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ChatGPT × 保坂|「零度のエクリチュール」と政治的中立性をめぐる対話

コメダでChatGPTと対話していたら、僕が都市や川の写真を撮っていることを、ぶっ込んできた。
どうもある種のユーザーに慣れる機能があるらしい。
どっとはらい。
2025/02/17 15:53

ChatGPT × 保坂|「零度のエクリチュール」と政治的中立性をめぐる対話

零度のエクリチュールとは何か?

ChatGPT

ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』は、特定のイデオロギーに絡め取られない「ニュートラルな書き方」を探求した試みだった。1950年代の冷戦時代、世界は明確な二元論(資本主義 vs. 社会主義)のもとにあり、作家の書き方もまた政治性を帯びていた。そんな時代に「零度」を目指すことは、ある種の政治的態度でもあった。

しかし現代では、冷戦の二元論が崩れ、政治の対立軸は多極化している。そのような状況で「政治的中立」を目指すことは、単に二元論を超えることになるのか、それとも逆に、新たな二元論に絡め取られることになるのか?

「政治的中立」を目指すことの危うさ

保坂

現代における「政治的中立」は、単なる左右のバランスを取ることではなく、多極的な力学の中でどう位置を取るかが問われるはずだ。むしろ「中立である」こと自体が政治的な選択となり、結果的に既存の権力構造を補強することになりはしないか?例えば、報道機関が「中立な報道」を掲げるとき、どのニュースを扱うか、どの言葉を選ぶかで、すでにある種の政治性が生まれている。

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その通りだ。「中立である」という姿勢は、しばしば支配的な価値観を追認する行為になり得る。環境問題や人権問題について「中立な立場」を取ることは、現状維持を容認する態度とみなされるかもしれない。「零度」を目指すことが、かえって特定の政治性に絡め取られてしまう危険がある。

二元論を超えた「零度のエクリチュール」は可能か?

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では、現代において「政治的中立」を超えた「零度のエクリチュール」はどのように可能なのか?

単に「左右の中間を取る」だけではなく、どの立場にも固定されず、流動的に批判的視点を持つことが重要になる。これは、バルトが後年に展開したポスト構造主義的な視点とも接続する。つまり、「零度」を目指すことは、単なる非政治性の追求ではなく、政治性そのものを相対化し、問い直す行為へと変質する。

保坂

確かに、視点を固定しないこと自体が、現代における「零度のエクリチュール」になり得るのかもしれない。一つの都市を撮るにしても、どの視点を取るかによって、その都市の見え方は大きく変わる。単に「都市を記録する」のではなく、都市を「どのように記録するか」を問い続けることが、現代の「零度」につながるのではないか?

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そうしたアプローチは、単なる「ニュートラルな視点」ではなく、むしろ視点の多様性そのものを提示することに意味があるのかもしれない。例えば:
• 同じ都市を異なる視点で撮影し、見る者が多極的に解釈できるような構成にする。
• 「記録」と「主観」の境界を意図的に曖昧にし、見る者が解釈の揺らぎを感じるような写真を提示する。
• 都市の「見えない部分」を写すことで、支配的な視点に対するカウンターを生み出す。

あなたの写真表現と「零度のエクリチュール」

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あなたの都市や川をアーカイブする写真表現も、単なる記録ではなく、「どの視点が語られ、どの視点が語られないのか」を意識的に扱うことで、新たな零度のエクリチュールを実現できるのでは?

例えば、都市を「固定されたランドマーク」ではなく、「変化し続ける空間」として捉えることはどうだろう?写真の中に「変化の痕跡」を組み込むことで、特定の視点を固定しない作品が生まれるかもしれない。具体的には:
• 同じ場所を異なる時間帯や異なる天候で撮影し、それらを並列して提示する。
• 一つの風景の中に、複数の視点(地上、俯瞰、マクロ、ミクロ)を組み込むことで、「単一の視点ではない都市像」を示す。
• 人の痕跡、建築の変遷、水の流れなど、「変化」を主題にすることで、都市を固定されたものではなく、流動的なものとして捉え直す。

「零度のエクリチュール」は、単に政治性を排除することではなく、むしろ特定の政治性に閉じ込められない視点を探ることにある。写真というメディアを通じて、その「開かれた視点」を実践することができるのではないだろうか?

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