違う。けれど、同じ
二歳半の長男のお話。しばらく前から「おなじ」を見つけて喜んでいた。
花がふたつあれば「おなじ」。自分の写真をみれば、写真と自分をそれぞれ指さして「おなじ」。
それが近頃、「ぜんぜんちがう」という言葉を覚え、使ってみたくて仕方ないようだ。しかも、おもしろいことに、これまでずっと「おなじ」と言ってきたふたつのものに対して「ぜんぜんちがう」と言っているのである。
「おなじ」と「ぜんぜんちがう」。この2つは真逆のことを言う言葉、対立する言葉である。ところが子供は単一の場面、状況をこの2つの言葉で同時に言い表そうとしている。これは単なるいい間違え、言葉が十分に育っていない証拠だろうか?おそらく違う。
子供の手元に、青い蒸気機関車を擬人化したキャラクター、いわゆるトーマスのおもちゃがふたつある。
ひとつはプラスチック製で大きなもの、紐を引っ張ると走る。
もうひとつは金属製の小さなもの、動く仕掛けはない。
このふたつのものを眼の前に並べ、まず「おなじ!」と言ってみる。その約1秒後に「ぜんぜんちがう!」と言ってみる。これを繰り返しているのである。
確かに、このふたつはどちらもトーマスである。そういう意味では「同じ」である。
しかしよく見ると、サイズがちがう。
材質もちがう。
手にとったときの感触もちがう。
光の反射の具合もちがう。
あの眼の奥に透ける、心なしか哀愁漂う、なにかを達観した伝統的英国労働者風の眼差しが見据えるものも、少しちがうような気がする。
同じものなど、ふたつとない?
「おなじ」と「ぜんぜんちがう」。
まず、何かと何かを「ちがう」ものとして区別すること。
その上で、互いに区別されたふたつのものを「おなじ」ものとして扱うこと。
違いを見つけることと、同じをみつけること、このふたつの操作は、言語の理論では意味現象の基本と考えられている。
ふたつのものを、同じと言ってみたり、ちがうと言ってみたり。それを楽しそうに試している子供は、言葉そのものが生まれる瞬間を満喫しているのではないだろうか、という気がしてならない。
眠りの中から意識が覚醒していく。ぼんやりと、天井の模様が見えはじめ、ぶら下がる電灯の傘が見えはじめ、壁際に置かれた棚が見えはじめる。そうして「ああ、ここは昨日眠りについたのと同じ場所、いつもと同じ自分の部屋なのだ」と気づいたりする。
あるいは自分自身が赤ん坊の頃の写真が、幸運にも残っていたとしよう。「これはあなただ」と年長者から教えられたときの不思議さ。
写真に写る赤ん坊はどうみても「今の自分」とは「ちがう」。全くちがう。違い過ぎで清々しいほどである。しかしそれでも、その赤ん坊は自分と「同じ」である。
世界、世界そのものではなく、わたしたちひとりひとりが経験する世界とは、わたしたちひとりひとりの神経系がその周囲の環境を切り刻んで頭の中に取り込んだ情報である。
神経系は、明るいと暗い、暑いと寒い、高いと低い、なにかと何かの差分を検出する、小さな仕掛けの集まりである。
区別することは生命システムの基本原理
神経系は区別する。
区別した結果を神経を通して次へ次へと伝え、脳あるいはその他の神経の束へ、そしてその先の器官へと伝えるらしい。
巷で話題のマルクス・ガブリエル氏が『なぜ世界は存在しないのか』において「世界は存在しない」と書いているが、それはこのあたりの事情をふまえてのことであろう。
区別される前の世界そのもの、といったものは私達ひとりひとりにとっては存在するとは言えない。存在するかしないかを区別する操作の「前」のことを、区別する操作の「後」から、区別された情報をもとに再構成しても、これはあくまでもひとつの再構成されたものでしかなく、世界そのものとはちがう。
神経系の区別をする力。それは人間だけに限られた力ではない。すべて動物、植物、あらゆる生命システムは区別をする。というよりもこの区別をする操作を反復すること自体が生命システムをその環境から区別されるものとして区切り出し、作り出しているのだと、システムの理論では考える。区別することは生命システムの基本原理である。
区別して後で、また「おなじ」を見つける
人間が特殊なのは、この区別された後の情報のあいだに、「おなじ」を見つける力に長けていることだ。
人間は互いに区別される「ちがう」ものを、「おなじ」ものとして結びつける力に長けている。
例えば、山歩きの経験と知識が豊富な人であれば、山道に残された足跡をみて「これは熊だ。まずい!」と冷や汗をかくことができる。
眼の前にあるのはただの足跡。いや、土が窪んでいるだけのことである。山に熊が出るとは思ってもいない人なら、見落とすかもしれない。なにも恐ろしいことはない。
しかし、そのくぼみ方、その大きさ、深さ、崩れ具合が、周囲の土とちがう様子であること。神経を研ぎ澄ました歩く人は、それを区別できる。
そしてその記憶の中にある、平穏無事な場所の知識と、熊が直前に通過した場所の知識もまた、区別できる。
感覚器官が区別した土の具合と、記憶で区別されるふたつの知識。このふたつの区別が重なったとき、目の前の土のくぼみが「熊出没注意」という意味を成す。
このちがうものに同じを見出す能力は、記憶された断片的な情報を結びつけ、過去の光景をありありと思い浮かべ、一度も経験したことのないもののことをリアルに想像することを支える。
この力は私達の遠い祖先が生き延びる上で大いに役立った。足跡などの僅かな痕跡や過去の記憶から動物の出没を予測して狩りを行ったり、決まった処でいつもの植物を採集したり、あるいは目の前の小さな穀物の種たちをみて、今晩の雑炊を想像するだけでなく、一年後の秋の実りを想像し、すぐに食べてしまうのを我慢したり。
「おなじ」とみなす力が言語を生む
頭の中に蓄積された無数の区別の記憶。
それらの記憶と記憶の間、そしてリアルタイムで知覚している情報と記憶の間に、「おなじ」を見つけていくこと。言語もまたこの力に依っている。
り ん ご
というこの三文字あるいは三音は、例のあの赤くて手頃なサイズで甘酸っぱい果実を意味する。
この音も、それを測定した音波の波形も。文字、そのインクのシミも、スマホ画面のピクセルのオンオフの並び方も。例のあの果実とは全く「ちがう」ものである。
しかし、これをあれと「おなじとして」扱うことできる。それが私達である。
「ちがう」と「おなじ」が言語の意味作用の基礎をなす。この話について、詳しく知りたい方は池上嘉彦氏の『記号論への招待』という本を読んでみると良いと思う。岩波新書の名著である。どのくらい名著かといえば、私などは旅行先でふらりと立ち寄った古書店の軒先に100円で売られているのを見つけ、旅のお供に思わず読みたくなって買ってしまう。そんなことを繰り返しているうちにおなじ本が二、三冊、本棚に並んでいるという具合の名著である。ちなみに毎回、読み込んでは線を引く場所が異なるため、この二、三冊は私にとって「ぜんぜんちがう」ものである。
二歳半になる息子は、ちがうのにおなじ、おなじなのにちがう世界が、自分の頭のなかに立ち現れ、くるくる反転しながら両義的にもつれていくのを楽しんでいるようだ。
部族が課す「同じ」をくぐり抜けろ
これから成長するに連れて、彼はたくさんの大人たちから「おなじ」を見つけるやり方を「世の中の他の大勢の大人たちのやり方に合わせていく」ことを教え込まれていくことになる。
それは共同体を再生産し、人類をこの7万年ほど生きながらえさせることに少しは寄与した、人類の、いや、各々の小さな部族たちの営みである。
どの区別にも、好き勝手に「同じ」を見つけてしまう象徴を作りだす脳の力。この力を獲得したのとほぼ時を同じにして、部族の儀礼、今日の私達が宗教的な儀式だとみなすような行動もまた急速に発展した。
社会は、共同体は、部族は、無数の個々人による象徴の生み出し方を同期させようとする。部族のメンバーみんなが同じようなやり方で「象徴化」を行えるようにし、そうしない人を排除する。そのための教育訓練を子どもたちに施す。それによって部族は、はかない個々人の多数の死を乗り越えて、まるでひとつの生命のように自らを再生産し、生き延び、特に目的もなく進化していった。
その一方で、自分の頭の中で、自在に区切られてはおなじになるイメージや音や形の跳躍する様。ときに共同体の常識のコードを超えて、自在に新たに区別されたり、常識を超えたところで「同じ」をみつける象徴の誕生と変容。
それを眺めている時間こそ、がかけがえのない一人の人としてある瞬間だということ。そしてなにより、そういう部族のコードから外れた、部族の側からみれば「ノイズ、雑音」のような新しい象徴こそが、ひとつの生命としての社会に新しい区別のやり方と、新しい同じの見つけ方を教え、そして社会を進化させるきっかけにもなるのだ、ということ。
このことを、これから少しづつ、言葉を噛み砕いて、子どもたちに伝えておきたいと思う。
子供に聞き返されるかもしれない。こんな理屈がなんの役に立つか?
その時はこう答えよう。
この「おなじとちがう」の理屈は、彼がいつか、他者たちと自分が「おなじだがちがう」ことに気づき、困惑し、それを言葉で思考することに戸惑ったときに、それを軽やかに受け入れ、彼が自分の世界を頭のなかで立て直すための材料に、その一部に、なるだろう。
おしまい