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意味とは「置き換え」である。 -レヴィ=ストロース『神話と意味』を読む


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クロード・レヴィ=ストロースといえば、20世紀屈指の文化人類学者である。

レヴィ=ストロースが"人類の文化"について記述する方法は「構造主義」と呼ばれ、文化人類学の専門領域を飛び出して、ひろく人間について、社会について思考するための枠組みとして広まった。

レヴィ=ストロースの「構造」とは、雑で申し訳ないが大きくいうと、人類(ホモサピエンス)の思考動き方のようなことである。

私たち一人一人は、自分の生きる日常を意識している。

「意識(する)とはなにか」というと、話が長くなるのだけれど、シンプルに次のように思ってもらえばなんとかなる。

私たちは、自分が居て、自分のまわりの世界にはあれやこれやの「自分以外」の何かがあったり、居たりするということを知っている。その中から、いつも使ったり眺めたり喋ったりしている慣れ親しんだものたちと、初めて見る謎のものとを区別することもできる。

こういう自分と他人を区別したり物事を互いに区別したり、りんごとみかんを区別したり、「エー」という音と「ビー」という音を区別したりと、何と何でもかまわない、さまざまな区別をするということが、意識するということの中心にある

そうして区別することは、互いに区別され対立関係に置かれた物事のペアをいくつも作り出すことになる。

その、区別され対立関係に置かれたペア同士をさらに重ね合わせることで、私たちは「Aとは何か?」「AはBである」という具合にして物事の「意味」を思考することができるようになる

いきなり「意味」などという言葉を出してしまうと、分かりにくくなるだろうか?

意味という言葉はそれこそいろいろな「意味」で使われている。

人生の意味、生きる意味、あるいは死の意味、勉強する意味、睡眠をとる意味。などなど、うっかりしていると私たちはあっという間に「意味」たちに取り囲まれてしまう。

意味という言葉は、意味がよくわからない事柄に伴って登場する。

小学校かどこかで「知らない言葉を見つけたら辞書を引きましょう」と教わった記憶がある人もいるかもしれないが、これも同じく、まだよくわからないけれども、調べれば覆いが取れて正体が分かりそうな何かのことを「意味」と呼んでいる。

意味とはなにか?

意味について、レヴィ=ストロースはその著書『神話と意味』に次のように書いている。

意味論にはたいへん奇妙なことがあります。それは、「意味」という語がおそらくことば全体の中でもっとも意味を見つけにくい語だということです、「意味する」とはどういう意味なのでしょうか(『神話と意味』p.15)。

そう述べた後で、レヴィ=ストロースはすぐに次のように続ける。

「意味する」とは、ある種類の所与別の言語に置き換えられる可能性を意味する、というのが、私たちにできる唯一の答えであると思われます。別の言語に、というのは、英語をフランス語とかドイツ語に訳すというのではなくて、異なったレヴェルにある異なった語に置き換える、という意味です。(『神話と意味』pp.15-16)

レヴィ=ストロースはとてもシンプルに、意味ということを定義する。

即ち、意味とは、「置き換えること」である

何かを記号に置き換えること。

記号同士を置き換えること。 

項Aと項Bについて「項Aは項Bである」と、AをBに置き換えること。

ある何かを、別の何かに置き換える。「前者は後者である」ということでよくわからなかった前者は、別の後者に置き換えられる。この時にもし後者が何であるか(他ではなく何であるか)が分かっている=既知であるならば、わたしたちはよくわからなかった前者の意味も「わかった!」ということになる。

これが「意味する」ということである。

ここで気をつけたいのは、意味は置き換えるという「こと」であり「もの」ではないということである。「こと」としての置き換えは、「意味する」という行為、動作、操作、動きである

意味するとは、置き換えることによって「異なるもの」を「同じとして扱う」という操作である。

そして、その操作は「比喩を生む」操作と同じである。

置き換えに先立つ「区別すること」

ここで置き換えられるふたつの項、AとBは、それ自体として、単独で予め存在する何か(実体)ではない。

AとBは項はそれぞれ、Aと非Aの対立関係、Bと非Bの対立関係の中にある。

私たちがAをBに置き換えて、Aの意味はBであるといういう時、実はAとBを結びつけているだけでなく、そこに連なった非Aと非Bもまた引っ張り出してきているのである。

項Aと項Bを置き換える「意味する」ことは、A対「非A」、B対「非B」の二つの対立関係を重ねることである。

このペアとペアの重ね合わせによって、AがBと置き換え可能なものと扱われると同時に、非Aが非Bと置き換え可能なものとして扱われる。

理念的には、二つのペアを重ねる場合、どちらの向きで重ねても良いのだけれども、しかし日常生活の意識の中では、対立関係を重ねる向きはいつも同じ方向になるように細心の注意が払われる。ペアを重ねる向きをいわゆる「常識」なるものと逆にすることは、なにか不可思議な事態として感じられる場合もある。

たとえば男親が「お母さん」と呼ばれていたりすると、文学的な想像力が触発されるひともいるわけである。

このあたりの話は下記のnoteにも詳しく書いたので、ぜひご参考にどうぞ。

神経系も区別して置き換える

区別と対立関係の重ね合わせという意味生成のモデルについては人間の身体、神経系におけるその基盤を論じうる可能性もある。

人間の意識と神経系の関連については多くが未解明であるが、例えば脳内での信号伝達を測定する技術に基づく「統合情報理論」といった仮説が提唱されている(MarchelloMassimin & Giulio Tononi,2013)。

人間の脳内では神経伝達物質の蓄積に応じて発火したりしなかったりする二状態を判別する仕組みが働く。

多数のそれらが均質ではない接続ネットワークを構成することにより、強いフィードバックと弱いフィードバックが形成される。そのフィードバック同士が接続し、その接続同士がまたさらに接続する、その繰り返しで様々な層のネットワークが非均質につながり、ネットワーク内での信号の広がりのパターンがいくつもさざめく定常状態に至る。

統合情報理論では人間の「意識」はこの定常状態のパターンであるとする。「違うが同じ」を見つけ出す流動的知性、コノテーションとしての意味を動かす神経系の基盤はこのような姿を現す可能性がある。

コノテーションを扱える意識が微視的には二状態を区別する論理的な仕組みを基礎としていること、しかしその複雑な、まだその姿が捉えられていない非均質な「繋がり方」のパターンが両義的な意味を扱える象徴を生み出す力を動かしていること。

このモデルは象徴を生むメディアを構築する際の手がかりとなる可能性がある。

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