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成功や評価に対する捻くれた向き合い方
世間では、「成功」や「評価」を得ることが人生のゴールであるかのように語られることが多い。
努力して結果を出し、他人から認められる。それが幸せだと、そう教えられてきた。
しかし、私にはその考え方がどうしても肌に合わない。
むしろ、成功や評価を得た瞬間、虚しさが押し寄せてくることすらある。
この記事では、私自身の経験を交えながら、「成功」や「評価」が持つ虚しさについて考えてみたい。
受賞の「喜び」が感じられなかった子ども時代
私は小学生の頃、夏休みの読書感想文と自由研究で6年間連続して賞をもらった。
当時から、自分には「こう書けば評価される」「こう仕上げれば受ける」という感覚があった。
読書感想文では、ありきたりなあらすじや感想ではなく、少し意外性のある視点を盛り込み、自由研究では「ちょっと凝っているけど手軽な内容」を選ぶ。
そうすれば、結果がついてくるとわかっていた。
だからこそ、賞をもらっても「まあ、そうだろうね」としか思えなかった。
他の子どもたちが心から喜んでいる横で、私は内心冷めていた。
結果が見えていたからこそ、その達成には新鮮味がなく、「本当にこれでいいのか?」という疑問すら湧かなかった。
大学時代の卒業展示と破り捨てた優秀賞
この感覚は、大学時代になっても変わらなかった。
卒業展示で優秀賞を受賞したときも、内心では「狙った結果が出ただけ」と冷めていた。
そしてその賞状は、受け取った次の日に破り捨てた。
なぜなら、あの時の私は自覚的に狙った成功が、他人からの評価が、あまりにもつまらなすぎるものだと痛感していたからだ。
もちろん、それなりの努力はした。
しかし、その努力の先にあるのが「他人からの評価」だとわかっていた瞬間、結果がどうであれ心が動かなくなっていた。
自分が意図した通りに評価されることには、ある種の「予定調和」のような退屈さがあったのだ。
自覚的な成功の虚しさ
この経験から、私は「狙った成功」というものがどれほど虚しいかを実感した。
狙い通りに結果が出るというのは、確かに達成感を伴うように見える。
しかし、それは「他人からの評価」という枠組みの中でしか成立しない。
つまり、誰かの期待に応えるための成功は、どれだけ達成しても自分自身を満たしてはくれないのだ。
例えば、小さな成功体験を積み重ねるという行為も同じだ。
どこかで「こうすれば自己肯定感が高まる」という理屈を知り、それに基づいて行動する。
その結果、達成感を感じるというプロセスには、あまりにも作為的な匂いが漂う。
そこに偶然の喜びや新しい発見はなく、ただ「やればできる」ことの確認が残るだけだ。
自分のための成功とは何か
では、「虚しさを伴わない成功」とは一体どのようなものなのだろうか?
私が思うに、それは他人の評価を基準にしない成功、つまり純粋に自分自身が満足できる行為に根ざしたものだろう。
例えば、誰にも見せるつもりのない絵を描くことや、結果がどうでもいい趣味に没頭すること。
このような行為は、他人の期待や評価と無関係であり、純粋に自分の内側から湧き上がる衝動によって成立する。
たとえそれが誰からも評価されないとしても、自分にとって意味があるという事実だけで価値があるのだ。
おわりに
成功体験や評価を求める行為には、たしかに一時的な達成感が伴う。
しかし、そこに自分自身の喜びがなければ、その達成感は空虚なものに過ぎない。
私が小学生の頃に感じた虚しさ、大学で受賞した賞を破り捨てたあの感覚――それらはすべて、自分のためではなく、他人の目を意識した成功に過ぎなかったからだ。
これからも、私は他人の評価を基準にする成功ではなく、自分自身が心から満足できる成功を模索していきたい。
たとえそれがどれだけ小さくても、自分のために行動し、喜びを見出せる瞬間こそが本当に価値のある成功なのだと思う。
あなたにとって「成功」とは何だろうか?立ち止まって考えて見て欲しい。