白と黒で、写真と#2−3
3.写真とリアリティ
P118:だからベンヤミンの批判点はまさにここへ向けられている。「あるがままの世界」などというものこそ、レンガー=パチュの「創造」である、と。
p119:写真のリアリズムは「あるがままの世界」にはない、と。
>>余談だが、SF小説『オルタードカーボン』マンガ『BLAME!』で提示された「基底現実」という概念はある。
p119.さて、日本の七十年代写真のなかで「あるがままの世界」と言う言葉は。主観を超え、ざらついた世界のリアリティをつかもうとする(「擦過」)写真家にとってキーワードであった。
>>ざらついた世界のリアリティをつかもうとする=「擦過」?
>>「擦過」写真家=森山大道?中平卓馬?
P119:現実の世界が完全に写真的であるとき、「リアル」な写真とは何か?
>>『マクルーハンの世界ーー現代文明の本質とその未来像』竹村健一著1967年、がベストセラー
P121:つまり中平卓馬は新即物主義を再発見しているのだ。
>>新即物主義wikipwdia
P122:『写真よさようなら』は、『なぜ植物図鑑か』の批判の書である。世界は写真で出来ていて、世界には写真しかないという事態、だから、何も写真以外のところへリアリティを求めなくてよいのだと言う自由が、本人にも信じられないまま非常な切迫感とともに表出される。そこでは森山大道が信じてきた「あるがままの世界」が、彼自身の写真の力によって崩壊し雲散霧消していくさま、すなわち写真的リアリティそのものが定着されている。自分と中平の道がはっきり分かれたことが森山にはわかっていたのではないだろうか。
>>植物図鑑や「ありのままの世界」から解き放たれ、写真よさようなら、と自由になることで、アイデンティティの危機になる森山大道。
P123:おそらく様々な外的条件、とりわけ中平卓馬へ投げかけられたはずの批判がその不幸によって行き先を失い一つの呪縛となったことが理由としてあげられるだろうが、しかし明らかなことは、暗室におけるプリント作業の意味が、「演歌になっちゃう」ような主観的表現から、上で見たような二重の意味(物質的条件と印刷された写真の記憶)に移行したとき、彼はふたたびカメラを手にしたのである。写真にさようならを告げてつかんだ写真に固有の自由を、森山がある程度の落ち着きとともに呼吸するようになるのは、『光と影』「仲治への旅」(1987年)を待たなければならなかった。そこには何かリアルな、つまり生きられた時間に充満した光景というものを思い浮かべると、それはすでに写真であること、記憶の奥の奥まで写真で満たされてあることの至福が見いだされている。
>>保坂は森山大道のスランプをしっかり書き込んだ写真論は初めて読んだ。
p125:写真は彼岸的な「現実」を捨て去ったとき、光の記憶を未来に向けて解放するリアルな行為となった。
>>彼岸=光速で遠ざかる宇宙の果て(保坂語)
>>p111:「その時点(1962年のキューバ危機)で俺には自分がnothingであることがわかった。それは解放だった。俺はnothingだったんだ。」ウィノグランド
続く
2022/01/23 23:46
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