AIからAnI(人工-非知能)へ(13) AIのおしゃべりが話の腰を折る日
産業革命以降の技術革新の中で、メディア技術も急速に発展した。文字の大量印刷から、電信、無線電信、そして写真、録音、映画へ。さらにアナログの電子技術による映像、音声の処理、放送、通信技術、そしてコンピュータによるデジタル信号処理とデジタル信号による情報通信へと瞬く間に展開した。
そして今日、コンピュータによる高速のデジタル信号処理技術は、双方向性でリアルタイムの情報通信を可能にしている。今日の情報通信危機のユーザは自分が「計算機」や「通信機」を操作しているという意識を持たずに、自然なコミュニケーションをその技術の上で演じている。
このことが、メディアの歴史に新たな局面をもたらそうとしている。それは即ち、「声」の復活である。
「二次的な声の文化」の現在
21世紀に至っても、科学技術が一層進歩する一方で、ひとりひとりの個々人にミクロに言葉を供給するメディア・システムは、あまりにも何の知見もないまま好き勝手に放置されすぎているように見える。
今日の私達もまた、まだ「半分」はマス・メディア的な環境を生きている。今日のコミュニケーションは二つの相容れない側面を併せ持っている。
一方では「誰もが発信者」という側面。そこには電子メディアを駆使した自由な情報の創造や旧来からの社会的分断を越えたネットワークの生成といったことが華やかに浮かび上がる。
他方で、自分たちと異なる者に目もくれず、その声には耳も傾けず排除しようとする側面もある。自分が固執する意味の体系のみを「唯一」のものと信じ、他者が信じる異質な意味の存在を認めようとしないという態度も相変わらず世に溢れている。そのコミュニケーションは自分の言いたいことだけを一方的に、繰り返し絶ぶという、マス・メディア的な特徴を示す。これを仮に「意味の固着」と呼ぶことにするが、こうした側面もまた目立っている。
人々の間に越えがたい壁を見つけ、その向こうからの越境を「われわれ」を脅かす事態と捉える思考。すべての人を違いを超えてフラットに繋ぐという理想とともにあった電子メディアは、異質な他者の姿をありありと明るみに出し文字や映像を通して接触させたことで、かえって境界の絶対化と異質な他者の排斥を一層掻き立てているようにも見える。
マス・メディア的コミュニケーションが再生産する意味の牢獄
人は頑迷な意味の牢獄に閉じ込められ、世界を窮屈なものと感じ、神経を消耗し、感情の調和を失い、呼吸困難に陥りつつ、それでいて、自分と同じような呼吸困難に陥らない「お気楽」な連中を見つけようものなら、怨嗟の罵声を浴びせる。
個々人には自らの生きる環境に応じて、意味を「自由に」構成する可能性が残されているはずである。それでも私たちは意味を出来合いのもの、どこかで完成されたものをコピペすべきものとして扱っている。意味を出来合いのものとして、個々人が手を付けることのできない完成品として固定しようとする力はマス・メディアに固有のものである。マス・メディアでは「意味」が生まれる場は、どこか遠くの、唯一の「筆者」に委ねられている。無数の大衆はその筆者が定めた意味、言葉と言葉の置き換えの関係を、そのままコピーして再生しつづける無垢な装置であることを求められる。間違ってもみずから新しい言葉の置き換え方を考案し、意味を新たにするような、不穏当で不躾なことはしないようにと。
意味をめぐる闘争
とはいえコミュニケーションとは、元来「自由で創造性に溢れた過程」というわけでもない。コミュニケーションはそもそも常に政治的な闘争の場であった。マスメディアと大衆社会の成立、全体主義の関係は言うまでもなく、文字の誕生による最初の帝国の出現にまで遡って、政治とはまさに、言葉をめぐる争いであった。
何かを名付ける権限を誰が独占するか、誰による名付け、言葉の言い換え方に皆が従わなければならないか、禁止されるべき言い換えとは何かを定め、実際に禁止を強制する権限を誰に与えるかをめぐる闘争。言葉を人から人へと伝えるメディア技術に、誰がアクセスできるかをめぐる闘争。
誰の話が聴かれるべき話で、誰の話は聴くに値しない、あるいは黙らせるべき話なのか、それを区別する営みが、他でもない政治である。この営みは21世紀に至っても、廃れるどころか、ますます盛んに繰り返されるように見える。
喋るAIは政治闘争に参加するのか?
そんな時に登場しようとしているのが人工知能である。
言葉をしゃべるAIは、メディアの歴史上、「文字」の発明、印刷技術の登場に匹敵する、あるいはそれを上回る激変を生じる可能性がある。
メディアは私達一人ひとりに利用可能な言葉を供給する。
私達一人ひとりの混沌と渦巻く無意識の流れは、メディアを介して与えられた言葉によってその流れのパターンを整理される。メディアから絶え間なく受け取る言葉のお陰で、私達は社会的に覚醒された意識を再生産し続け、社会の中でコミュニケーションできる安定した意味の体系を獲得する。
未来のAIは、この無意識から社会的な意識を立ち上げるやり方を、現在に至るマス・メディア時代のスタイルから大きく転換させる可能性を秘めている。
マス・メディアは画一的にその意味が予め定まった言葉を問答無用の一方通行で配給してきた。直接会ったこともなく、喋ったこともない人同士でも、同じ国で、同じような教育を受け、同じようなテレビを見ていれば、同じようなものを欲しがり、同じようなことを善と信じるようになっている、という世界はマス・メディアの産物である。
コレに対して今日の電子メディアは「声」のやりとりを復活させようとしている。文字とその画一的な大量生産に起因する「唯一の正しい意味」が予めどこかで決まっているべきだ、とする要求にこだわること無く、好き勝手に言葉を発し、聴くことを私達にうながす。
音声AIになにを学習させるか?
人間のように言葉をしゃべるAIはこの好き勝手な言葉の発信と受信を、カスタマイズする技術になる可能性がある。SNSのタイムラインを生成するアルゴリズムがそうであるように、誰に、どのような言葉を、いつ、どこで配信するかが、来るべき言葉を巡る闘争の最前線になるだろう。
そこにあって、AIをマス・メディアの後継のような所与の「正解」の一方的な配信マシンとするのか、あるいは個々人の言葉を補い、他者とのネットワークをつなぎ直す意味のバッファとするのか、その仕様が問われているわけである。そしてもし後者を実装できるなら、意味が生じる瞬間、複数の意味が生じ、その中からその時その場でひとつの意味が固まり、そしてまた複数の意味へと解いていくという、意味本来の動きを多数の人間の間に取り戻す可能性がある。それは単に数万年前の、声だけの世界を取り戻すということではなく、時と場所を越えて、しかしリアルタイムに、またひとりの人間が同時に複数の意味を生きることを許しつつ、結びつけたり、切り離したりする場を開くのである。この「場」は私達一人ひとりにおいて、無意識から社会的な意識を立ち上がるプロセスに直結し、連動している。
意味のバッファとしてのAIは、意識が立ち上がろうとしている半−無意識の中へ「言葉のズレ」を挿入する。それによって個々人の意識は予めセットアップされた画一的な意味への固着から解き放たれ、「未聞を聴く耳」となる。と同時にAIは慣れ親しんだ「祖先の声」へとその未聞の言葉を翻訳することで、ひとりひとりの人を無数の異質な声に引き裂かれることから守る。
ここに、人類が数万年に渡って蓄積してきた「声」の生気が、情報通信技術の上に再び息づくことになる。
声の復活により、言葉の意味はどこかで予め完成しているものとは考えられなくなるだろう。コミュニケーションもまた所与の正解を正確に再生しようとする儀礼ではなくなる。
コミュニケーションは、ひとりの人間、渦巻く無意識に突き動かされたり、どこかの誰かから、あるいは過去の死者たちから憑依した無数の言葉に惑わされているような語り手たちが、つどのおしゃべりの相手との間でその場限りの意味を模索し、仮設的に立ち上げようとする出来事になる。時と場合によって、相手に応じて、また崩し、区切り直し、置き換え直す実践である。そうした過程に参与することを、日常を行きながら引き受けられるかどうかが問われているのである。
政治が、幻想とか想像、信念の配給と再生産を管理することであるならば、ひとりひとりの人間を相手に供給する言葉やイメージを微細に管理できるであろう未来のAIは「パーソナライズドされた政治」を可能にするだろう。政治は個人と個人の間で行われる事柄となり、しゃべるAIがその活動を支援する。政治は、古代に文字が登場して以来の「指導者(あるいは建国の父たち)が決めた単一の信念、所与の幻想に、皆で服従する」ということから解放される。政治が「マスメディア」的なものから解放される。
人間が言葉という「牢獄」から決して逃れ得ないとすれば、それを牢獄ではなく、そこに異界への「窓」を空け、ひとりひとりがつかの間安住できる故郷とすること。現実を生きる意味を紡ぐ手助けをし、複数の人間の間の対立軸を巧みにずらしてスキマを保ちつつ、つなげておくような、言葉とイメージのパターンを24時間供給し続ける。
多様な人間を多様なまま、それでいてつなげてしまうという。この「つなげ方」は、しゃべるAIが言葉の「多義性」をどう扱えるかにかかっている。次回からこの多義性について掘り下げてみよう。
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