手放すことで満ちること
今年の4/3、年度のはじまりの日。とあるはじまりの場におじゃまさせてもらって、自分の手を観察するワークをしました。ざっくりいうと、自分の手をじっくり観察して、模写して、それに「わたしの手は〇〇の手です」と、自分で一言添える、というもの。集まっているみなさんとの関係も、その空間としての場も、ワークの案内も、とても心地よかったことを覚えています。
そのときわたしが描いた手、が、この写真。
そして 「わたしの手は、触れる、手放す(ための)手です」 と添えました。
仕事柄、だれかに物理的に触れるとか、こころに触れる とか、という機会は多くあって、多くあるけれど、 とても大事な瞬間だとも思っているから、「触れる」を 大事にしたいと思って添えて。
ちょうど藤井風の「満ちてゆく」という曲がリリースされて数週間のタイミングで、何度も何度もきいていたわたしは、「手を放す 軽くなる 満ちてゆく」というフレーズを思い出し、そのときも曲がずっと頭の中で流れていました。自分の中に「手を放してみよう」という気持ちがあることを思い出して、「手放す」という言葉も添えたのでした。
前までのわたしは、手を放すよりも、掴んでいる方が、ぎゅっと力は入るけれど、気持ちは安心していたのかもしれません。どこかだれか、良くも悪くも、拠りどころにできるから。原因を、ほかのなにかに向けることができるから。
少しずつ、手を放してみよう、と思えたのは、自分だけの力ではなくて、いろんなひとの力を借りながら、ちょうどカチッとそのタイミングがはまったんだろうなと、今は思っています。
今回が新月で、ちょうど「手放し」のタイミングでもあります。
なにを手放していきましょうか。
物理的な断捨離や掃除もとても大切なことで、それももちろんいいなと思います。
(それは自分自身もやらなきゃという自戒も込めて)
同じくらい、とても大切だなと思うのは、「自分を呪わないこと」。
自分へかけた「呪い」を、そろそれ手放してもいいのではないかな、とも思います。「呪い」というと、なんだかおどろおどろしいですが、案外すぐ近くにあるのではないかと思っています。「自分は〇〇だから(□□できない)」とか「〇〇は☆☆でなければならない」とか、いつぞやに言われた一言だったり、刷り込まれた考えだったり、自分では気づかないうちに「そういうものか」と、気がつけば自分をかたちづくる一部になってしまっていること。
同じように「相手を呪わないこと」も大事だなと思っています。そういう言葉をかけない、使わない、自然にそう言っている自分に気づくこと。相手に伝えている、ということは、自分に伝えているのと同じこと。
藤井風の曲のように、手放すことで満ちていくこと、今はすごく体感とともに、そうだな、と思えています。自分への呪いに気づいて、ひとつ手放して、満ちていく感覚が訪れるのか、試してみるのは、いかがでしょうか。
●はるちゃん