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「因幡の白兎」にみる神話的思考:レヴィ=ストロース『月の裏側』より

レヴィ=ストロースにによる神話研究の話をすると、しばしばたずねられるのが「日本の神話」はどうなのかということである。ここで参考になるのが、レヴィ=ストロースが日本の神話について論じている一冊『月の裏側』である。

月の裏側、おもしろい表題である。

月は太陽と対立関係にあり、裏側は表側と対立関係にある。

月の裏側という言葉は、すぐさま太陽の表側、という言葉を思い起こさせる。

さて、日本の神話といえば日本書紀であり古事記である。

記紀が「神話」だとして、その「神話」をレヴィ=ストロースの神話論理が開く理論的平面に写像させると、何が浮かび上がってくるのだろうか。

『月の裏側』でレヴィ・ストロースは記紀神話、出雲の神話の一部である「因幡の白兎」の話を取り上げる。そう白いうさぎがワニを騙して海を渡る。しかし途中でその嘘がバレてひどい目にあわされる、というお話である。

ここでレヴィ・ストロースはおもしろいことを指摘する。

因幡の白兎と同じ構造の神話、すなわち「渡し守」を「騙して」、水面を渡るという話が北米や南米の神話にも、エジプトに伝わるイシスとセトの物語にも見られるというのである。日本の神話が古代エジプトの神話と「同じ」だなんて、なんともロマンチックであるが、ここですかさずレヴィ・ストロースは注意を促す。

「『古事記』とエジプトの物語は、神話ではない。名がわかっているか、いないかの違いはあっても、一人の作者が、神秘的な素材をそれぞれのやり方で作りかえた文学的創作だ。」 『月の裏側』p.116

まず『古事記』も、エジプトの神話も、すでにそれは「神話ではない」というのである。両者は「野生の」神話的思考そのものではなく、文明化され、文字まで使うようになった世界で書かれた文学的創作である。

神話の思考は、現代社会の日常の自明性(あたりまえさ)を支えている思考とは異なる「型」で思考する。それは自明な世界がそもそのそのようなものとして出来上がった経緯、由来を考えようとする。

その考える際に、自然科学的な研究成果の蓄積を利用するのではなく、経験的に知っている様々な対立関係と、その対立関係を一つにつなぐ(つまり対立する一方の項であると同時に他方の項でもある)両義的な存在のあいだの駆け引きの結果として、自明な世界の整然とした事物の区別の体系の成立を説明する。こういう神話の思考法をレヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」と呼ぶ。

文字に記された物語は、そうしたブリコラージュ的な神話的思考そのものというよりも、そうした神話的な思考の名残、痕跡である。

レヴィ・ストロースはさらに続ける。

そして二つの作品は著しく異なる、正反対といってもよい性格をもっている。一つは、超自然に彩られた叙事詩的物語であり、王朝の自己正当化に奉仕するためのものだ。もう一方の作品は、大衆をたのしませるために神々をあざ笑う、ユーモアに満ちたお話『月の裏側』p.116

どちらも文学的創作であるが、その書かれた目的が正反対であるという。前者が王権の起源を語るものであるのに対して、後者はユーモアであるという。

エジプトと日本は関係ないのか…と思わせた矢先、レヴィ・ストロースはすかさず救いの手を差し伸べる。「とはいえ」から始まるこちらの一節である。

とはいえ、あちことで、テーマやモチーフが、不思議に呼応しあっているのは確かだ。二つの作品はおそらく、古代神話の同じ層に属しているのであろう。かと言って、二つの物語が表現しているもののあいだに系譜関係を打ち立てることはまったくできない。…原初的特徴が同じだからといって、二つの種が近縁関係にあると結論づけることはできない。」『月の裏側』p.116

テーマやモチーフの不思議な「呼応」。

それは「系譜関係がある/ない」という問題ではなくて(つまりエジプトから何かの民族が観念の同一性を保存したまま日本列島まで移動したかどうかという問題ではなく)、「原初的特徴が同じ」ということである。

では、原初的特徴とはなにか?

それがすなわち、神話的思考の型である。

原初的特徴は、神話にあっては、形式における本質を思考の中で展開することにあるといえるのではないだろうか。」『月の裏側』p.116

わかりにくいかもしれないが「形式における本質」というのがそれ、神話的思考の型である。エジプトのイシスとセトの物語と、日本の因幡の白兎の物語は、「形式における本質」が同じなのである。それは次のような理念的な形式である。

「我々が取り上げている例では、神話的思考は、太陽の東から西へという縦断方向の展開が、水の流れ、あるいは海の入江を一方の岸から他方へと横切る、渡し守によって成し遂げられる横断的思考を促していると言うだけで十分であろう。」『月の裏側』p.116−117

『神話論理』には、南米の神話に登場するカヌーにのって河を進む太陽と月の兄弟の話がでてくるが、それも同じである。

ここで「形式」とはすなわち、天体の東西移動・横移動と、水面を渡らせる者の横移動とを、似たもの、異なるが同じものとして重ねてみるということである。

水面と天空、ふたつの横移動。

なぜ、このふたつの横移動を重ねてみることになるかというと、それはいずれか一方の横移動の起源を、他方の横移動によって説明しようという衝動に我々人類が駆られるからである。

―どうして太陽は東から西へ移動するのだろう?

―どうして月の移動の軌跡と太陽の移動の軌跡は異なるのだろう?

―月が太陽のルートを邪魔したらどうなるんだろう?

太古の人たちもまた、こういうことを疑問に思い、そしてその理由を考えようとした。エジプトの古代人も、南米の先住民も、日本の古代人も地球上の様々な場所で、同じような経験をし、同じような疑問をいだき、そして同じような神話的思考の型で、身近な対立関係の媒介者の物語として、これらの区別と付かず離れずの関係の起源を説明しようとしたのである。

自然科学的な観測技術や記録技術、概念や理論を持たずにこういうことを考えようとした場合に、身近なものを例にして、それに例えてみることで、この疑問に答えを与えようと試みたのである。これがいわゆるブリコラージュの思考である。

このある関係の起源を、身近な経験的な関係にたとえて説明するということを、レヴィ・ストロースはここで「思考上の転換」「思考上の倒置」と呼ぶ。

「こうした第一の思考上の転換によって促される他の思考上の倒置が、構成を豊かにすることになる。天界の縦断方向の移動が妨げられるという観念が、地上の縦方向の移行を生み出すか、回復させる。…天界における第一の横断方向の移動は中断されるが、のちに地上で、第二の移行の継続は、逆に確かなものになる。」『月の裏側』p.117

おもしろいのは、天界の横移動と地上(水面)の横移動が、天と地の対立によって結び付けられているということである。

神話的思考は、天と地は互いに異なりながらもひとつにつながって居ると考える。そして、一方での横移動の阻害は、他方の横移動を促進させると考える。ここに阻害と促進、邪魔することと促すことという動きの対立関係、意図の対立関係まで重なってくるのである。

「…とすれば、水上の横断は乱暴に妨げられたり、無償で提供されたりするのではなく、中間の解決、つまり取引や、悪だくみや、欺きによるものでなければならない。このようにして、純粋に論理的必然によって、他のすべての点でこれほどに遠い二つの作品において、侮辱された太陽のモチーフの傍らに、渡し守のモチーフが描かれうることが説明されるのである。」『月の裏側』p.117

一方の横移動を阻害することで、他方の横移動を促進する。

例えば、月が太陽の通り道を塞ぐような動きをしている時、月が邪魔をして本当に太陽が止まってしまったらどうしよう、と古代の人は心配になるわけである。

この時、天空の横移動に対応する地上の横移動の方を先回りして阻害しているという術を施すことで、つまり互いに連動する二つの横移動の一方を邪魔してみることで、逆に他方の方を動きやすくする、天空の横移動を促進できると考えるのである。

であるからして、因幡の白兎は、「渡し守」であるワニを騙して渡海を成功させなければならないのである。間違っても海に落ちてワニに食べられてしまいました、ではお話にならないのである。因幡の白兎は、騙すというあやうい手段を用い、邪魔はされるものの、しかしそれでも最終的に横移動を成功させるのである。

横移動が邪魔される、危うくなるのが地上の方だということが大切である。

横移動の危うさを地上にもってくることで、逆に天界の横移動からは危うさが取り除かれる

こうして太陽は月に邪魔されることなく、うまく天空を横移動し続けることができるようになる。

めでたしめでたしである。

これは神話的思考の真骨頂であろう。

 天 対 地
 危うい移動 対 円滑な移動
 ↓
 天 対 地
 円滑な移動 対 危うい移動

このように、二つの対立関係を重ね合わせる向きを変えることで、天体の運行を確実なものにしようという策略である。

エジプトでも日本でも、南米でも北米でも、古代の人の中には、太陽が止まったらいろいろとマズイんじゃないか? と本気で心配した人たちが居たのであろう。科学的な知識がない時代にはあり得る心配である。ここで、太陽の運行が確実なものであるということを納得するために、地上の横移動の危うさを対置してみるのである。

日常の自明性を超えて思考するために

日常の思考のひとつの特長は、同一性を保ち続けるものたちが、結びついたり重なりあったりしながら別の高次のものの部品となって、その高次の構造を安定的に維持していると考えることにある。そういうものたちが集まって、私たちが素朴に経験できる世界というものが出来上がっているという具合にイメージされる。

素朴に実在すると信じられるモノたち一列に順番に並んで、次から次へと影響を与えていく。そういう具合に自明な世界の成り立ちが考えられる。

そういうものとして考えられた自明な世界の表面には、矛盾するもの、両義的なものたちの居場所は残されていないかのようである。

これに対して神話的思考は、まさにこの矛盾するもの、両義的なものたちを整然と区別されているべき世界に引き込むことで、この自明な世界の起源を語ろうとする

神話的思考は事物の自己同一性を、あるものの存在を他のものとの関係の中で、仮設的に作られるもの、仮置きのスペースとして確保された場所のように考える

神話的思考は、整然とできあがっていて変更不可能に決定されているかのようにみえる物事からなる自明な世界が、そのようなものとして出来上がるに至った起源を考えようとする。

そして神話的思考には両義的な項、すなわち二項対立関係にある二つの存在のどちらでもあってどちらでもないものが、自明な区別を区切る役割を担う者として登場する。

そうした両義的な媒介者の活躍の結果、自明な世界の自明な物事たちの関係と序列、そしてそれらの間の区別が樹立される、と考える。

世界の自明性は、素朴実在論的な存在の同一性を前提としたところでうまく維持され、再生産されているように見える。しかしその整然としているべき区別が、どうにも不安定で不安なものに思える時、思わぬ所で多義的な存在、両義的な存在、容易に単一の何かと同一視できない存在がぬっと姿を現す

両義的な媒介者の活躍を経由して、自明な世界の自明な物事たちの整然とした区別の体系は崩壊の危機から救われ、再建される。

生と死の区別の起源、王権の起源。神話を語ることは、起源の場で行われた原初の区別を再現、反復することでもある。

こうした神話的思考は自明な区別の起源を語り、その再生産を支える儀礼である。

と同時に、神話的思考の「型」を用いることで、自明な区別の体系を超えて、新たな区別の可能性を、互いに他と区別される限りでの存在の可能性を構想し、それらが生息する余地を考える道も開かれる。

自明なものの起源を、つど新たに考えることと、未知なる世界のはじまりを構想すること。どちらも両義的な媒介者が飛び跳ねる領域である。

ちなみに、記紀神話には、因幡の白兎以外にも、様々な二項対立の起源が両義的な媒介者の活躍とともに記されている。いずれ詳しく読んでみたいところである。

おわり

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