
人と人が関わるための条件
こんにちは。ウィークタイの五色です。
NOTEでラップバトルのアンサー的なのいいですね。
泉さんとムカデさんの記事を見て、思い浮かんだことがあって書いてみます。
先に書いておくと、私は、
「人と人が関わるための条件はある」
と思っています。結論に飛びたい方は目次からどうぞ。
支援される側と、支援する側の違いとは?
最初は、ムカデさんのNOTEを読んで思ったことです。
「支援の客体(利用者)」と、
「支援の主体(支援者)」の大きな違いは、
自分に起きた出来事を自分で処理できているかどうか。
また、自分のことを客観的に見れているかどうか。
この辺じゃないだろうか、と直感的に思いました。
悩みごとやコンプレックスを自分で処理できていて、処理する過程で自分のことを見つめなおす経験を経ている。この過程は必要な気がします。
言葉の定義をもう一度決めておくと、私なりの定義は、
「支援の客体であり、支援を受ける人(利用者)」とは、
何らかの辛かった出来事があり、それに対して
経済面(お金の提供)
情報面(福祉制度等の提供)
情緒面(人とのコミュニケーションの機会の提供)
など、何らかのサポートを必要としていて、
また提供されたサポートを受ける人のこと、
逆に、支援を受ける人が必要とするサポートを提供するのが
「支援の主体、支援者」
という感じです。
この辺の定義は人それぞれかもしれません。この辺があいまいなまま話を続けると定義がぶれていき、よくあるレスバやクソリプ祭りがはじまります。
支援者に求められる能力
そうなると、支援する側には、支援を受ける人が必要としているものを提供する能力と意思が求められます。
親子関係はこうあるべきだ
一刻も早く仕事をするべきだ
学校はこうあるべき、キャリアというものはこうあるべきだ
こういう言葉を、これまで私がサポステなどで支援を受けている時に聞くことがありました。誰かがその時に必要としていないサポートを提供する、または必要なサポートを提供しない。
こういったことを避けるためにも、支援者には自分自身のの価値観や性格の傾向をある程度チェックしておくことが求められそうです。
特に、元々支援を受けていた人が支援をする側に回る場合は、
自分の情緒が安定しているのかどうか、
家庭問題や自分のコンプレックスは受容できているのかどうか、
自分のコミュニケーションは、外交的なのか内向的なのか、
自尊心は過少なのか過多なのか、
といったことへの自己分析が多少なりとも必要そうです。
当事者とは・・・?当事者としての私の失敗
私はウィークタイに関わって10年になります。他団体に関わっていたこともあります。
当時は(今もだけど)言ってはいけないことを連発していた気がします。
例えば、ひきこもりの自助会の会話で、
○○さん、どうして働かないの?
○○さん、仕事辞めてしまったの?
サポステとか、人材紹介のいいところがあるよ!
え、家族のことが鬱陶しいの?羨ましい、僕は家族関係が希薄で…
などなど。特に下二つはひどいことをやっているという自覚もなく話してそうです。よかれと思って話してみたり、人の悩みを全く聞く気がなく自分の話にすり替えてみたり。ひどいものです。
さて、ここで【当事者】という言葉が出てきました。ひきこもりの自助会とかでよく使われる用語です。自助会では、ひきこもりやAC、発達障害など、何らかの生きづらさを抱える特定の属性を持つ人が集まります。
その場には、「支援される側」と「支援する側」という構造が発生しないので、【当事者】という言葉がよく使われます。
個人的には当事者というものが、大まかに分けて数パターンに分類できるような気がしています。ここからは独断と偏見で書いていきます。
当事者のパターン
①自助会に来るような状態の人で、基本的に「支援を受ける(ような状態の)人」。
自分のことで精一杯。
基本的には自助会に来る人はみんな「自分のことだけで精一杯」です。これを書いている私自身、自分のことだけで精一杯です。幸せになりたいし、みんな幸せになってほしい。
②自分の傷を癒して、何らかのエネルギーを蓄えた人
素敵な方たちです。自分の生き方を歩んでいる人が、自分の傷を処理した上で、(元)当事者として、「支援者」として活動することもあります。
最初は「支援の客体」だった人が、やがて「支援の主体」になっていく。社会でそれぞれの生き方をすることもあれば、「元当事者や、支援者として」当事者活動を続けることもある。
ここまではとてもシンプルで、また素敵な回復過程の物語です。
人と関わるための条件とは?
ここからは、こんな当事者のパターンもあります、という紹介です。
どうも、自分に起きた出来事を自分で処理できているか、それから目をそらしているかというのがキーワードになりそうです。
③当事者を名乗って、自分の傷を癒さないままその界隈で金を稼いでいる。
たまーにいます。
自分の経験を、本や講演会で伝えるのは社会にとって有益なことだとは思いますが、言葉の端々から社会への恨みつらみや自分自身の人生への諦め、承認欲求などが透けて見えてしまう。
人生の先輩を追いかける身からすると、胸を張って生きている姿を見せてほしいな、というのが正直なところです。
④自分の傷に無自覚なまま、自分の傷から生じたコンプレックスが、
自助会に来た方への攻撃性や社会運動への参加に繋がってしまう。
これもあるあるだと思います。(私のことです、、)
自分に起きた出来事を吐露するのは怖いし、なんらかのイライラはある。
コンプレックスは強いし、ぶつける場所は欲しいし、、みたいな感じです。
しかも、自助会なら【当事者(支援を受ける側)】ということで、怒りも大目に見てもらえる。
ほんと、人に当たるな、自分とまっすぐ向き合え、って感じです。
しかも、自助会への参加が長く、当事者活動にのめりこんでいる人に案外このパターンの人が見受けられます。(やっぱり私のことです。傷を癒せず、他に居場所がないからかもしれませんが、、)
人と、当事者活動やスタッフに近い立場で関わるには「自分に起きた出来事を自分で処理する過程」を経ていることが必須だと、これを書いていて改めて思いました。 (ほんとすみません。。)
私の当事者としてのスタンス
今、私はウィークタイでは、たまに家族会に参加しています。そこでは福祉制度や障害年金など制度面に関する情報を提供するようにしています。
福祉制度や障害年金などの情報は当事者経験から私が得たものであり、それを親御さんにお裾分けしている感じです。支援者的な行動だと思っています。
その一方で、親御さんに対する情緒面のサポートは、私はあまり踏み込まないようにしています。私自身はいわゆる機能不全家族で育った身であり、問題と、それに伴う感情面のわだかまりがまだ完全には解決していない状況です。
自分の攻撃性などの感情が親御さんに出てしまわないように、と思ってそのようにしています。
人と人が関わることで、豊かになったり、心がじんわりと温まることは勿論あると思います。ただ、ウィークタイにおいても、2、3年前に対人間でのトラブルで多くの人が傷つきましたし、他団体でもしばしば対人間のトラブルは耳にします。自分の問題を適切に処理できているか、少なくとも完璧でなくとも自分の弱みや攻撃性がどこにあるか把握しておくことは、人と関わる上での大切な条件だと思いました。
(五色)