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自己卑下と謙虚さは、正反対のマインドであるという話

ここ数年で、自己肯定感という言葉をよく聞くようになった。
ありのままの自分を肯定し、好意的に受け止めることができる感覚をそう呼ぶそうであるが、一般的には自己肯定感が「低い」場合に、この言葉が使われているように感じる。

そして、自己肯定感の低さを表す同じような言葉として、自己卑下という言葉がある。

私自身、長らく、「自己卑下とは謙虚さである」と誤って、また混同して認識してきたが、実は両者は正反対のマインドであった。
今回はその気づきについて、お話ししたいと思う。

まず、インターネットでそれぞれの意味を調べてみた。

自己卑下
自分は大したことのない、劣った者だと考えること

出典はこちら

謙虚さ
自分の能力や立場におごることなく、素直かつ控えめな態度で人に接すること

出典はこちら


ここまでで既になんとなくニュアンスの違いは露呈しつつあるが、さらに両者の違いを明確化した、私の結論をお伝えしたい。

自己卑下とは、自分を含めた、自分以下の全てのものの存在を「否定」するためにあり、謙虚さとは、自分を含めた、全てのものの存在を「認める」ためにある。

つまり、自己卑下は世の中を否定するために持ち出す技術であり(自分自身も消費する)、謙虚さは世の中を認めるためにある技術であるということだ。

しかし、世の中には、かつての自分自身がそうであったように、自己卑下を謙虚さと混同して認識している方が非常に多い。そこで、具体的な両者の性質や行動パターンを明らかにするとともに、なぜ「自己卑下」に陥るのか、という部分にまで迫っていきたい。

両者の具体的な性質や行動パターンは下記の通りである。

自己卑下
・権威主義的
・ルッキズム
・競争の心理、奪い合い
・減点法
・性悪説
・周囲の評価への強い関心
・正しさと速さの徹底追求
・承認欲求という虚栄心の渇望
・常に「頑張っている」感覚がある、ストレスフル、オーバーワーク

謙虚さ
・等身大
・人に上下はなく、皆平等である
・足りない人に分け与える
・生き方に無理がない
・加点法
・創造する
・人の良いところに気づく
・性善説
・楽しさの追求
・自然体、脱力

これまでご覧頂いた通り、両者は一見似ているように感じられるものの、全く別の性質や行動パターンを有する。それでは、なぜ人はこのような大きな分かれ道を辿ることになるのだろうか。

これはおそらく「成育」環境メタ認知力が関係していると思う。ここでわざわざ「成育」環境としたのは、人間は二度生まれるからである。一度目はいわゆる出産のタイミングで、この世に初めて触れたときである。そしてもう一つが、社会に出たタイミングである。

パソコンで言うところのOS、つまり人間としてのベースとなる価値観や倫理観は育ての親の下で学び、社会人としての価値観や倫理観は最初の職場(主に新卒)で自然と学ぶ。

話はここからである。
人は、一番最初にインストールされた価値観や倫理観ほど疑うことができない。なぜか。何も形がない時期には、まずは周りを信じて受け入れないと生きることができないからである。

だから、様々な経験を経て、様々な文脈 (社会、家庭、地域etc) の中で自分を丸ごと客観視できる(つまり、メタ認知力が上がる)ようになって、はじめて何か生きづらさのようなものを感じることができる。それは生きづらさというよりは、正確には、最初にインストールされた価値観や倫理観への違和感なのかもしれない。

やや前置きが長くなったので話を戻すと、自己卑下と謙虚さのルートを間違えるようになってしまうのは、成育環境(誕生時と新社会人)の初期に周りにいた人の影響が大きく関係しているのではないかということである。

何も形をもっていない、いわゆる型なしの時期には、長いものに巻かれるしかない。そうした「無意識の迎合」の集積がいまのあなたの生きづらさを作っているのである。

と、ここまで書いてきて、本来であれば、ではいったいどうすれば「自己卑下」のルートから「謙虚さ」へ戻れるのか、自分なりに説明しようと思っていたが、少し長くなりそうなので、また機会があれば次回以降で挑戦してみようと思う。

とにもかくにも、「自己卑下」と「謙虚さ」は一見似ているが、実は正反対のマインドである、というお話しでした。
最後までご覧くださりありがとう。

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