現世界グルメ異聞『ピザまん』
情緒、というものがある。
例えば、昭和の男子なら多く経験したであろう、好きな女子の家に電話を掛ける、ということ。
あの子の母親が、まして父親が出てしまったらどうしよう? そんな事を考えながら、胸を高鳴らせ、ダイヤルを回す。ジー、コココココ、という規則的な音がもどかしくも、急かされているようにも感じる。
それが情緒。妙味とも言うのだろうか。
齢を重ね、世の中が便利になっていくと、この情緒が失われると嘆く輩は多い。だが、それは情緒ではない。
思い出は色褪せると言うが、その逆だ。届かない遠い思い出ほど美化され、記憶が改竄される。失われたのは世界の情緒ではない。自らの感性が失われただけだ。
簡単に言えば懐古主義者に成り下がり、新しいものから刺激を受ける事を拒否し、捏造された思い出の中に引きこもるだけ。
昔は良かったなんて言うが、その大半は嘘っぱちだ。今はきっと、好きな女の子の個人電話を直接聞かねばならない。その時のときめきとやらは、全員の電話番号を名簿で簡単に知れた昔には感じられなかった事だろう。
そう。情緒なんてものは何処にでもある。何処からでも生まれるのだ。
それに、冷静になって世の中を見渡そう。昔の方が良かったことなんて、そう多くはない。そりゃ、自分が望んだ方向でも、自分が予想した程度でもなかったのかも知れないが、遅くとも着実に、世界は良い方向に進んでいる。
気に入らないのは、野菜だろうか。
多くの野菜から、個性が失われた。これは由々しき事態である。
一番顕著な例では、出回るほうれん草の殆どが西洋種になった。西洋種はバターとの相性が良く、肉厚で味も濃い。しかし、おひたしなどには葉も薄く、味も淡白な和種が合う。
他には、胡瓜だ。昔の胡瓜は皮が分厚く、苦味が強かった。それを嫌う人が多かったのだろう。無論、青臭さは減り、筋張った硬さもなくなった。全体的には今の胡瓜の方が美味いと言える。
だが、胡瓜の皮の分厚さと苦味は、塩分との相性が良く、塩が染みると不思議なほど苦味が旨味に変わるのだ。なぜ、昔から漬物や胡瓜の板ずりがあったのかを考えて欲しい。
トマトもそうだ。トマトの種まわりの黄色や緑のゼリー質部分。私はあれこそがトマトの旨味の最重要部分だと考えるが、多くの人はそれを嫌い、品種改良されてしまった。私に言わせれば改悪である。いや、品質のアベレージが上がっている事は認めるが、私の望む方向性ではなかったし、トマト固有の特徴が失われる方向ではあるだろう。
そういった意味では、昔の方が良かった部分があるのも当然だ。しかし、それだけではない。
ごぼう、セロリ、アスパラなど、筋張っていつまでも噛み下せないような品質の野菜は姿を消した。中身がスポンジのようにスカスカな野菜も見かけなくなっている。
賛否両論あろうが、形も一定で虫食いもない。私自身は野菜の形や虫食いは気にならないが、搬送しやすく、調理しやすく、見栄えもいい方が良いだろうと言われれば頷かざるをえない。虫食いも気にならないが、あるかないかで言うなら、ない方が良いし、ない方が長持ちする。そう。全体的には、良くなっているのだ。
野菜売り場から季節感がなくなったと嘆く者もいるが、毎日の食卓に安定性と選択幅がある事が悪い事であるはずもない。
そうやって季節感がなくなった事を、情緒がなくなったと思う人もいるだろう。だが、私はそうは思わない。
それでも季節にしか並ばない商品はある。それでも、季節によって値段は違う。それでも、食材の旬がなくなった訳じゃない。むしろ、色んなキャンペーンを展開して季節感を売り物に換えている。
かつて、冬に暖房器具で暖まりながら、アイスクリームを食べるなんて贅沢が出来ただろうか。そもそも、アイスクリーム自体が贅沢品だった。それは100年も前の話ではない。
新たな世界には、新たな情緒が生まれる。それだけの事だ。
かつては寒い夜に、営業している屋台に滑り込み、温かい物を食べるなんて情緒があった。近年は屋台の営業許可が下りないのか、流行らないのか、次第に見かける事が減っている。これが情緒の減少かと言うと、そうでもない。
むしろ、いつでも、だいたい何処にでもあるコンビニが、色んな情緒を提供してくれる。
夏のアイスや冷やし中華、冬のおでんや肉まん。お手軽に情緒ってヤツを満喫できる。
中でも、冬のコンビニは素晴らしい。無論、夏も捨てがたい。コンビニでしか食べられないソフトクリームはなかなかの完成度だったりするし、冷やし中華なんかも、下手な中華料理屋より、安定した美味しさで安価。とてもいい。
しかし、冷えた身体で暖かい店内に入った瞬間に鼻腔をくすぐるおでん出汁の香り。即席で手を温めながら、胃袋をも満たす肉まん。これは堪らない。
無論、名店中華料理の肉まんや、名代のおでん屋とは比ぶるまでもないだろう。だが、凍える寒さの深夜にそれを提供してくれるコンビニは有り難い。
特に、肉まんが魅力的だ。
理由は簡単。美味い中華料理店があっても、肉まんを注文する事は少ないからだ。中華料理と言えば多彩で豊富な菜譜。せっかくの中華料理屋に来て、肉まんで胃袋の容量を圧迫するのは些か勿体無いからである。
様々な点心を注文したいし、胃袋を満たしたいなら、米も麺もあるのが中華。肉まんをメインに据える事は稀。
買い物がてら名店で肉まんを買い食いするか、食事の合間に飲茶するか、あるいは持ち帰りを選ぶ場合でないと、肉まんが輝けないのである。
しかも、買い食いはたまらなく魅力的だが、名店の肉まんは行列が出来ていたり、食事の合間の飲茶では、夕食との配分を考えて遠慮しなければならない。出来たてを持ち帰ると美味しさは半減するし、自宅で蒸すのは手間が掛かる。
その肉まんを手軽に楽しめるのは、やはりコンビニなのではないだろうか。
特に、レジ前で必ず目に入ってしまうのも罪だ。
しかも、意外にレア度が高い。
肉まんのウォーマーはあっても、中が空っぽだったり、注文しようとすると「すみません、今、温めている最中なので」なんて店員からお預けを食らったりする。それでついムキになって、何軒かコンビニを回ってしまったり。
だからこそ、身に染みる寒さの中で巡り会うコンビニの肉まんは「情緒」だと思うのだ。
ちょうど温まった直後の肉まんが何種類もあると、更にそそられる。
基本は肉まんだ。
ジャンボ肉まんも魅惑に映る。2種類目を選ぶとしたら、やはりカレーまんだろう。あの白々しい黄色と、カレーの香りが堪らない。
チーズ肉まんや東坡肉(トンポーロー)風なんてのも悪くない。年毎のスポット商品も、つい手が伸びてしまう。
時にはあんまんやカスタードまんなんてのもいいだろう。
だが、ひとつだけ腑に落ちない事がある。
ピザまんである。
あの美しいオレンジ色をしたピザまん。ウォーマーに貼り付けられた写真のピザまんは割られ、中から熱々のチーズがとろけ出しているのだ。
何度見ても魅惑的な色艶姿。
このピザまんに、毎年毎年騙されるのである。
そう。不味いとは言わないが、絶対に期待値を上回らない。残念ながら、私はピザまんの存在意義を認められないのである。
まず、ピザ味の肉まんと言うほどに、ピザの味がしていない。何だろう、妙な言い方になるが、ピザ味スナック菓子味の肉まんなのだ。
イミテーションのイミテーション。A≒B≒Cだとするならば、A≠Cなのである。
何か紛い物を食べさせられている気になる。
そして、肉まんとしても、肉まんの味がしていない。肉まんでもなく、コンビニの肉まんでもない、肉まん風味の何か別のものを食べているような気になってしまう。
ピザまん。名が体を表すと言うのなら、ピザを味あわせてくれ。肉まんを感じさせてくれ。その調和を見せてくれ。ピザと肉まんの融合を。ピザと肉まんの合わせ技が見たいのだ。
なのに、感じるのはピザ未満の何かと、肉まん未満の何かを足しました、という程度の味しかしない。
お前は何だ? ピザまんだろう? ピザで、尚且つまんでなければならないはずだ。
なのに、ピザでもまんでもないお前は一体何者なのだ?
しかし毎年、冬が来るたびにピザまんに騙される。この女は思わせぶりなだけで、お前には靡かないと知っているはずなのに。
という話を知人にしようと、「ピザまんってあるけど、、、」と口を開いたところ、その場にいた全員が「ピザまんは美味いよね!」と間髪を容れず口々に言われ、孤立無援状態になった。5対1だったろうか。
だが、私も美食家の端くれを自負している。味方がいなかろうと自説を曲げる訳にはいかないのだ。幸い、食い物の趣味が合わぬだけで友人関係が壊れるような連中ではない。
私は臆さず自分の意見を通した。
すると、思わぬ方向から意見が出たのである。
「お前は甚だしい勘違いをしている。ピザまんは、ピザでもまんでもない。ピザまんは、ピザまんという食べ物だ」
私は目から鱗が落ちた。いや、美食家なら頬を落とすべきだが、確かに私は勘違いをしていたのかも知れない。確かに、彼の意見は正しいだろう。
キクラゲはクラゲじゃない。カニカマもカニじゃない。乳製品コーナーに置かれていても、マーガリンは乳製品じゃないのだ。
同じウォーマーに入っていても、肉まんとあんまんでは方向性が違う。それと同様に、いや、それ以上に、ピザまんが肉まんと違う方向でもいいではないか。
そもそもメロンソーダはメロンソーダの味で、メロンの味ではない。ピザまんが必ずしもピザの味をしている必要はないのかも知れない。いや、虚を衝かれて丸め込まされている気がしなくもないが、私はニンニクを食べて「肉の味がしない」とたわごとを言っているのかも知れないのだ。
その冬、私はコンビニで、気持ちをクリアにして、まだ出会っていない、ピザでもまんでもないピザまんを注文した。
程なくして手渡されるピザまん。コンビニを出て、冷たい風に晒されながら、家路のお供となるピザまん。口を開くと、冷たい夜風が肺にまで流れ込んでくる。そして、白い息を吐きながら、手のひらに包まれた温かいオレンジ色のそれにかぶりつく。
うん。ピザまんだ。これはピザまんという食べ物なのだ。
そしてそれは、
やっぱり、そんなに美味しくねーな。
結局はピザ味スナック菓子味じゃねーか。
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なお、この先には更に酷い事しか書かれてません。
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。