のスタイルにも色々とあるだろうが、田舎(地方小都市)ではお気に入りの飲食店がつぶれないように、せっせと通って気前よくお金を落とすさまが、まさに「推し活そのもの」だなと感じるようになってきた。
その昔、義父母が飲食店に対して「時々行ってやらんとな」などと言っていたが、大阪人の私からすると相当に違和感があったものだ。
客側のスタンスとして偉そうに見えたのだ。
大阪には多数の飲食店が存在しており、人気店になると予約も入れられなかったり、場合によってはお店側がお客さんを選ぶようなこともあった。
提供者と顧客では、もちろん顧客の方が立場が強いのかもしれない。が、商売の街大阪の、日々の生活の中で自分が提供者にも受益者にもなり得る混沌とした関係性の中では、そこに上下も優劣もなく、ほぼ対等であるという感覚が強い。
だから「行ってやる」という言葉が不遜に見えたのだ。
でも田舎に住んでみると、その言葉の持つニュアンスが分からなくもなくなってきたのだ。
田舎の小さなお店だと、お客さんが来ないと本当につぶれちゃうのだ。だからあえて「行ってあげないといけない」と思い、行動することがあるからだ。
実際は、心の底から今この瞬間どうしても行きたいかと言うとそうでもないし、別のお店に行ってもいいんだけど、どうせ外食の機会があるのであれば、あえてそのお気に入りのお店に定期的に通ってお金を落としてあげた方がいいだろう、と思うのだ。
お客さんの波が途絶えなければ、おそらくそのお店は高確率で閉店しない。
カナメ「まぁ推し活みたいなもんやなw」
せやねん。
自分にとって実益のある「実生活に必要な店舗」にせっせとお金を落とそうと考える地方民はたくさんいると思うのよね。
だからそれは単なる消費ではなくて「応援消費」であり、お金を貯め込んでいる田舎の人のささやかな「推し活」なのだ。