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繋がらない選択も悪くない
そういえば、あの友達、最後に連絡を取ったのはいつだっただろうか。
気づけばスマホの連絡先には、もう今さら送る言葉も見つからない名前が並んでいる。しばらく連絡を取らなければ、こちらの近況を説明する手間が増えるし、返事を待つ気力も必要になる。
そうして先送りを繰り返しているうちに、その名前はただの記号と化してしまう。
決して嫌いになったわけではない。むしろ楽しい時間を共有した友人たちだ。
しかし、環境が変わるたびに、関係も自然とフェードアウトしていく。新しい生活に適応し、新しい出会いに囲まれていると、以前の人間関係は次第に遠くなる。
そんなことを繰り返しているうちに、
「またいつか会えるよね」という儚い期待も、時間の流れに溶けていった。
インスタのストーリーを何気なく眺めていると、懐かしい顔ぶれが映し出された写真が目に留まる。
賑やかなテーブルと、笑顔で並ぶ同級生たち。画面の向こうで笑う彼らを見て、ほんの少し羨ましい気持ちが湧いてくる。
「同じメンバーで集まって盛り上がれる関係」は、特別なものに思えるからだ。
でも、その羨ましさは長続きしない。なぜなら、自分にとって一度リセットされた関係は、再起動するのに膨大なエネルギーを要するものだからだ。
仮に何年ぶりかにメッセージを送ったとして、「久しぶり!」と快く返事が返ってくるかもしれない。だけど、その先の会話が続かない。
話題を考えることが億劫で、「どうして今さら?」と心の片隅に疑問を感じながら、結局やり取りは短命に終わる。
だからこそ、私は「再会」を選ぶよりも「そのまま」を選んできた。リセット癖は私にとって、無意識の選択だったのだろう。
リセットは悪いことなのか?
長い付き合いを大事にできる人は、人間関係を「育てる」才能を持っているのだろう。
でも、私にはその才能が欠けているのかもしれない。環境が変われば優先順位が変わり、日々のタスクに追われて連絡を取る理由を見失う。
そしていつしか、「まぁ、いいか」が習慣化する。
それを「薄情だ」と責める人もいるかもしれない。でも、私はそう思わない。
人間関係を無理に維持しようとするよりも、心地よいペースで繋がりを感じられるほうが自然な生き方だと信じているからだ。
リセットするたびに新しい出会いが生まれ、新しい場所で新たな自分の輪郭が描かれていく。
新しい環境には、これから共に時間を共有する誰かがいる。その新しさに心を奪われることは、私にとって「変化を楽しむこと」そのものだ。
変わらないものと変わるもの
とはいえ、全てがリセットされるわけではない。中には、何年経ってもふとした瞬間に思い出す名前がある。
連絡を取らなくても、その記憶の中で心地よく息づいている存在だ。リセット癖があったとしても、その名前たちは「忘却」ではなく、「保留」されているのかもしれない。
人間関係には、ずっと繋がり続ける形もあれば、時の流れにまかせて途切れる形もある。私は後者の形を選び、そこに罪悪感はない。むしろ、それが私にとって自然な選択なのだ。
だから私はこう思う
「またいつか」を願うよりも、「今ここにいる誰か」を大事にするほうが私らしいと。
過去を引きずらずに新しいページをめくるたび、次にどんな人が登場するか楽しみにできる。
心地よい距離を選ぶということ
リセット癖は、逃げではなく一つの生き方だ。過去の関係を無理に呼び戻さず、「今」を基準にして歩んでいく。そうすることで、身軽な心のままで次の一歩を踏み出せる。
私のスマホには、もう連絡を取らない名前がまだ並んでいる。だけど、無理に削除するつもりはない。それは思い出としてそこに在り続け、ふとしたときに優しい記憶を運んでくれる。
私が進んだ先にいる人たちとの新しい出会いが、またリセットを繰り返していくとしても、私はそれを後悔しない。
いつか、誰かがふいにまた声をかけてくれることがあれば、それはそれで嬉しい。
でも、私から無理に扉を叩きに行くことはない。そうやって選んできた人生を、私はこれからも大事にしていこうと思うのだ。
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