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気づきゼロを1にする方法

0✖️1 は 0
0✖️100 も 0
0✖️1000 も 0
0に1000000000かけてみても ゼロ

どんなにたくさん掛けてみても、
どこまでもゼロ(0)

こういう 気づきのなさ(気づきが起きてこない状態) というのもあります。

先日も鍼灸師の方とお話していたんですが

「 運動習慣が 1 ある人が、それを2や3にすることは比較的簡単なんですが、運動習慣ゼロの人を 1 にすることは結構大変」とおっしゃっていて、

そうそう、気づきもそうなのだよなあ……です

三脳研バランス研究所ではよく

「  気づいたら7割OK  」

というコトバがありまして、「気づきゼロじゃなく、気づきが起きているだけでスゴい👍」

つまり言い方を変えれば


「 気づくこと、自覚することそのものが難しい 」


じゃあ、どうすればいいのか?


たとえば、

「 わかっている、知っている、できている 」
そう思っていることについて


それって、ホント???


そう、ちょっと引いた目線(気づき)で眺めてみる。

「 わかっている、知っている、できている 」

という思い込みによって見落としているようなケースなら、その信念をゆるめてみる(気づきの隙間をつくる)ことで、視野の広がった気づきが入ってくるかもしれません。


関連記事: 内観じゃなくて 体内観(たいないかん)


思い込みを外した目線(気づき)で
観察してみる……という意識

もしかしたら、そのために

余白 止まってみる
そのための時間(間という気づき)

意識的にそのような間(時間)を
“気づいて”つくってみることが、
必要な場合もあるかもしれません。

ずーっと忙しなく
動きつづけている意識を
スローダウン……止めてみる……

たとえば、日々あれこれ忙しすぎて、子供や家族の話や表情が見れていない(見落としている)……という状況なら、そのような「気づくこと自体が難しい状況」が起きていることに“気づいて”、ちょっと時間(ゆとり)をつくってみる……というようなことです。

シンプルに「 見落としている(気づいていないこと)があるかも? 」という視点(気づき)を 追加(意識)してみるだけでも、そのような工夫もふくめた“気づき”が入ってきたりするものです。


自覚・気づいてみるほうに
ぼんやり……意識をむけてみる。


でもでも、そもそも、、、

このような視点(気づき)を
もつこと自体が難しかったりもするので、


どういうときに 気づきゼロ なのか?
(気づきゼロのときに起きがちなこと)を
いくつか紹介してみます。


気づきOのときに起きていること


「盲点の窓」の可能性に気づいてみる

「 出来ている、わかっている、知っている 」というスキマのない思い込みから発生している盲点の窓

つまり「無知の知が0」

自覚という気づきが起きていない状態です。

そういう場合、、、

「 言っていること 」と
「 実際にやっていること(行動) 」が
矛盾していたりしがちです。

でも、本人はそのことに気づけません
(気づいていないことに、気づいていないからです)

なので側・他者からは、その矛盾に比較的気づきやすいので(=盲点の窓)、信頼できる人に「どうだろう?」と尋ねてみるのもアリかもしれません。

または、もうすでに、、、
家族などの近しい人たちが
あれこれ言ってきていることに、
じっくり耳を傾けてみることです。

「できている」とおもっている…ということは、
「できていない」ことに気づいていないし、
「わかっている」ということは、
「わかっていない」側面には気づいていません。

たとえば、、、

わたしは、できている(という前向きな勘違い)だけではなくって、わたしは、できていない(という消極的な勘違い)も同じぐらい思い込みです。

なので、、、

「そうかも」しれないし
「そうじゃない」かもしれない。

たしかに、それも一理あるよねーー。

ぐらいのかんじで、どちらか一方に決めつけてしまわずに、ぼんやり……眺めているぐらいで、ちょうど良いのかもしれません。

外(あなた、世界)に
意識が向いていることに気づいてみる。

外(あなた、世界、社会)に意識がズレているとき
内(いまここ、わたし、一人一宇宙 )に意識が向いていません

= 内観、内感 がおきていない。

たとえば、攻撃的な外向きの意識は、
内で起きている自己否定(そのかんじ感覚)から
意識をズラす・まぎらわすために
無意識に使われている
テクニックのようにもおもえます。

意識を外へ向ける……というのは、

内(いまここ、わたし)で起きている 
自己否定の苦しみ から
意識を逸らす術・テクニックとして使われがち。

そうやって自己否定のかんじ感覚(体内感)をマギらわしている、発散手法のように使われていたりもします


本来は、外も内も否定する必要はないので、まずは発生源である内(いまここ、わたし)にOKOK…と気づいて、認めて、味わって寄り添ってあげると、意識を外にズラしたり、過剰な攻撃性などでエネルギーを発散したりして帳尻をあわす必要性(エネルギー)もなくなります。


ちょっと、簡単にまとめてみました!

このあたり、YouTube動画でもお話したいなあっておもっています。

ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp

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