見出し画像

【完全版】『新型コロナからの気づき―社会と自分の関わりを中心に』(柳澤協二氏)

【道しるべより特別寄稿のご紹介】
 先日完全版を掲載した柳澤協二元内閣官房副長官補/防衛研究所所長による新連載『日米リーダー交代からの気づき』(https://note.com/guidepost_ge/n/n98f027aa7b5e?magazine_key=mf156a1081e3b)にちなみ、2020年にご寄稿いただいた『新型コロナからの気づき―社会と自分の関わりを中心に』完全版を掲載いたします。

 日本初の緊急事態宣言下に執筆された連載記事各回をこの一ページに収め、完全版として掲載します
(※冒頭の「緊急事態宣言は解除されましたが」など、1回目の緊急事態宣言解除時の連載記事であることをお含みおきください)。東京オリンピック・パラリンピック開催の最中に第5波が猛威を振るう日本に、感染症の蔓延する社会と向き合う「気づき」をもたらしてくれることを願います。

 盟友でもある、紛争解決の専門家として名高い伊勢崎賢治・東京外国語大学教授も登場します。コロナ禍の中での微笑ましいやり取りをご覧ください!

 緊急事態宣言は解除されましたが、いまだに感染者は増え続け、コロナ以前の日常は戻りません。年金暮らしの私の場合、家にこもることもできますが、生活のため、あるいは地域の暮らしを支えるために店を開け、人と会い、電車に乗らなければならない人たちは、感染防止と生活という二律背反に遭遇して、本当に大変だろうと思います。こうして家にいる生活を送るなかでも、自分の日常が、スーパーの店員さんや宅配便のドライバー、ごみ収集の作業員さんなど、いかに多くの人たちに支えられているかということに、改めて気づかされます。

(1)不要不急とは何か?

 コロナに伴う自粛生活のなかで、いろいろ考えることがありました。その一つは、“不要不急”とはなんだろう、ということです。私も、計画していた旅行や家族の会合も取りやめました。それは、生きるために不可欠ではないのですが、間違いなく生活の一部でした。

 人によっては、パチンコでも“接待を伴う飲食”でも同じ生活の一部かもしれません。それでも、2か月自粛できたのなら、それは“不要不急”だったのか。そうではなく、必要なことを我慢していただけです。我慢は、個人差はあっても、やがて破たんする。

 生物学的に生きることを基準にすれば、食って寝て子孫を増やす、そのために働く、それ以外のことは不要不急になってしまいます。特に趣味や娯楽は、生物学的な生存に不可欠とは言えない。しかし、人間らしく生きるために必要であることは否定できません。

 先日、“東京アラート”が継続している中で、友人の伊勢崎賢治さんから「東京アラートなどくそくらえ!ジャズライブをやります」というメールを頂きました。私は、ジャズの趣味はないのですが、気持ちはわかります。そこで、“くそくらえ”ではなく、“ジャズをやらなければ自分の人生が成り立たないので、やります”と言うべきではないか、と返事を書きました。人間らしく生きるとはそういうことで、食って寝る以外にも、“これがなければ生きる実感が持てない”というものがあるのだと思います。

伊勢﨑賢治ジャズライブ写真(ソロ)

[画像]伊勢﨑賢治 東京外国語大学教授のジャズライブ風景
 2017年2月26日JAZZ喫茶メグ(※当時)にてスタッフ撮影。ジャズに目覚めたのは、シエラレオネでの武装解除の現場とのこと。柳澤氏が代表の「自衛隊を活かす会」の発起人で盟友でもある伊勢﨑氏は、"不要不急"のイベント自粛が叫ばれる中、あえてジャズライブ開催にチャレンジした。

 ところで、大学教授である伊勢崎さんは、生活のためにジャズをやっているわけではありませんが、生活のためにやっている人もいる。経済的には"娯楽"と分類される産業に関わる人にとって、自粛は、生活の糧を失うことにつながります。それは、生物学的な生存の否定です。

 経済を回すことから考えれば伊勢崎ライブは不要不急ですが、産業としての娯楽は不要不急ではない。一方、伊勢崎さんの人生にとって、ライブは不要不急ではない。不要不急の基準は、何を目的とするかによって、また、職業、年代、性別、人生経験などに応じて異ならざるを得ません。


 一方、国や都が求めた"自粛"は、不要不急の判断を個人に丸投げするものでした。感染の危険を強調して自粛を訴えれば、恐怖の連鎖を生んで、店を開けても客は来ない。自粛の連鎖は、経済と生活を破壊しました。それでも、「コロナで死ぬよりはまし」という論理が優っていました。「コロナで死にたくないでしょ?」と聞けば、「Yes」しかありません。では、「そのために生活の糧や人生の楽しみをすべて放棄できますか?」と聞けば、答えは「No」です。人々は、その中間にある答えを求めていたのです。

 感染者の数字を上げながら、一律に“ステイ・ホーム”を訴えることは、「皆さん、死にたくないでしょ、生活や楽しみはあきらめてください」と言っているのと同じです。だから、「くそくらえ!」という反発が生まれます。統計数字の裏には、感染した人、していない人を含め、日常をゆがめられた人々の人生の葛藤がある。

 一律の自粛要請は、必要なことだったと思います。それは、重症者を受け入れる医療が崩壊しないよう、爆発的な感染拡大を防ぐための緊急避難の手段として必要でした。だから行政は、そうした事態を見越した医療体制を作ってこなかった“不作為”を反省するところから始めなければなりません。

 そういう医療体制がなかったのは、特定の政権の失敗ではなく、“みんなが間違えていた”結果だと思います。利潤を生まないものを不要不急と考える共通の基準がありました。それを率直に反省しなければ、ポスト・コロナの社会像は、描けないと思います。

(2)人間らしく生きるとは、どういうことか?

 生物学的な意味を超えて”人間らしく生きる”とは、どういうことなのか。伊勢崎さん(伊勢﨑賢治東京外国語大学総合国際学研究院教授)のジャズでもネットで配信するアーティストでも、共通するのは”人に伝えること”です。私なりの言葉で言えば、それは”自己実現”なのですが、 自己実現のためには社会とのつながりが必要です。一人で風呂場やトイレで歌い、演奏しても、それは自己満足であって自己実現にはならないのです。

伊勢﨑賢治ジャズライブ写真(グラスと一緒)

[画像]伊勢﨑賢治東京外国語大学総合国際学研究院教授による、ジャズライブ(吉祥寺のジャズ喫茶メグにて、スタッフ撮影)。新型コロナウィルス流行に伴い、数々の会合が自粛を余儀なくされた。伊勢﨑教授のライブも難しいかじ取りを迫られた。

 人生は、もともと制約に満ちており、”やりたいことを、やりたいようにやれる”のは、極めて限られた人だけです。コロナがあってもなくても、欲求の充足には多くの制約があります。カネがない、ヒマがない、才能がないのは仕方がない。さらにコロナによって追加された制約は、”人と会ってはいけない”ということでした。

 “人と会わない”という制約は、結構きつい。”仕事のやりがい”も”家族のぬくもり”も、人とのかかわりのなかで自分が必要とされている実感から生まれます。人の自己実現にとって、人とつながることは必要条件なのだと思います。

 思うようにできない制約のなかで、自分の存在を確認する、あるいは、自分にご褒美をあげたくなるような自己肯定感を保つことが幸福であり、言葉でも態度でも、それを達成していくことが自己実現です。そういう生き方が”人間らしい生き方”だと思います。

【新型コロナ】テレワーク実施中

[画像]新型コロナ対応の無料広告イラスト(提供:株式会社Hikidashi)。感染流行の中、注目が集まるテレワーク成立に不可欠な前提とは。

 「新しい生活様式」が語られています。 一言で言えば、人と会わなくてもよい生活です。そこでもカギは、それが自己実現につながるかどうかだと思います。決められた手順・目的があり、自分の役割が決まっていれば、ネットで仕事ができるかもしれません。しかしそれには、自分の位置づけや相手の立ち位置がわかっているという前提が必要です。

 私のように、”仕事とは人のつながりであり、モノを売るのではなく自分の人柄を売るものだ”と考えてきた”古い人間”には、そこが理解できません。

 余暇はどうか。私のような年寄りでも、テレビの旅番組やグルメ番組を見れば、満足するより行きたい欲求がつのります。まして、体力がある若い人たちは、見るだけでは満足が得られないと思います。仕事は家にこもってできたとしても、余暇で外に行くのでは、感染防止の観点から見れば意味がない。

 これから数か月、コロナに伴う自粛は続くでしょう。新しい制約のなかで、独りよがりでない自己肯定感を持ち続ける、そのために人とつながることの大切さがますます高まっていくと思います。

(3)自粛の負の側面はどうして生まれたか?

 “自粛”というのは、個人に起因する制約ではなく、まぎれもなく社会的制約です。その意味は、感染の機会を減らすためであって、”うつされたくない”という動機と共に、”他人にうつしてはいけない”という動機があるのだと思います。

 “愛する人を守るために”という自粛要請の言い回しが気になりました。これは、”うつされたくない”気持ちに訴えています。しかしそれは、”うつすヤツは敵”という発想につながります。案の定、”自粛警察”や”マスク警察”といった現象が生まれています。

【新型コロナ】コロナ対策実施中

[画像]新型コロナ対策の無料広告(提供:株式会社Hikidashi)。
コロナ対策にも、節度が求められている。

 営業自粛も、マスクや検温も、“うつされないため”ではなく、”うつさないため”の手段です。”そこに敵がいる”からではなく、”自分が人にうつしてその人生を台無しにするような敵になってはいけない”という配慮です。

 そこではじめて、社会的制約と自己実現が同じ根っこでつながってくる。”敵かもしれないヤツはやっつける”のであれば、敵でない人への仕打ちをどう正当化するのか。そういう自分を無条件に肯定できるのだろうか。一方、”人にうつさない努力をした自分”は、無条件に褒めてあげていいのだと思います。

 自己実現にとって最大の機会は人とのつながりであり、最大の制約もまた”人とのつながり”です。その制約とは、一言で言えば、”自分の都合で他人を傷つけてはいけない”というルールに縛られていることです。だから、マスクをしなければいけないし、体調が悪ければ出かけてはいけない。

 ネットによる誹謗中傷が話題になりますが、他人を攻撃して欲求不満を解消しても、自己実現にはなりません。ネット上の自分は匿名であって、リアルな自分ではない。玩具のお金を持っても金持ちになれないのと同じです。ネット上の誹謗中傷は、”他人を傷つけてはいけない”というルールに反し、”他人に共感してつながる”という機会を逃しているといえるのです。

(4)民主主義は崩壊するのか?


 コロナという目に見えない、得体のしれない脅威にさらされるなかで、人々は政府の対応の甘さを批判しました。一方、中国は、有無を言わさぬ都市封鎖で、感染の波を乗り越えたように見えます。そこで、民主主義は危機対応において独裁制にかなわないのではないか、という疑問が生まれています。

 しかし、人々が実際に感じてきたのは、自粛に伴う不自由さであり、生活の危機です。中国のように、政府が社会を管理してほしいとは、だれも思っていない。

 憲法第13条で「個人の幸福追求の権利は、公共の福祉に反しない限り国政における最大限の配慮」が求められています。コロナとの関連で言えば、感染拡大を防ぐための自粛要請は、公共の福祉からの要請であり、医療体制を整えて行動の自由を回復することが国の責務だということです。個人の立場で言えば、人にうつさない努力をしながら、人とのつながりのなかで自己実現していくことであって、それを政府が過剰に妨害してはいけないということだと思います。

 そうはいっても、状況によっては、今回のコロナに限らず、ロック・ダウンが必要な場合もあると思います。それは、医療体制の崩壊を防ぎ、救えるはずの命を失わないようにするためであって、それに備えた体制を準備してこなかった行政の責任が自覚されなければならないと思います。

 福島の原発事故で、住民が強制的に排除される"逆ロック・ダウン"の措置がとられましたが、その一義的な責任は、科学的に想定される地震・津波に備えてこなかった国と東電にある。それと同じ理屈で、コロナも"想定外"ではなかったはずです。

福島第一原発 水素爆発後の建屋(4号機)

[画像]福島第一原子力発電所、水素爆発後の4号機建屋。初動対応、当初の想定、事故後の危機管理など、日本社会に多くの課題を投げかけた。
(出典:東京電力ホールディングス)

 そこを抜きにして、政府に絶対的な権能を与えることが問題なのだと思います。政府が、科学的根拠に基づいて、国民の同意を得たうえで強制する。そこに、中国のような独裁制との違いがあります。国民が納得して強制を受け入れることができれば、そして、国民の側も自覚的な制約のなかで自分を見失わなければいいのだと思います。そう考えれば、民主主義も、まだまだ捨てたものではない。

【画像】オーストリア国会議事堂(霧の中)

[写真]かつて日本初代首相・伊藤博文が帝国憲法起草にあたっての研究に訪れたオーストリア・ウィーンにそびえたつ国会議事堂。1883年に完成した議事堂は、自由と法治に基づく民主主義が誕生した古代ギリシャにモチーフをとっている。(2016.01.09 道しるべスタッフ撮影)

 危機における民主主義のカギは、国民の同意と自覚です。それで危機を乗り越えれば、独裁制よりもはるかに優れた制度であると胸を張ることができると思います。

(5)社会は変わるのか?

 コロナで一番驚いたことは、なんと、マスクがない。マスクも、経済大国日本が自力では作れなかったのです。病院も、あんなに儲けていると思っていたら、感染者を受け入れる余裕がない。「働き方改革」 で、若者たちは何不自由のない生活を謳歌できるはずだったのに、数週間お店が閉まると職を失う。日本の医療や雇用は、こんなにもろかったのか、ということでした。

 社会が、そのように設計されていた。ドライブモードで走るぶんには快適だが、坂道に来るとエンストしてしまう車のようです。そういう車は、設計に問題があるとだれでも思う。こんなにもろい社会も、設計に問題があるはずです。それは一言で言えば、利益を最大化するために利益を生まない要素をとことん切り捨てた社会のもろさだと思います。

 突飛ですが、私は自衛隊の戦車を思い出しました。戦車の乗員は、以前は4人でした。指揮官と操縦、弾込め、射撃です。最近では、弾込めを自動化することで乗員を3人に減らしています。戦争しなければそれでいいのですが、戦場で一人怪我をしたら、手伝える余力がないので戦車が動かない。いまの社会全体がこの戦車のようになっているのかもしれません。

砲撃する10式戦車

[写真]砲撃する10式(ひとまるしき)戦車。現在の10式、一世代前の90式(きゅうまるしき)戦車は、それまで4名の乗員を自動化で3名に減員している。

 もう一つ驚いたことは、自粛のなかで人々は平常でなくなっている。不安と苛立ちがあり、目に見えるものに敏感に反応するだけでなく、考える時間もある。それは、"ぼーっと生きる"時間ではなく、不安と苛立ちのこもった時間でした。そこで何が起きたかといえば、政治に対する見方が厳しくなったことでした。政府の説明不足や対応の矛盾に敏感になった。世の中が順調に回っていれば、仕事が忙しくて問題にもならなかった物事が、優先すべき仕事がなければ、目につくのも当然かもしれない。

 検察庁法改正案が廃案になったのは、その表れだと思います。仕事が忙しければ、検察官の定年など、普通の人々には"どうでもいいこと"だったはずです。特に、仕事の減った芸能人が声をあげた。仕事のために遠慮していたその仕事がないから。そして拡散した。

 政治の側も、従来の政権のやり方からすれば、多少の反対があっても法案を通していたと思いますが、それができなかった。これは、人々の反抗であり、気づきの力だと思います。

 その気づきが、社会の設計のおかしさに向けられたとき、社会は変わらざるを得ません。

国会議事堂(閉会後)

[画像]閉会中の国会議事堂。新型コロナウィルス流行後、緊急事態宣言の早期発令、検察庁法改正への抗議など、政府の世論への対応は終始後手に回った。現在、臨時国会の早期開会をめぐる与野党の駆け引きが始まっている。

 これからも、"検察庁法"のような"小さな出来事"が続くと思います。これまでのやり方が通用しなくなる出来事の積み重なりがあって、社会が変わっていくのだと思います。歴史はそうやって作られるのかもしれません。そういう時代を生きていることに改めて感謝したい気持です。


【関連解説記事はこちら↓】
柳澤氏の著作をもとにした本記事にまつわる解説記事も、あわせてご覧ください!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?