レンマ×ロゴスのハイブリッドは「脳」から始まる −中沢新一著『レンマ学』を精読する(6)
中沢新一氏の『レンマ学』を読む連続noteも6回目である。
前回の記事はこちらであり、締めくくりに次のように書いた。
私たち人間が、区別と差別で煩悩に苛まれるのは「生滅心」の働きのせいなのだけれども、人間の心は実は生滅心だけでなく、生滅心と心真如との「和合」によって成り立っている。ここに人間が煩悩に苛まれつつそこから脱する道がある。
人間はロゴス的知性によって、ものごとを整然と分けることができる(できてしまう)だけでなく、同時にレンマ的知性によって、ロゴスが区別するものたちを区別したまま互いに結びつけることもできる。(アーラヤ識とは? −中沢新一著『レンマ学』を精読する(5))
この生滅心と心真如の「和合」が起こる場、ロゴス的知性とレンマ的知性のハイブリッド化が行われる「場」が、何を隠そう人間の脳であると中沢氏は論じる。
脳 ーレンマとロゴスのハイブリッド
人間の脳は、神経細胞(ニューロン)が集まったものである。ただ集まっているのではなく、個々の神経細胞が他の神経細胞と結びついたり、結びつかなかったりすることで、複雑なネットワークを成している。
個々の神経細胞(ニューロン)は、入力と出力の仕組みをもった細胞である。他の神経細胞からの出力を自分の中に入力する・取り込むための仕組みが「樹状突起」であり、出力するための仕組みが「軸索」である。
入力部である樹状突起に刺激が加えられ(この刺激となるもののひとつが、他の多数の神経細胞の軸索の終端から発せられる「シナプス」と呼ばれる化学物質である)、その入力刺激があるレベルを超えると、神経細胞は出力部である軸索の先端からシナプスを放出する。放出されたシナプスは、他の神経細胞の樹状突起に捉えられ、その入力になる。こうして複数の、多数の神経細胞が入力と出力で接続されてネットワークを構成する。ニューラル・ネットワークである。
現在、過去、未来を「区別」するのも、脳
神経細胞が入力と出力を区別すること、入力の「後」に出力をすること。入力と出力が順番になっていること。
これこそが、人間の意識が世界を「時間」の流れのなかで感じるようになる(時間の流れとして感じざるを得ない)理由である。
言い換えると、人間が時間の流れだと思っていること、時間の流れだと感じていることは、人間の脳が「つくりだした」世界の見え方なのである。
「分別=生滅心は、時間性に基礎づけられている。諸法(存在)はもともと縁起による全体運動を行うが、そこに過去・現在・未来に向かう時間の秩序を当てはめて整序するのである。法界に線形性の秩序が入る。もろもろの分別の発生する基礎がつくられる。これは古代ギリシア人がロゴスとよんだ知性作用そのものである。大乗仏教に説かれる分別、煩悩、無明はいずれもロゴス的知性の働きと深く結びついている。」(『レンマ学』p.94)
時間は、つまり過去と現在と未来の区別であり、この区別はそのように区別し、順番に並べること(線形に並べること)から生まれる。
なぜ区別が存在するのか?
その答えは「区別をするから」である。
そしてこの区別して、順番に並べるということは、数を数えることの根底で働くプロセスでもあり、人間の言語の根底で働くプロセスでもある。
言語も「区別」から始まる
言葉は分けて、数えて、並べる。
例えば、次に10個の互いに区別できる音を順番に並べてみよう。
「わたしはパンをたべる」
左から順番に音を思い出してもらえれば、何が書いてあるのか「分かる」方が多いと思う。
ところが、この10個の音を別々に録音して、同時に重ねて再生しても「わたしはパンをたべる」とは聞こえないのである。区別すること、そして並べること、並べる順番が、他の人にも「分かる」言葉、他の人がその意味を「分ける」ことができる言葉を可能にするのである。
ちなみに日本語だと「数える」はあまり効いてこないが、単数か複数か、加算か不可算かが、意味の分節に効いてくる言葉もいろいろある。
人間の言語もまた、脳を中心とした神経のネットワークに寄って存在している。私たちが聞いたり、饒舌ったり、読んだり、書いたりするためには、脳の神経のネットワーク、神経細胞(ニューロン)のネットワーク(ニューラル・ネットワーク)が不可欠である。区別して、数えて、並べる。このワンセットのプロセスは、神経細胞のネットワークの動的構造が動くことによって作動する。
華厳の哲学における分別=「生滅心」の概念は、この私たちの脳(ニューラル・ネットワーク)で作用している、区別し、順番に並べるプロセスを捉えたものなのである。
生滅心は「分別」をする、意識を区切りだす。
「分別=生滅心は、縁起の全体運動を行う法界を一瞬にして、主観とその対象に分裂した世界を生み出す。その分裂した世界において、我執やさまざまな執着煩悩が発生する。しかしそのときでも、心のなかでは法界縁起であるレンマ的知性が活動し続けている」(中沢新一『レンマ学』p.94)
私たちが、自分の世界を、主観(例:見ていると意識し感じている私)と、その対象(例:見えているモノ)という二つのことの結びつき、接触、出会い、交差のようなこととして経験するのは、世界が最初からそのように二つに分かれているから、ではない。
ことの順序は逆で、世界には、もともとなにかと何かを区切る「線」や「面」、さらに高次元の境界は、引かれていない。区別以前には「ひとつ」であり、しかしその「ひとつ」は、静謐で止まった氷ついたものではなく、そこに「分裂」の兆しを含む。このダイナミックな「ひとつ」のことを、中沢氏は華厳哲学の用語で「縁起の全体運動を行う法界」と呼ぶのである。
その縁起の全体運動を行う法界を、主観と対象のようなものに分けるのが、「分別=生滅心」の働きである。
主観 ←<区別・分裂>→ 対象
気をつけたいのは、分別=生滅心は「意識」に属する機能ではない、ということだ。意識が分別するのではない。意識が生滅を作り出すのではない。
分別=生滅心は、意識より手間で、意識のさらに前段で、動いている。意識もまた、分別=生滅心の働きの結果として生じるものなのである。
私たちは通常、意識という籠のなかに生きており、ちょうど水のなかの魚のように、その水の存在、籠の存在を「最初からあるもの」だと思って生きている。意識は気がついたときから意識とその対象に分裂した世界のなかにおり、意識自身が「生まれてくるところ(意識とその対象とに区別されるところ)」を「意識する」ことはない。
私たちが「意識する」ことができるのは、すでに意識とその対象が区別された後の世界であり、わたしとあなたが区別された後の世界であり、至るところに区別の線が引かれ、対立関係が緊張を張り詰めている世界である。
そして「その分裂した世界において、我執やさまざまな執着煩悩が発生する」のである。
主観とその対象とに分裂し諸々の対象たちが区別された世界は、整然とした秩序、コスモス、ピラミッドのような堅固な構築物、安定した、安心感のある重厚なものである。それは自分たちの部族の集落を環壕(環濠)と城壁と内と外をはっきりと区別できるゲート(門)で囲われた安心と安全の空間を作り出す。それは整然とした秩序ある人工空間のようなもの、つまり日常性を生きる私たちにとって素朴に「良いこと」と思われるかもしれない。が、しかし、この「区別され」「分裂した」世界こそが「我執やさまざまな執着煩悩が発生する」場所でもある(p.94)。
「外」と区別される「内」は極楽のようなものであるかというと、必ずしもそうではなく、「我執」「執着」「煩悩」がうごめいている。執着というのは、素朴に実在すると思われるものごとのうちのいずれかにこだわることである。何かが減ったり、失われたり、傷ついたりすることを恐れ、減少や喪失の原因になりそうな外部要因を恐れ、憎悪し、排斥しようとする。
自分たちとその外を区別する環濠や城壁や門が壊れてしまい「外」がなだれ込んでくることに恐怖を覚える。「敵」が攻めてくる、「病」が入り込む、なにより誰もが決して逃れ得ない「死」が訪れる。あるいは逆に「外」のものを自分のものにしたい、「内」に取り込みたいと熱望しながらそれが叶えられないがために苦しんだりする。
外と区切られた「内」は、絶えず「外」に怯え続けながら、同時にまた「外」を切望せざるをえないという、なんとも苦しい状況にある。
分別=生滅心が生み出す区別は「主客の分離、愛と不愛の発生、愛的対象への執着と不愛的対象への忌諱など」を引き起こし、それによって私たちは苦悶する(p.95)。流転し変容して止まないことがあらゆる事物の存在の本来であるのに、その流転に逆らって、他から区別されたあるものの束の間の姿を永続させようと苦心し、そしてその苦心が決して報われないことに絶望する。
執着は、そういうことはものごとの区別と対立を絶対的にそう決まったものだと信じて疑わないことから始まる。この執着を捨てるのは簡単なことではない。なぜなら、私たち人類の言葉による意識、理路整然と言葉でものごとを考える頭は、この区別する仕組みそのものであって、簡単に動きを止めたり取りはずしたりものではない。
「分別=生滅心は、時間性に基礎づけられている。諸法(存在)はもともと縁起による全体運動を行うが、そこに過去・現在・未来に向かう時間の秩序を当てはめて整序するのである。」(『レンマ学』p.94)
あらゆる事物は「縁起のネットワーク」でつながっているのだけれども、それをあえて、Aと非A、AとB、非AとB、主体と客体、主語と対象物などに「区別」して、数を数えて、並べることから、私たちの言葉が始まる。
区別することは、数えること、並べることでもある。Aと非Aが区別されるということは、Aと非Aが相容れないもの相反するものとして対立関係に置かれるということである。論理が生まれるところ、論理が萌芽するところで生じている出来事を、言葉というすでに出来上がった論理の体系に射影することによって、我々の意識によって思考できるものに変換しようとしている。
論理というのは、昨今では「論理的思考力」が大切だなどとも言われ、日常でもしばしば眼にし耳にする言葉である。
論理とは、ごく煎じ詰めて言うと、何かと、その何かとは別の何かを区別し(仮にAとBの区別としよう)、そのAとBの間の作用関係、影響関係を記述するということである。
例えば、「わたし」と「りんご」が区別されており、その間に「わたしーはーりんごーを食べる」という関係を考える。
ここから少しひねって、「わたし」は「りんご」を「食べる」が、「彼」は「みかん」を「食べる」。そして「わたし」は「みかん」を「食べない」が、「彼」は「りんご」も「たべる」、などと関係の組み方のバリエーションを増やしていくと、いわゆるANDとかORとかNOTとか、ブール代数のような論理になっていく。
それにしても、そういう論理の根にあるのは、「わたし」が「りんご」と区別されるということ、行為の主体とその対象を区別すること、AとBを区別すること、その「区別する」という動き・ダイナミズムである。
それは人間の言語の基本的なかたちであり、この言語の構造でもって思考する知性が「ロゴス」と呼ばれたのである。私たち人間において分別する生滅心が作用するのは、その脳、特に言語のような互いに他から区別されたシンボルたちを順番に並べていく処理においてである。この処理を中沢氏は「ロゴス的知性」と呼ぶのである。
これは前回のnoteで解読した「アーラヤ識」のお話とも関わるところである。
「レンマ的知性が脳の中枢神経系に流れ込むやいなや、そこにアーラヤ識の形成が起こり、レンマ的知性(性格にはアーラヤ識化されたレンマ的知性)とロゴス的知性へのたえまない分岐が発生するようになる。」(p.96)
ロゴスはレンマに支えられる
『レンマ学』は、まさにそういう区別〜ロゴスが生まれる一番の「底」で生じていることを、われわれの意識でも理解できるような言葉に変換・翻訳しようという試みである。
『レンマ学』は、このロゴス=分別=生滅心「以前」に動いているロゴスとは別の知性のあり方を捉えようとする。それが「レンマ」の知性である。
「…我執やさまざまな執着煩悩が発生する。しかしそのときでも、心のなかでは法界縁起であるレンマ的知性が活動し続けている」(中沢新一『レンマ学』p.94)
固着した区別と対立に苛まれる執着煩悩においても、なおその直下で、区別分別「以前」の法界縁起は活動し続けている。
そしてこの法界縁起の活動それ自体を、ひとつの「知性」(レンマ的知性)であると考えるのが『レンマ学』のおもしろいところである。
レンマの知性は、人間とは無縁な、人間が決して手にすることのできない領域の話ではない。むしろ、レンマの知性こそが、ロゴスの知性=生滅心=分別の作用をもたらす「言語」を支え、可能にしている。
人間は、ロゴスの中から意識し考え始めてしまうために、ロゴスの前を(ロゴスの言葉で)意識し考えることが苦手である。
けれども人間において、人間の脳において、そもそもロゴス的な分別を可能にしているのは「レンマ」の働きなのである。
『レンマ学』は人類にとって可能な「知性」とは何かを問う試みであるが、ここで示されるひとつの答えは、人類の知性というものがレンマとロゴスのハイブリッドシステムだということである。レンマとロゴスのハイブリッドシステムは「異なるが、同じ」という関係を可能にする。「異なるが、同じ」は、分離しながら結合し、二つに分けながら一つにする。
レンマがロゴスに変換される。その変換の瞬間を意識する
人が生きながら、意識を保ちながら、言葉で考え続けながら、その上でできることといえば、ロゴスを「レンマ」の知性につなぐことである。
つまり、区別を出来合いの完成済のものとするのではなくて、多様な方向へと展開する可能性をもった区別”しつつある“動きとして保ち続けることである。
これが華厳の「哲学」の最重要課題、ロゴスとレンマの関係を考えることである。
たとえば「わたし」が「りんご」を「食べる」とロゴスの論理は言うが、では、「わたしに食べられたりんご」は、引き続き「りんご」なのだろうか?
「わたし」の一部に「なった」という点で、すでにそれは「りんご」ではなく「わたし」なのだろうか。しかしそうなると「わたし」がその一部でも「りんご」から「なる」とすれば、「わたし」の正体は実は部分的に「りんご」なのではないか?
そもそも「りんご」だって、無から忽然と出現したものではなく、木に実ったものである。りんごは「土」であり「水」であり、「肥料」であり、わずかに「農薬」でもあったりする。そして「土」だって、かつては他の樹木の葉っぱだったり、虫たちの亡骸であったりするわけだし、「水」といっても「雨」であり、「雲」であり、さらに「海水」であり、海水になる前は、どこかの山から湧き出したものであり、しかしその湧き水だって、もともとはその山にふった雨であり、その雨は雲で…という具合である。
世界は、私たちの言語によって、りんごや肥料はわたしなどなど、あれやこれやのモノに区別され、そのモノたちの間の作用関係として記述できる。
ここで言語は、同時に「わたし」と「りんご」がハイブリッドになるところ、「わたしがりんごで、りんごがわたし」という関係を記述することもできる。言葉は、「異なりながら、同じ」「同じだけれども、異なる」と言うこともできるのである。
レンマとロゴスの意味論
そしてこの「異なるが、同じ」の「異なる」の方を区切りだすのがロゴス的知性であり、「同じ」をつなげるのがレンマ的知性なのである。言葉がそうであるような「意味する」ということは、何らかのシンボルすなわち脳に記憶されたイメージや印象を、それとは区別される他の別のイメージや印象と「同じと置く」作用から始まる。あるシンボルをそれと区別される別のシンボルに置き換える。Aを非Aに置き換えることが「意味する」ということである。
言語もまたレンマとロゴスがハイブリッドになって、同時に動いているところで、その意味作用を動かしているのである。
※
主観とその対象に区切られた世界、内と外に区切られた世界、至るところに区別と差別の線が張り巡らされた世界を、永遠不変の「所与(最初から決まっていて、変更不可能なもの)」だとは考えない。
区別は、あくまでも分別=生滅心の働きが生み出したものであり、イリュージョンのようなものである。区別以前に、分別=生滅心の作用以前に、もともと「ひとつ」にうごめいている実体があると考える。
この分別。
この分別を行っているのは、他でもない「人間の脳」なのである。
ポイントは「人間の」脳だというところである。
人間以外の動物、例えばタコなどにも脳のような神経の集まりはある。けれども人間の脳の構造を織りなしているニューラル・ネットワークと、人間以外の動物の脳を織りなすニューラル・ネットワークの構造は、同じではない。違いがある。
そしてこの違いこそが、人間が「言語を用いる」一方、他の動物が人間のような言語は用いない、という違いを生んでいる。人間の言語は(言語の意味作用を支えているシンボル化能力は)人間の脳に特有な神経系の集まり方・つながり方の産物なのである。
人間の言語を生み出す人間の脳。その神経のつながり方が、ロゴス的知性とレンマ的知性のハイブリッド・システムとして観察できるような形になっているというわけである。
関連note
※
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。