分節システムの中に分節以前を浮かび上がらせる -安藤礼二著『熊楠 -生命と霊性』を読む
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さて、下記の記事の続きである。
(前回を読んでいなくても、今回だけでお楽しみいただけます)
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私たちの日常の目醒めた明晰な意識は、身体感覚に基づく基く分節に、言語的な象徴たちのペアのペアを最小単位とする意味分節システムが重畳することで出来上がっている。
象徴たちのペアのペアというのが何のことであるかについては下記の記事に書いていますので参考にしてください。
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原初の分化の動きが動き始めた後に、それと同じようなパターンで分化の動きが高強度・高頻度に反復されるようになることがある。
そこにいつも同じような規則性があるように見えるパターンでAと非Aを分別する弁別器のようなものが、安定的に動作する一つの機械のようなものが、姿をあらわす。
それが分節システムである。
分子もタンパク質も細胞も神経も、器官も身体も言語も社会も、見ようによっては分節システムに喩えてみることができそうである。
分節システムは、安定的にいつも同じようにAと非Aを分別する動きを反復し、その分別作用の産物として二項対立関係を発生させるように見える。
動いているのに動いていないように見える
ところが、ここで一つの飛躍が起きる。
分化する動きの反復の跡に残された二項対立関係は、それが「分化」する動きを通じて発生してきたのだというダイナミックな来歴をしばしば私たちの脳裏から忘れさせるように働く。
つまり分化する動きが動いていることが忘れられ、その産物であるはずの対立する二項が、それ以前には何もない-動いていない一番最初の出発点だと思われてしまう。
私たちは明晰な意識に映るこの世界を様々な二項対立関係として経験するが、その時、何かと何かの二項対立関係は、最初からすでに固まって止まって「ある」ように感じられる。
そしてさらには、二項対立関係をなす二つの「項」のそれぞれが、それ自体として「ある」というようにさえ思えてくる。
その「ある」は、あるAを非Aではない何かとして区切り出す「分ける動き」の反復を通じて浮かび上がる影の輪郭の同一性のようなものなのだけれども、しかしそれ自体の本質に依って持続するある固い構造物のように感覚され考えられている。
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こういう分化する動きを通じて発生してきたという来歴を忘れ固着した外観を呈している「項」を、それ以上掘り下げることのできない世界の基礎の底のようなものと考えてしまうことを、言語学者の丸山圭三郎氏ならば「第三の狂気」と呼ぶところだろう。
言語的な象徴の組織である意味分節シシテムとしての無意識・意識は、いつも同じようなパターンで二項対立関係を区切り出すよう、すでに動き始めている。
私たちは森羅万象あらゆるものが分化した後で、その安定的にカテゴライズされた物事たちの秩序の中で、意識を覚醒させる。意識自体がフォーカスするところとしないところを分け続けるよう動いている弁別器である。
覚醒した意識は自らの発生以前に動いていた森羅万象の分化の動きのことをすっかり忘れていられるのである。というか、分化の動きの蠢きを忘れるか気づかないフリをしければ、覚醒することもできず、意識することもできない。
気づかないふりをするのをやめてみる
ところが、私たちが慣れ親しんでいる「言語」という分節システムのオモシロイところは、そういう分化する動きのことをすっかり忘れている意識という分節システムに対して「そのズバリと区別する分割線で、区別以前の"一"を区切り出してみてください」と要求してしまうことにある。
そのようなこと、どうすればできるのか?
案外かんたんである。
言語の意味分節システムの分節する動きがショートしたりエラーを起こすことで、意識という分節システムが発生させている即自的本質に依って保たれているというヴェールを纏った存在たちの向こう側に、未分化・無分節でありながら分化に向かおうとする動きが露わになる。
私たちは言語の分節システムと意識の分節システムの分節する動きがズレたまま動き続け、そこで二項対立関係が壊れかけながら、好き勝手に繋がったり離れたりする姿を見ることで、何らかの二項対立が世界の原点などではなく、さらにその手前の分化の動きの蠢きを通じて発生し、分化の動きを反復することで仮に構築された一貫性という虚像なのだということに気付かざるを得なくなる。
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分節システムの安定的挙動を乱すことで、私たちの意識にとっての世界の全てを支え組み上げている最小の構成単位である無数の二項関係たちが、常に発生しつつある動きなのだということに気づく。
この分節システムの壊れた姿を積極的に活用して、その壊れた分節体系の向こうに分節以前の気配を感じ取ることができるようにしようという試みが人類史を通じて試み続けられたのである。
レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で論じた神話の思考というのも、そういう試みの一つである。
そして、例えば禅の「公案」もその一つである。
安藤礼二氏は『熊楠 生命と霊性』において、鈴木大拙の「霊性」を論じつつ次のように書かれている。
「大拙がその系譜に連なる臨済の禅は、言語を超える「体験」を可能にするために、言語のもつ論理自体が矛盾の極で破綻する瞬間を「公案」という形で生きさせる。」(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.183)
言語の論理が「矛盾」を呈し、「破綻」する。その破綻したところに、分節システムを構成する二項関係たちが変更不可能な出来合いの所与などではなく、おぼつかなく、常に発生しつつ消える、生成消滅を繰り返していることなのだということに気付かされることになる。
そして生成消滅する項のいくつかに執着し、苦しむのではなく、自我もその周囲の物事も森羅万象が、分化する動きが反復しつつズレていくことで生成消滅するものであることを悟るのである。
分けると結の動きが動き始めるところでは、未だ一切の区別はない。
この有無の区別以前は「無」であり「如来蔵」であり、「曼荼羅」であり、折口信夫の「産霊」であり、ユングの集合的無意識であり、井筒俊彦氏のいう集団的な言語阿頼耶識であり、中沢新一氏のいうロゴス的知性とレンマ的知性のハイブリッドである。
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それにしても「無」とか「アラヤ織」とか、色々な言い方があるというのは困ると思う方も居られるかもしれない。
しかし、ここは色々言い換え続けるということでいいのである。
そこにどれか一つを選び出す=分別するべき理由はない。
自と他の区別もまだない。
この区別がないところを、区別して分類することを本分とする言語の意味分節システムの中のどれかの項-象徴に置き換えて「わかる」ようにしようというのは相当無理のある話である。
「無」にして如来蔵の集合的言語阿頼耶識は、言葉という分けて繋ぐ動きがパターンを描いて作動したものとしての意味分節システムの手前の動態であって、意味分節システムの中のどこかの一項目に「それはこれです」と押し込めることができないことである。
そうであるからして、どう呼んだとしてもそれは一つの足跡、仮止め、ピンボケしたスナップショットのようなことであって、その都度「無」的なことについて言葉を交わし合っている醒めた人たちの間で話が通じれば良いというものである。
生成/消滅
この分化しようとする未分あるいは無分節である分節という「無」のようなことを考える場合、それは一面では「生成」の側面を表す。すなわち無限の分化の発生・形態発生・創造の出発点という姿をとる。
しかし同時に、全く同じことが他方ではあらゆる区別を無化し境界線を溶かしてしまう「消滅」の側面を表す。
ちょうどジブリの『もののけ姫』に描かれたシシガミことダイダラボッチのような具合である。
(画像はこちらよりお借りしています)
安藤礼二は『熊楠 生命と霊性』において、無のようなことは「森羅万象あらゆるものを産出する」と同時に「森羅万象あらゆるものを破壊する」と書かれている(『熊楠 生命と霊性』p.188)。
この無はいわゆる「ある」と対立する「ない」と同じものとしての「"無"」ではなく、有無の区別も「無」という無である。
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ここで安藤礼二氏は井筒俊彦氏の言語と意識をめるぐ思想に森羅万象の破壊ではなく産出の方を捉えようとする言葉の姿を読む。
安藤氏は井筒氏の『存在の概念と実在性』から次の一節を引用して、次のように書かれている。
[…]絶対者の「宝庫」はなおも、絶対的に一であり不動です。だが、それは何らか己のうちに、いったん作動したならば、絶対者を現象的展開へと推し進める動機を含みます。
井筒が企図した「東洋哲学」の持つ構造と可能性は、この一節に尽きるであろう。破壊にして消滅のゼロから構築にしてして産出のゼロへ。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.190)
ゼロ。一と多の区別以前のゼロ。
破壊のみならず構築でもあり、消滅のみならず産出でもあるゼロ。
破壊の側面のみを見て慄くことなく
生きている人間にとって「無」があらゆる区別を無化し「生」と「死」、「ある」と「ない」の区別さえも消滅させてしまうことは、目を背けたくなる戦慄すべき事態である。
とはいえ、あらゆる分化の発生と消滅を司る「無」のうち、消滅を引き起こす方だけを腑分けして取り除きましょうなどということは無理な相談である。なぜなら生成と消滅は不可分一体、一つのことの「双面」だからである。
この生成と一体である消滅から逃れようとすると、同時に生成の方からも逃れようとすることになり、そこには動きの止まった固着した意味分節システムの一項目に妄執する日常が広がるわけで、それはそれで苦しいことにもなる。
表裏一体、あらゆる二項対立関係が未分でありつつ分かれつつあり分かれていることを生きた身を持って引き受ける営み。
例えば南方熊楠にとっては、自身の目で、身体を顕微鏡で拡張あるいは集約しつつ粘菌を観察することが、まさにそういう営みであったと言う。
続く
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