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仮面を被ったSNSの世界からの解放

最近また、SNS(特にインスタグラム)と距離をとっている。
理由は単純で、時間とエネルギーを知らず知らずのうちに消耗してしまうからだ。
きょうの記事は、ちょっと毒吐き気味になっちゃうかもなので、不快な思いがしない人だけ読んでください。笑

1年ほど前の記事👇にも書いたが、


なんとなく感じる居心地の悪さ


インスタは特に他の人の投稿を見ているだけでなんだか居心地の悪さが襲ってくる感じが最近していた。もちろん有益な情報、救われる投稿もたくさんあるけれど、総体的になんかうっすら居心地悪いみたいな。

見る側ではなく発信者側としても感覚は同じで、なんかどこかいったり見たり、友達と遊んだりしているときもいっつも頭の片隅に、「あーこれインスタ用に写真撮っておいた方がいいかなー」とか、この少しインスタのことを考えてしまう時間や瞬間が、今この瞬間体験していることを100%味わい切れなくさせている感があって。それもうっすらずっと嫌だった。

移ろいゆく人間関係を縄で縛っているInstagram


人生のライフステージが移り変わると、当然のことだけど、それに伴い人間関係も移り変わっていく。中には変わらずずーっと続いている関係性もあるけれど、それはわたしの場合本当に数人程度。一握りの人たちだ。

人間関係が移り変わって、もう確実にこの人たちとは会わないだろうなぁという人もたくさんいる。だけど、SNSを覗けばもう関わりを持つこともないだろう人たちの情報もわんさか溢れている。その情報、いらなくない?無駄じゃない?ってあるとき思ったのだ。

移ろいゆく自然な関係性の流れ。
流れていくのが自然なのに、ネット上では繋がりあっている微妙な違和感。そんなものを覚えた。流れを必死に縄で縛り付けているような。

会いたい気持ちなんて50%あるかないかの人たちから、「会いたいー!」とストーリーに返信がきたとき、「わたしも会いたいー!」と本心でもないことを返してしまう小さなストレス。そんなものも積み重なっていた。

SNSやめてみたら、大切なものが見えてきた

気にしすぎじゃない?もっとフランクに使ったら?と言われればそうなのだろう。そういう微妙な感覚の違和感を、無視できない気質なの。笑

それでいま、インスタグラムを使うのをやめている。正確には、メインで使っていた方をやめて、日記や記録用に使っていた鍵付きのアカウントだけ使っている(ごくごく限られた人しかフォローはしていない)
ついでにTwitter(X)とFacebookのアプリも削除した。

やめてみて感じていることは、大切なものがクリアに見えるということ。
まず人間関係。本当に自分が会いたい人、また、自分に会いたいと思ってくれている人との関係性をより一層大事にしたいと思うようになった。そんな人たちとは、たとえSNSを使ってなくてもラインなどで連絡が取れる。

そして、体験を、その瞬間瞬間を、写真のことなど考えずフルに味わえるようになった。いま目の前に現れているものを、フィルターを通さずにこの目で、からだで、五感を澄ませて捉えることができるようになった。

写真を撮ることが悪いということではない。心が動いて、写真に残したいとか、思い出を納めておきたいという感情が自然と湧いたら、それは撮りまくったらいいと思う。それが素直な「撮りたい」という衝動なのか、それともSNSという存在が背後にある故の「撮りたい」という欲求なのか。その話をしている。それは、同じ「撮りたい」だったとしても、全く別物だと感じている。

あと一番大きいのは、やはり情報を浴び続けることによるストレスが少なくなったこと。環境や人、周りから影響を受けやすい体質の人は、SNSなどの情報からも影響を受けやすい。だから、自分で必要な情報をわざわざとりにいくスタンスが大事。って、結構言われてきてたことだけど改めて思った。


なんてことない日常の生活も、一つ一つと丁寧に向き合うととても愛おしく感じる。そこには誰かに見せびらかすような華やかさはないけれど、静かなよろこびの音が響いている。



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