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分別をつけ-きった-と思うことが無いように -意味分節を実践するには(1)

noteで懇意にさせていただいている愚唱@井ノ上裕之さんの記事で、下記の「言葉の本質とは」という話を取り上げていただきました

言葉の本質は分けつつつなぐこと。しかし、それがどういうことかを深く理解し、実際に思考の方法として使いこなすのは特殊技能の域である、と書いてくださっています。

そこで今回は、この「分けつつつなぐ」を自在にする特殊な技能について、少しだけご紹介します。

特殊な言語と、特殊でない言語

言葉には特殊ではない使い方と、特殊な使い方を分けることができます。

まず特殊ではない方、私たちが普段から行っている言葉の使い方というのは、言葉とその意味の対応が”予め固定的に決定済み”であるかのような素振りで言葉を交わし合うことであります。

りんごを持ってきて下さいと頼めば、あの赤くて丸い香り高い果物が持ってきてもらえる世界であり、お店で「みかんを持ってきて下さい」と頼んだのに"ゴーヤ"を持ってくるスタッフが居たら「間違ってますよ。お客をからかわないでください」などと言うことが「まっとう」なこととして許されている世界です。

これは馬と鹿の違いがわからないという人が「●●」と罵倒されても仕方ないとみんなに思われている、この私たちの常識的日常世界です。

それは窮屈であると同時に安心で、退屈であると同時に信頼できる”予測可能性を高める習慣の世界"と言えます。

これに対して言葉の特殊な方はどうなっているかといえば、それは即ち、言葉とその意味の対応が自由自在に変化・変容する余地を開き続けておこうと配慮しながら言葉を交わし合うことです。

なんと言ったら良いかよくわからないけれども、強いて言えばAという感じかなあ。いや、違うなあ、非Aのような気もするけれども、今は仮にAだということにして先に進めましょうか?ダメですか? それなら仮にBで行きましょう。違うような気がするけれど。

といった言葉の使い方です。

「仮」に徹する

これのどこが特殊かというと、徹底して「仮」であること、善意の「あて推量」であることが、決定済みの正解のようなものを求めることから一貫して逃れようとする点、ここが特殊である。

言葉はあくまでも「仮」のもの、「仮名(けみょう)」であるということを引き受けるのが特殊な言葉の使い方であります。

* *

「仮」はしばしば「完成」と対置されます。

そしてこの仮と完成の二項対立は、価値が低いことと価値が高いことの二項対立と重ね合わされて、完成してこそ価値が高く、仮は価値が低いものだと解釈されます。

しかし、特殊な言葉が仮である、というときの「仮」は、価値が低いどころかむしろ最高位の値打ちものとして数えられるべき事柄です。

人間を含む生物・生命が、その複雑怪奇な周囲の環境と相互作用しながら、外界についてのモデルを身体内部に仮設的に作り上げ、このモデルを参照しつつ、次に起こることを推定し「えいや」で身体を動かしていく。幸運にも推定が大当たりすれば御の字であるし、もし当てが外れることもあれば大急ぎで仮設モデルを組み立て直すのです。そうすることで生命体は「学習」し、変転する環境の中で生き延びる可能性を高めるのです。

* * *

特に言葉は、このような環境世界のモデルを仮設し、試し、うまくいかなければ組み替える”仮設性を極めて高い自由度で操ること”を人類に可能にした脅威的な「道具」と言えるでしょう。

人間は言葉でもって、自身の周囲の物事や環境の「意味」を自在に増殖させ、変容させ、多重化します。物質的には単一であるはずの周囲の事物や環境との関わり方を意味的に多重化し、複数の意味を自在に切り替えながら環境との相互作用の仕方を調整(チューニング)することができるようになるのです。

ここで押さえておきたいのは、意味を自在に増殖させ環境と相互作用する力を高めるのは「仮設性」であって、「予め固定的に決定済み」の所与の固定性ではない、という点です。

このあたりの話は、C.S.パースの「アブダクション」に通じるものです。

分けつつつなぐ

言語の力は、ものごとを「仮」に扱えることに由来する、という話をもう少し詳しく考えてみましょう。

言語というのは「分けつつつなぐ」ダイナミックな出来事です。

分けること、と、つなぐこと。

分けたのに、繋がってる。

繋がっている、けれども、別々に分かれている。

常識的な非-特殊な言語からすれば「一つなのか二つなのかはっきりしてくれ」と言いたくなる世界です。

ここにあるのは一つでありながら二つであり二つでありながら一つ、という関係です。この話については下記の記事に詳しく書いていますので参考にどうぞ。

この付かず離れず曖昧中間状態を発生させ続けているのが言語というダイナミックな現象の正体なのです。

この二つの事柄を自在に分けつつつなぐことができるが故に、Aは仮にBであると解釈することもできるし、仮にCであると解釈することもできるし、他でもありうるし…という仮設性の世界が開くのです。

この仮設性の極限には、「男は女である」とか「ケガレこそ清浄である」とか「生は死である」とか「白ほど黒いものはない」といった言葉遣いが可能になります。

ここでは男と女、白と黒、生と死のような、素朴な常識の世界では互いに対立して相容れないはずだと思われている二つの言葉が、一挙に一つに結びつけられるのです。

ここで求められるのは、素朴実在論的なものの見方ではなく(この世界は人間の存在とは無関係にそれ自体として予めあれこれの物事に分かれている、と考えるのではなく)、意味分節論に基づくものの見方(すなわち、物事の区別は人間の存在において、人間の存在(人間の周囲の環境・身体~神経系・道具=人工物・言語)との相関において発生するものだと考えること)であります。

それは例えば、次のような認識を開くものです。

「さまざまなレベルで、世界は、無限の対位法からなる巨大な交響楽を奏でている。相異なったもの、相対立するものが「即」によって結ばれていく。森羅万象すべてが仏の音場に満ちあふれる。空海とは異なっているが、その核心は、空海が説いた声字「即」実相というヴィジョン(『声字実相義』)ときわめて近い。」(安藤礼二 著『列島祝祭論』p.268)

これは安藤礼二氏が『列島祝祭論』に書かれている天台本覚論に関する一節です。

「相対立するものが「即」によって結ばれていく」、ダイナミックな認識を可能にする「声」にして「字」のあり方、つまり言葉のあり方が、素朴な日常を脱出したところで可能になるのです。

さらに続きを読んでみましょう。

「止観の極限において、諸法即実相であり、煩悩即菩提である。ありのままのものこそが、そのまま仏であり、仏の悟り、すなわち「本覚」である自然が立てるさまざまな物音こそが仏の「声」そのものである。ここから天台本覚思想が始まる。」(安藤礼二 著『列島祝祭論』 p.268)

煩悩が、即ち、菩提である。私たち一人一人の人間の身体とその内部も含めて、「自然」がざわめく「物音」は、これすなわちすべて「一」なる存在の「声」(言葉)である、というのです。

* *

しかし、通常、日常、常識の言語は自らの根幹で蠢いているこの驚くべき中間子の発生過程を見事に覆い隠しているのです。

そのヴェールをかける方法が、他でもない、ある一つの言葉が置き換えられる相手を限定し固定することです

その姿はまるで、冷徹で決して感情に動じることのない軍隊の暗号通信のようです。暗号化された信号は、いつでも、どこでも、誰によっても、必ず発信者が用いた「正解」のコードに従って復号されるのです。

そこでは白かもしれないし黒かもしれない、といった曖昧さは許されません。白か、もしくは黒。暗号化された信号同士は互いにはっきりと区別され、復号される先の記号も互いにはっきりと区別されます。どちらも区別もいつも同じパターンで反復され、境界線がのたうち回ることはないのです。この二つの互いに固定的に区別された項の連なりを、これまた単一で不動のコード表によって結びつけるわけです。固定的に区別された項たちの連なり二つが、並べられ、対応づけられます

ちなみに、このコード表をいかに動的かつ一回限りのものにするかが暗号技術の肝と言えます。

分け方を固定し、繋ぎ方を固定する。「分けつつつなぐ」運動に、このような厳しい規律を課すことで、私たちが普段それに頼っている特殊ではない言葉が出来上がるのです。

弱い強さ、強い弱さ

モノゴトがわかることは、この日常世界を生き抜こうとする人を"強く"します。高速に大量に、物事に分別をつける(分ける、即ち「わかる」)ことができる人は、与えられた選択肢のうちどれを選ぶかで迷うことはありません。これはあれ、これはそれ、と、はじめて遭遇する未知のあれこれを、速やかに既知の知識へと切り分け、振り分け、変換します。一体何だかよく分からないものの"不気味さ"に感情を支配されることも、呼吸を止められることもなく、まるでAI(人工知能)のように、これは猫、これは猫ではない、と分類、分類、分類できるわけです。

これができることは間違いなく「強さ」です。

自由な消費によって人界を再生産していこうとする現代において、迷うことなく瞬時に成功につながる道とそうでない道を区別して、交差点の真ん中で立ち往生することなく、一直線にゴールを目指す。これは、この社会においては「強い」ことこの上無い話です。

しかしこの強さの下には、分けつつつなぐ自在な「やわらかい」動きが活発に動き回り、線をひいたり消したりして頑張っているのです。

いや、ことによると、その柔軟で不定形でグニャグニャとした線をひいたり消したりする動きこそ、圧倒的な「強さ」を誇るものとも言えるのです

区別することもできるし区別しないこともできる

井ノ上さんのこちらの記事では「輪郭線」が重要なキータームになっています。

井ノ上さんはこちらの記事で「明確」さと「明白」さを対比されています。

そして、モノゴトがその「輪郭線」をはっきりと示していると思われる世界を「明確」な世界であるとし、逆に物事の「輪郭線」がはっきり引かれていない世界を「明白」な世界であると書かれています。

近代以降、私たち人間は言葉を"明確"なものだと思い込むようになってしまった
言葉は本来"明白"なものです。空小屋では、"明確"と思い込まされてしまっている刷り込みを解体して、言葉を"明白"なものへと再認識してもらう

明確と、明白

近代の言葉と、本来の言葉

輪郭線がある世界と、輪郭線がはっきりと引かれていない世界

ここで気をつけておきたいのは、井ノ上さんの書かれている「明白」な世界は「輪郭線」がはっきりとは引かれていないけれども、しかし物事の区別が全くできなくなり、のっぺり均質になっている訳では無いという点です。

明確と明白の区別は、「輪郭線がある」と「輪郭線がない」の区別とは重ならないのです。明確と明白の区別が重なるのは、「輪郭線がはっきりある」と「輪郭線がはっきりとはない」の区別です。

有か無か、ではなく、はっきりしているかはっきりしていないか。「はっきりしていない」というのを、曖昧さとか中間状態などと言い換えても良いでしょう。

むしろ、輪郭線がはっきりしないにもかかわらず、私たちはそこにものごとを分別することができてしまう。この点が重要です。

予めはっきり区別されていないのに、区別できる。

一つに結びついていると見ることもできれば、同時に二つに分かれていると見ることもできる。区別があるとも言えるし無いとも言える。区別することもできるし区別しないこともできる。これこそが何を隠そう記号的な「仮設性」でもって複雑な周辺環境と渡り合ってきた生命の力の源なのでしょう。

何もない無・空っぽの無と、輪郭線がない、とは似て非なるものどころか、全く真逆の世界です。空っぽとごちゃ混ぜ、くらいの違いがあります。

例えば、たまたま今読んでいる『たぐい Vol.4』に収められた人類学者の石倉敏明氏の論文「朽ちてゆく時間 -生物と土を結ぶ虫送りの想像力」には、次のような一節があります。

「弘前版の民話も、チヌーク(クラッカマス)版の伝説も、人間の血を吸う虫を一種の「人食鬼」の変形として理解している。しかし弘前版は一歩進んで、その虫を人間と鬼の血を引く自らの縁者と認めている。これらの伝承には津軽の遅い春の風物詩でもある「虫送り」と同様に、一匹の虫にも人間同様の魂を認めようとするが潜んでいる。」(『たぐい Vol.4』pp.44-45)

この「愛」は重要なキーワードです。

「愛」”明確”なコトバだけで理解しよう、分かろう、分け切ろうとしてしまうと、愛とはAである、愛とはBである、愛とは結局Cである、という具合に、「愛」をそれよりもさらに"明確"な他の言葉AやBやCなどに言い換える=置き換えることで、「わかった」ことにしようということになります。

愛は結局、お金

愛は結局、幻想

愛は結局、遺伝子

愛は結局、脳神経の発火

などなど、何とでも言えるところですが、あらゆることをあらゆることに言い換え得ることができてしまうこと(つまり、分けたものをつなぐ、つなぐ方の力)こそが言葉の素晴らしい造形力であり、かつ破壊力にもなります。

あまりにこだわり無く繋ぎすぎてしまうと、愛の話をしていたのにお金の話になり、結局「愛」については何も話をしていない、ということにもなります。

* *

これに対して”明白”な(明確ではなく)<愛>を言葉にしようと思うと、先程の石倉氏の書かれている話のように、人間の血を吸う虫たち自分の縁者のように感じる、といった言葉の仮置き、中間領域を仮設する言葉の力が必要になってくることでしょう。

ノミにシラミに蚊

今日であれば、真っ先に化学薬品による"虫ケア"の対象となるようなモノたちですが、彼ら彼女らをこそ私たち人間の縁者として、例えどれほど私たちから遠く、どれほど私たちから異なっているとしても、それでも自分に連なる縁あるものとしてその存在を認めること

そしてもちろん、その存在を縁あるものと感じつつも、丁重に配慮された儀礼によって象徴された「分離」を、即ち、私たちから離れ別れてくれるように追払うのです。

ここで人間と虫は明確に分かれた別々のものでありながら、一つに連なる縁者であり、しかしあくまでも分けられる、という境界線があるけれどもない(無いけれどもある)中間領域が開かれるのです。

虫をこの「縁者」という言葉に「仮に」置き換えることよって、明確な境界線が、一瞬、ぼやけて「明白」になる、とも言えそうです。

虫は、人の縁者である。

虫は私たちの縁者である。

このような言い換えを許す言葉こそが、言葉の明確さを一瞬"明白さ"に切り替える、その境界線輪郭線の確かさを、一瞬煙に巻くのです。もちろん、この場合の「煙に巻く」はとてもいい意味での煙に巻く、です。

* * *

もちろん、ここに書いていることも含めて、コトバで説明したり、理解したりするというのは、境界線を消していく"明白"の世界に、境界線を刻み込み"明確"な輪郭線を重ねてしまうことであります。

"明確な=境界線ではっきりと分別が付けられている"シミュレーション・モデルを造形することを旨とする言葉を、あえて"明白"の方へ、境界線がぼやけていく方へと送り返すには、少々経験とテクニック、「特殊技能」が必要になるのです。

この特殊技能を伸ばすための訓練は、やろうと思えば誰もができることではありますが、孤独にその道を歩むのは危険なことでもあります。

なぜなら言葉は私たち一人一人にとっては、あくまでも「私ではない、他者でもある」からです。

もっとはっきり書くならば、いま私が見聞したり発したりする言葉は、すべてかつて生きて死んだ他者たちの声の残響そのものなのです。死者たちの声が、私の口に憑依して喋っているのです。こういうことを書くと、怖いと思われるかもしれません。その死者たちは表面的にはやはりおどろおどろしいモノです。

そして何より、他者である言葉は、私たちの「クチノキキカタ」にいつもいつも口出しをしようと構えているという顔をしています。

しかし、それと同時に、死者たちはすべて「私」にとっては「縁者」ということにもなります。これを感得するのは容易なことでは無いのですが、しかしこれを可能にするのが”特殊”な言葉の使い方、分けつつつなぐ動きを自在に走らせては、私が虫たちになり、私が死者たちになることを可能にする言葉なのです。

このあたりの話は下記の記事にも書いていますので、よろしければ参考になさってください。

ちなみに、井ノ上さんにはこちらのサークルにご参加いただいており、いつも様々対話を繰り広げている間柄です。ご興味ある方はぜひお気軽にどうぞ。

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