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メディア論一考 (1) メディアという言葉

間があきました。プログラミング着手が進んでいないので、今日は自分のライフワーク、メディア論についてほんの少し書こうと思います。

自分は大学をメディア学部という当時はちょっと珍しいところで過ごしまして、メディア学というあやふやな学問にほんの少し深く触れる機会を得ました。それからメディアについて考え続けていまして、その過程の雑多あれこれをメモしていこうと思います。

メディア is ●●?

メディアといえば、マスメディアをメディアと言ったり、記憶媒体を指してメディアと呼んだり、多様かつ具体的な使われ方をする言葉です。しかし自分の学び舎ではメディアという言葉を探ることからスタートしており、興味が湧いたのがライフワークのきっかけでした。

メディア論の起点は、もはや古典ですがマーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」からまだ離れられない状況です。この言葉は人間がメディアへの認識を深めた大きな足跡ですが、解釈が散らばる曖昧さも含んでいます。特に 「メディア is ●●」という構図の偏重は、メディアの議論にモヤをかけた感があります。「ものみなメディア」もその派生で、●●の答えの例として示されます。一面では本質を突いていますが、受けて側はクリアな答えを得ることで、メディアについて考えなくなる雰囲気を感じ、違和感を覚えていました。我ながらめんどくさい。

メディアはメディアだったり、そうじゃなかったりする

変な違和感をもってしまったばかりに、頭の中がややこしくなった僕でしたが、整理するために「メディアは●●である」以前に、そもそもメディアはなにをするものなのか、に立ち返ることにしました。

さて、メディアは何をするのでしょう。メディアは何かを伝えます。踏み込むと伝えるために人と人を繋ぎます(※おそらく人に限らない)。この繋ぎがメディアの効能です。逆に非メディアは繋ぎがないことになります。断ち切られている状態とみることができます。

メディアになりうる

上記から、●●がなんであろうと、繋ぎを生み出している瞬間はメディアになっていることになります。一方、繋ぎがなくなればその瞬間●●はメディアではなくなります。●●であるか否かは実は関係なく、あらゆる物事はメディアと非メディアを行ったり来たりしていると捉えられます。

このことから「ものみなメディア」は合っているのですが足りていない。「ものみなメディアになりうる」のほうがより本質に近いかな、と。これが僕の今のところのメディア観をざっくり表した言葉です。

このメディアになりうる観は派生させると面白くて、どうすれば△△をメディアにし得るのか、繋ぎはどのように生まれるのか、そこに人はどう関わっていくのかなど、メディア応用の議論を膨らませることができます。それらはまた後日、別メモで書いていけたらと思います。

多分ソフトウェア開発にも影響すると思う

余談ですが、このメディア論。根拠はないものの、突き詰めていくとプログラミングとかソフトウェア開発にも影響があるのではと思っています。そのあたりもおいおい触れていけたら。

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