正義†無罪
皆さん、こんにちは。信じる事がジャスティス! 木賃ふくよし(芸名)です。
さあ、今日はこれから「正義」の話をしよう。
なに、堅苦しく感じる必要はない。実に簡単な話だ。
正義とは、実にシンプルなモノなのである。
先に釘を刺しておくと、絶対的な正義など存在しない。いや、むしろ存在していると都合が悪いとさえ言えるだろう。
何故なら、正義なんてものは、時代によっても、コミュニティによっても、立場によっても変化してしまうあやふやなものだからだ。
例えば、ホワイト・ライ。いわゆる優しい嘘って奴だ。
わかりやすく言えば、余命幾許もない病人に「大丈夫、病気は治るよ」と言って安心させてあげる事が正しいかどうか。
答えはどっちでもいい。ケースバイケースだ。患者の精神状態や、残された余命で答えは変わる。
強いて言うなら、患者のことを最優先に考え、残された者が後悔しない方を選ぶべきだろう。そこに優しさがあるなら、それはきっと正しい選択だ。
そして、逆に言うなら、無関係な人間が「嘘は良くない」だとか「真実を伝えるのは酷だ」なんて口を挟むのは、おそらく正しくない。
次の例だ。
一族で経営している会社があった。だが、経営が芳しくなく、見通しが立たないため、代表は一族を裏切って、秘匿したまま会社を大手に売り渡したのである。
しかし、これによって代表の家族は安定を得たし、会社は立て直すだけの力を得た。
この裏切りは正義か。
代表と、代表の家族からすれば、生き延びるための選択であり、正しいと言える。
会社というコミュニティから見ても、沈みゆく船を救う手立てとしては正しいと言えるだろう。
だが、一族からすればとんでもない裏切りであり、間違いなく悪だ。
では、少し話を現実の事件に繋げてみよう。
ロシアのウクライナ侵攻は正義か。
誤解なきよう先に言っておくと、ワタクシはロシア側の肩を持つつもりはない。
だが、ロシアからすれば、NATOが喉元までナイフを近付けている状態は避けたいだろうし、国防を考えれば不凍港だけは確保しなければならないという問題がある。
正直に言ってしまうと、現在のロシアの選択はプーチンの乱心だと言うのがワタクシの見解だが、乱心ではなかったとして、ロシアにも、ロシアを守らねばならない理由はある。
無論、だからと言ってそれがウクライナの侵攻を認める理由にはならないが、ロシアにもロシアの事情はあるのだ。
例えば、インドのカースト制度。カースト制度が正しいかどうかは別の話として、イギリスが植民地にするまでは、インドはカースト制度によって上手に社会が回っていたと言う。
国が安定する事自体は正義である。しかし、その為に犠牲になる者が多い状態は正義ではない。かと言って犠牲者をゼロにするなんて事は現実的じゃないだろう。
では、犠牲者の数がコミュニティ全体の何パーセント以下なら「正義」と呼べるのか。
残念だが、それを割り出す方程式は存在しない。
そして、全体から見れば「正義」でも、犠牲者から見ればそれはおそらく「悪」なのである。
例えば、伝染病。わかりやすい話、とんでもなく危険な伝染病が見つかった。ただし、その感染者が生きていない限りは感染しないとする。
ならば社会は感染者を殺す事が正義。自分や家族を守りたい者にとっても正義だ。
だが、感染者からすれば社会が悪となる。無論、治療法を探すという選択もあるだろう。しかし、その間に感染者が増え続ける事は正義なのだろうか。
そう。絶対的な正義も、絶対的な悪も存在しない。
時代、状況、立場など様々な要素が加わる事で、正義はいとも容易く壊れ、書き換えられてしまうのである。
だから、人間はその叡智を使って、
(´・Д・)」 法律
という素晴らしいものを作ったのである。
いや、法律に限らない。ルール、規則、憲法、罰則、何でもいい。要するに、属するコミュニティで定められた明確な「正義」の在り方だ。原則として、それらのルールを破ると罰則がある。
無論のこと、コミュニティ外では通じないし、ルールも完璧じゃない。時代遅れだったり、抜け道があったり、都合が悪かったり、一部の者にだけ都合が良かったりもする。
だからこそ、原則的に、ルールは変えられるようになっているのだ。
そう。ルールは変えられる、というルールがある。
さあ、ここまで書けば、もうおわかりであろう。
正義って奴の正体は、
(´・Д・)」 ルール。
前述のように、ルールなんてものは完璧じゃないし、そもそも、正義に絶対などない。
だからこそ、ルールは常に「暫定的正義」なのである。
そう。所詮は「暫定」だ。だが「暫定以上のもの」かつ「決定」が存在しない以上、事実上の「決定的正義」と言えるのは、ルールしかないのである。
そして、ルールは正式な手続きを経ることによって変えられるのだ。
つまり、ルール違反してでもルールを変えようとする行為は、ただのテロリズムであり、それは断罪されるべき「悪」なのである。
時折「正義だから無罪だ!」「正しい事をやったのだから、罪ではない!」というような言説と出くわす。
言いたい事はわかる。何なら、その気持ちもわかる。腐りきった社会構造から、膿を出し切るためには、多少なりとも非合法な手段に出なければならない事は重々理解しているつもりだ。
(´・∀・)」 でも、ダメ。
ダメなんです。「正しい事をしたから」「結果的に正しかったから」ってのはダメなんです。
警察が容疑者を拷問して、自供に追い込んだ。犯人が罪を認めて一件落着。いや、
(´・Д・)」 拷問から逃れたくて
嘘をついてたらどーすんの?
他にも、拘留するために別件逮捕するとか、違法に手に入れた証拠とかを許すようになったら、犯人を捕まえるためには、
(´・Д・)」証拠を
でっち上げても
かまわないのだ!
ってな事になる。それが正義のためであれ、やっちゃいけないラインってのはある訳だ。
まあ、大体の場合は目星をつけられている容疑者が犯人なんだけど、そこを過信すると冤罪が生まれる。冤罪を産んじゃったら正義なんて吹っ飛ぶだろう。
つまり正義とは法であり、規則であり、ルールなのである。
そりゃ法で裁けぬ悪はあり、それを裁く事こそが正義と言う意見もあろう。だが法で裁けぬ悪を、私刑で裁く事は法治を乱す悪に他ならないのだ。
つまり、悪徳政治家だろうと極悪企業だろうと邪教だろうと、法以外で捕まえたり裁いたり罰を下すのは、
(´・Д・)」 テロ以外の
何者でもないのだ。
よって、法こそが正義の暫定(決定ではない)であり、法の定める「やっていい事」をはみ出すのは「決定的悪」(暫定ではない)なのである。
まして、法が定める「やっちゃいけない事」に手を染めるのは、その志が立派であれ、正義の意志があろうと、問答無用で「悪」なのだ。
ん? 情状酌量なんかはどうなる?
(´・Д・)」 何を
勘違いしてるんだ?
なぜ情状酌量を持ち出す必要がある?
情状酌量は、法を犯したり、コミュニティに迷惑を掛けた「悪」に対して、罰の重さを加減してやる事だ。
ワタクシが言っているのは、どんなに小さかろうと、見過ごされようと、バレなかろうと、悪意があろうとなかろうと、善意があろうとなかろうと、
(´・Д・)」 規則に
反する行為は悪。
と言う判断基準を示しているに過ぎない。
そう。法や規則とは、自分がそこに関わっているかどうかに関係なく、コミュニティの中で得られたコンセンサスなのである。
群れを危険に晒す行為は罰されなければならない。ルールはその延長に過ぎないのである。実に簡単な事だ。
そんなの知りもしない
昔の偉い奴が勝手に
決めたルールだろ!
(´°Д°)」知らねえよ!
ってな意見を耳にするが、
(´・Д・)」 お前が
知らない事なんか
こっちも知らねえよ。
てか、勉強しろ。
それだけの事なのである。そのルールが現代の価値観に合っているのかどうかは知らん。だが、ルールは正式な手続きを持って変えられる。
ルールの方がおかしいと思うなら、ルールを変えられるだけの手順を踏まねばならんのだ。
そいつを飛ばして「間違ってるからルールは変えるべき!」なんてのは、「勝てないゲームは面白くない」と喚くガキそのものであり、「正しいんだからルールは逸脱してもいい」なんてのはただの傲慢である。
力なき正義は無力。正義なき力は暴力。正義とは法。ルールを守らない力は、罰されるべき暴力に過ぎない。
だからワタクシは、正しい事をしたんだから無罪!なんて戯言は、絶対に認めないのである。
(´・Д・)」 認めません。
けどね? 職場なんかに、みんなの為に、すごく働いてる人とか、たまにいますよね?
真面目で、頭が良くって、優しくて、会社のためにも、同僚のためにも、尽力してくれている素晴らしい人って。たまに。稀に。ごく稀にいますよね。
そーゆー人が、有能だからって仕事を無茶振りされて、どうしても納期に間に合わず、ちょっとした不正を見逃したら、
(´・Д・)」 それで
無茶苦茶叩かれる。
ってな状況を見ちゃうと、
(´・Д・)」 正義は無罪って
言いたくもなるよなぁ…
って気持ちにはなる。
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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。