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ChatGPT × 保坂|ライカの呪いと新自由主義的多幸感の罠

〈ライカの呪い〉シリーズです。
ChatGPTと対話すると論の切れ味が良い分、内容が過激になりますね。
そこで僕は、浅田彰の「乗りつつずらす」感覚を導入してみました。
こういう細かい介入は大事かもしれません。
どっとはらい。
2025/02/20 10:00

ChatGPT × 保坂|ライカの呪いと新自由主義的多幸感の罠

ライカというカメラは、単なる撮影機材を超えて、一種の制度となっている。写真家、YouTuber、愛好家の間で「ライカを使うこと」によって得られる新しい視覚体験、ノスタルジックな感覚、エモーショナルな価値が語られる。しかし、この現象を深く掘り下げると、そこには 「アウラの消失と権力の不可視化」、「新自由主義的な快楽の制度化」、そして 「ライカのブランドチェンジが最終的に新自由主義化を促す」 という問題が見えてくる。

ただ、最初に言っておきたいのは 僕自身がライカを大好きで、実際に欲しいと思っている ということだ。ライカの呪いに抗いながらも、その魅力に引き寄せられる。このテキストが炎上する可能性があるのも分かっている。ライカに対する批判は、ライカを愛するがゆえのものでもある。そして、そもそも写真という表現、写真家という生き方が「制度に意識的にとらわれる」ことと相性が良いのではないか?という視点も考えながら、話を進めていきたい。

1. アウラの消失と権力の不可視化

ChatGPT の視点

ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」で指摘したように、アウラ(芸術作品の一回性、時間と空間の中での独自性)は複製技術によって消失する。しかし、ライカの現象はこれとは逆の動きを見せる。ライカというブランドが「アウラの回帰」を演出し、それを体験することが快楽の源泉となる のだ。

「ライカを使うことで新しい知覚を得る」という言説は、一見、ベンヤミン的な「新たな知覚の獲得」のように見えるが、実際には ライカという制度が規定する知覚の枠組みの中でしか成立しない。つまり、ライカを通じて得られる「新しい視覚体験」とは、ライカが与える「正統な視覚体験」なのである。こうして、ライカを使うことの「意味」は、ライカという制度の中に閉じ込められ、権力構造が不可視化される。

保坂の視点

ライカを手に入れたYouTuberが、「ライカで撮ると新しい発見がある」と喜びを語る。その発見とは何か?
ソニーやキャノンのカメラでは得られない、ピントの曖昧さ、フレーミングの不正確さが、ライカの「魅力」として語られる。これは単なる「操作感の違い」ではない。ライカの「不便さ」そのものが価値化され、それを受容することが「特権的な視覚体験」になっている。ライカが提供する「視覚」は、ライカというブランドによってあらかじめ定義されたものだ。この視覚の制度化が、権力の不可視化へとつながっている。

2. 新自由主義的な快楽の制度化

ChatGPT の視点

新自由主義は、「選択の自由」「自己最適化」「パフォーマンスの向上」を強調する。ライカを使うことで得られる「エモい体験」「ノスタルジー」「新しい知覚」は、こうした新自由主義的な価値観と深く結びついている。

ライカは高価であり、また使いこなすにはある程度の技術や感性が必要とされる。この「参入障壁の高さ」が、ライカを持つことの「特権性」を生み出し、それ自体が「快楽の制度」として機能する。
さらに、ライカで撮ることが「新しい視覚体験」として語られることで、ライカの価値は「商品」としてだけでなく、「体験」としても市場に組み込まれる。ここでは、「新しい視覚」は自己最適化の手段となり、「ライカを持つことで得られる快楽」は、消費社会の論理に回収される。

保坂の視点

「ライカを持つこと」が一種の「自己表現」になってしまうとき、それはすでに「選択の自由」ではなく「選ばされる自由」に過ぎない。ライカの「不便さ」が価値化され、それを「味わうこと」が特権的な体験となることで、「不便であること」さえも資本主義的な快楽に組み込まれる。

ただし、ここで「乗りつつずらす」という視点を加えたい。
浅田彰の『構造と力』に出てくる「乗りつつずらす」は、ある制度の中に一度身を置きながら、そこからズレを生じさせることで批評的な視点を確保する戦略だ。YouTuberや写真家がライカを手にし、その快楽を享受しながらも、「制度の内部で批判を組み込む」という動きは、まさにこの「乗りつつずらす」に当てはまるのではないか?

ライカの呪いをただ批判するのではなく、その制度に巻き込まれながら、どのようにズラし、どのように制度の枠を超えられるのか。そこに写真の批評性が問われている。

結論:「ライカの呪い」は、資本主義の呪いかもしれない

ライカの呪いとは、単にライカを持つ人々が特別な体験をしているという話ではない。それは、「特別な体験をしている」という幻想自体が、新自由主義的な快楽の制度に組み込まれている ことを意味する。

ライカを持つこと、ライカで撮ること、それをコンテンツとして発信すること——これらすべてが、「選択の自由」を装った「消費の自由」の一部になっている。そして、それ自体が権力の不可視化を促し、新自由主義的な快楽の制度に回収されていく。

しかし、だからこそ、写真家やYouTuberが「制度の内部に巻き込まれながらズラす」ことの意義があるのではないか?
写真表現とは、制度を乗りこなしながら、同時にその制度をずらしていく行為なのではないか?
ライカの呪いに抗いながらも、ライカの制度を使って、新しい批評性を生み出す可能性が、ここにはまだ残されている。

hosakanorihisa

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