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白と黒で、写真と#2−2

まず最初に保坂が補足したいこと。
「実存主義」は近代と同義と考えていて、その延長に「ポストモダン」。

「構造主義」は実存主義と対になるもの、その延長に「ポスト構造主義」。

ポストモダンとポスト構造主義は、同一視してもいい、と内田樹も指摘している。

2.スナップ写真----シューティングとプリンティング

p102:見たきたように、森山大道の世界には写真史美術史の記憶が幾重にも存在している。裸の現実を肌で感じ取って暴露するというようなリアリズムとは無縁であるし、都市は森山大道にとって記憶を想起する触媒に過ぎないから、クライン的な技法を過激化して都市の混沌を撮影する「日本版クライン」というようなイメージもまた適切でない。

むしろ、絵画史への自己言及として様々な技法を繰り広げ、「現代絵画」をその起源へと還元し続けるゲルハルト・リヒターのような作家を思い浮かべれば、写真史への自己言及として様々な技法を用い、「写真」をその物質的起源へと還元し続ける森山大道は、写真の世界における日本のリヒターなのである。
>>1.写真を見ること のまとめ

p103:まず、写真は複製芸術であるから、一切のオーセンティシティを持たない。<略>

もちろん、これでは社会のなかに存在できないから、写真は「芸術家としての作家個人」が産みだした「オリジナルプリント」という限定した物体にさせられる。見る行為もそれに応じて作家本人と物体の二つに分割される。<略>

しかし、その研ぎ澄まされたプロフェッショナリズムがどれほど写真の魅力に貢献しているとしても、それは畢竟フェティシズムであって、レコードやCD収集家のフェティシズムと同じく、二義的なものである。そして一般に写真技術として評価される質は、この二義的クオリティに関係しているから、突き詰めれば写真の本質と関係がない。

>>森山大道写真家論から、アレブレボケ写真論を迂回して、スナップショット写真論へ。

p104:「アマチュアリズムと無名性という二点の本質的な問題」(1972年の発言『写真との対話』206頁)を写真の本質に据えるとき、被写体自体の意味が消え、美的スタイルが消え、写真家が消える。そして写真の本質が、写真を「見る」ことから始まることが明らかになる。

>>アマチュアリズムとヴァナキュラー写真を参照する。

cf.ヴァナキュラー建築:wikipedia

Varnacularとは「土着」のあるいは「風土的」という意味である。1964年にバーナード・ルドルフスキーが著した『建築家なしの建築』によってヴァナキュラー建築の概念は関心を集めた。

p105:被写体や作家性や写真美に寄り道できない場合、スナップ写真には、撮影された過去のある時点、場所を、現在の時点・場所においてみている、ということしか残らない。

>>それは=かつて=あった『明るい部屋』

p105:二つの日付と場所が、重なること。「見る」というこの交流へと直行するスナップ写真は、だから最も素朴で最も本質的なのである。>>素朴=無意識を写し出す/即物的な世界の存在を露出させる

>>本質=差異と落差

p105:「コンポラ写真」と呼ばれた一群の写真は。変容した作家の自己に対応したリアリズムとして、撮影する側に「私」と「リアリズム」の問題を先鋭化させたが、実は写真を見る側に対しても、いったい「写真を見る」とはどういうことであるのかを問い質すものであった。

>>「私」と「リアリズム」が先鋭化=コンテンポラリー・フォトグラファー

p106:しかし、やがてそのように「下手」な写真作品が一つのスタイルとして定着すると、スナップ写真のあいだの相違を技術的に把握することは不可能になる。

>>二義的なクオリティが意味をなくし、写真を見ることにもどる。

>>清水穣の写真批評ステートメント。ドイツ写真批評のように、ドイツの社会歴史背景を補助線にできない。

P107:ここでコンテンポラリー・フォトグラファーの一人として森山大道の位置を、クラインとウィノグランドのあいだで計ってみることもできるだろう。様々なプリント技術を駆使して自らが表現したい「ニューヨーク」を作り上げたクライン(プリンティングの極)と、プリントにはほとんど関心をもたなかったウィノグランド(シューティングの極)である。

>>クライン=実存主義?

>>クライン≒実は細江英公?

>>ウィノグランド=構造主義?

>>ウィノグランド≒実は荒木経惟?

p109:作家個人の「私」の生、「社会」から落ちこぼれた「個」の実存によって支えられるオルターナティヴなリアリティを教えられた一群の若い写真家たちが、美しいプリントに代表される芸術写真(例えばアンセル・アダムス)のプロフェッショナリズムと、フォトジャーナリズム(例えばマグナム)の両方に背を向けた。だがクラインやフランクの世代とは異なり、「コンテンポラリー・フォトグラファー」たちは、「私」にリアリティを求めることも出来ずに、テレビによって完全に斜陽化していた「写真」にもリアリティを求められなかった。>>コンテンポラリー・フォトグラファーたち=ウィノグランドと森山大道

p110:つまりクラインの作品を見るものは、クラインが対決したとおりのニューヨークを追体験する。Life is good & good for you in NewYork、それは強烈な「私」の写真であり、そこでは「私」と「おまえ」が一対一で対決している。

>>薔薇刑?

p110:ウィノグランドの写真は、まったくそうではない。

>>センチメンタルな旅?

p111:展覧会のためのテキストでシャーコフスキーはかつて社会悪是正式のドキュメンタリーと違って、「あたらしい写真家達の世代は、ドキュメンタリーの方法をより個人的な(personal)目的に差し向けている」と述べたが、ウィノグランドや森山の世代のこの個人とは、空っぽの個である。<略>

カメラの視線は、その不特定多数の視線の対の一つにすぎないし、作者も複数三人称の一部にすぎない。つまり、ここにはウィノグランドの自己表現はないのである。

>>以下続くが、森山大道の撮影には自己表現はない、と暗に言っている?

>>清水穣の写真批評ステートメントである「撮影」から「写真」を見ることを繰り返す。

p112:自己の空虚を突き抜けたウィノグランドが写真を通じて見いだすものは、構造的なものである。それは超越的に存在するような社会構造ではなく、人間と人間の偶然の布置によって、本人たちにもどうしようもなく生起してしまうような構造である。

>>構造主義を指摘

>>本人たちとはウィノグランドと森山大道

>>森山大道の世界には写真史美術史の記憶が幾重にも存在している。という冒頭の文に呼応する。

p112:さて、森山大道はプリント的にはクラインに近く、写真家としてのスタンスとしては上で見たようなウィノグランドに近いとはいえ、両者とはさらに異なっている。

>>クライン=実存主義

>>ウィノグランド=構造主義

>>森山大道=ポスト構造主義

P113:人物を人物として撮っている作品がそもそも少ないので、ウィノグランドのような視線のカオスもなく、「私」は完全にゼロになってレンズと一体化しているように見える。

>>「私」とは森山大道と清水穣の集合意識であり、空っぽの個であり、本人がどうしようもなく生起してしまう個である。

>>実存主義的

P113:粒子状にざらついた画面が立ちはだかるとしても、眼はプリントのその触感をなぞり続け、虚ろな私は表層で希薄に漂い続ける。このために、クラインやウィノグランドに比べて、森山の作品に一種の情緒を感じ取るようなことも起こる。

>>虚ろな私=かっこなしの無垢の清水穣

>>構造主義的

P113:人物を人物として撮っている作品がそもそも少ないので、ウィノグランドのような視線のカオスもなく、「私」は完全にゼロになってレンズと一体化しているように見える。

>>「私」とは森山大道と清水穣の集合意識であり、空っぽの個であり、本人がどうしようもなく生起してしまう個である。

>>実存主義的

P113:粒子状にざらついた画面が立ちはだかるとしても、眼はプリントのその触感をなぞり続け、虚ろな私は表層で希薄に漂い続ける。このために、クラインやウィノグランドに比べて、森山の作品に一種の情緒を感じ取るようなことも起こる。

>>虚ろな私=かっこなしの無垢の清水穣

>>構造主義的

p113:先に例を挙げたあからさまな写真史の記憶は、まさにこの美的な漂流を断ち切るために召喚される。<略>

答えのない問いかけのような非人称的な漂流が不意にあからさまな答え(あの写真集のあの写真に似ている)にぶつかると、否応もなく、いま写真を見ている「この私」が析出するのである。

>>「この私」は原稿を書く評論家の清水穣。

p114:作品の背後に、いわば写真史の「スナップショット」としての記憶を、レディメイドのイメージを見いだすとき、我々は素面に戻り退屈な自分自身に戻る。

>>我々、と清水穣が読者を思い出す。

p115:こうして、彼の作品のざらざらとした触覚感は、世界を擦過するハンターの「リアリズム」とは関係しない。実はこの「擦過」が、具体的な個々の映像の記憶とのあいだで生ずるからである。

>>清水穣の擦過体験と森山大道の擦過リアリズムを重ね合わせる。

p115:言い換えれば、クラインやウィノラグランドにおいて見るものを突き放す視線、写真への没入に対する異化作用としての直視する視線は、森山大道においては印刷物の視線なのである。

>>どうしようもなく印刷物を想起させ、写真史美術史の記憶を呼び覚まされる。擦過リアリズム。

p116:しかし、Aの写真とそれを見る者のあいだで何が起こっているか、すなわち「見る」とは何かを論じることは出来る。森山大道の場合、それが記憶である。

>>森山大道の写真を見る本質は、どうしようもなく呼び覚まされる記憶の“差異と落差”である。

p116:しかし、この「記憶」とは、各人が写真のなかに自分の過去を再認するという意味ではない(そういう写真が「写真の展覧会のように退屈」なのである)。

>>共感は退屈。

p116:それは未知の「何か」との遭遇であるとされる。

>>それが落差である。

P116:「無意思的記憶」というプルースト的なテーマが色濃く現れはじめ、次の文章などは、ほとんどプルーストの「敷石」体験の用である。

>>マルセル・プルースト『失われた時を求めて』wikipedia

このような「無意思的記憶」の現象は、最終巻『見出された時』において、ゲルマン大公邸の中庭で敷石に躓いた時、ヴェネツアの寺院の洗礼堂でタイルに躓いた記憶がよみがえり、第一巻のマドレーヌのときと同じような歓喜の感覚を再びする。

p117:写真を見るということは、その写真が写した時間と、見る者各個の記憶が現在においてつながるということである。それは一種の交流であり、過去を通じて予見をされない未来と遭遇することなのだ。
>>時間のつながることによる差異、予見をしない未来という落差、があたえる衝撃。最期にこの結論が残る。

続く。

2022/01/23 21:10

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