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予備校三国志 第6話 「富める予備校、病める大学」

 河合塾の西田忠和が起こした偏差値革命は、模試で集めた学生の得点データこそが指導力の源泉となる予備校の情報産業化をもたらした。
 同時期、偏差値導入に負けない衝撃を予備校に与えたのが、ベビーブーム世代の襲来である。1947年から1949年に生まれた彼らは、1966年の春に初めて大学生、浪人生となった。世相に目を転ずると、この年の6月にビートルズが初来日している。ベビーブーム一期生がその興奮を心置きなく享受できたかどうかは、数ヶ月前の大学入試の結果に左右されていた。

 髙宮はもともと、ベビーブーム世代の大学受験期をみすえて予備校業界に参入したわけだが、状況はその頃に予想されていた通りとなっていた。
 高校の卒業者数は、1964年の87万人から一年ごとに116万人、156万人、160万人と2倍近くに増加。大学・短大などの高等教育機関への進学者数は1964年の28万人から33万人、40万人、43万人とこちらも急増している。

 それだけ大学の数や定員も増えていたのだが、大学志願者数の伸びには追いついていない。ベビーブーム世代がまだ高校生だった1966年の大学入試に臨んだ浪人生の数は18万人。そこから年を追うごとに24万人、31万人、34万人と増えている。この数字には途中で大学受験を諦めた人は含まれていないため、実際にはより多くの浪人生が各年の春に発生していたと推定される。受験生は一浪をヒトナミと読み、人並みに勉強して人並みの大学を目指しても一年くらい浪人するのは人並みのことと考えるようになった。

 当然のように、各予備校は〝拡大政策〟をとる。代ゼミは1966年に代々木の街を飛び出して原宿校を建設。3億円をかけた7階建ての新校舎は、午前、午後、夜間と3つにコースを分ければ約12,000人もの生徒を収容可能だった。代々木の校舎群には合計15,000人の生徒を集めており、髙宮は一気に生徒数を倍近くに増やす算段を立てていたわけだ。この頃から、代ゼミは日本最大の予備校と呼ばれるようになる。
 代ゼミの勢いは、当時の新聞記事にも描かれている。

Y校は、9年前ズブの素人が始めたが積極的な商法があたっていまでは日本一大きく収入は授業料だけで年400億円近いと言われる。拡張また拡張で、校舎、寄宿舎などのビルはすでに8つある。9つ目は一つ先の国電駅前、これも一等地にしゃれた7階建てが完成し近く開業する。

『朝日新聞』1966年7月18日

 一つ先の国電駅前にできるという新校舎こそ原宿校のことである。ちなみに代ゼミは同年、将来の大学受験を早々に目指す小学部も開講している。
 駿台は1966年、建設から30年近くが経っていた最初の校舎を地上5階、地下2階の鉄筋コンクリートビルに生まれ変わらせた。各教室に冷暖房を完備し、エレベーターも設置。竣工式では創業者・山﨑寿春の等身大の銅像を披露した。

 そしてこの年、駿台に強力な仲間が加わる。
 伊藤和夫。
 往年の受験生なら名前を聞くだけで背筋を伸ばす英語の名講師は、39歳で横浜の山手英学院から駿台に移籍した。〝理づめの英語〟と言われる構文を重視した伊藤の教授法は生徒に感銘を与える。伊藤は、戦前から駿台で教えるこれまた伝説的英語講師・鈴木長十と組み、1968年に『基本英文700選』を出版。これは春之の悲願であった自社出版部門「駿台文庫」が出した最初の参考書であるとともに、以後数十年にわたって受験生のバイブルでありつづけた。伊藤本人も〝客〟を呼べる講師であったが、伊藤が出す参考書は軒並みベストセラーとなり、駿台に巨額の利益をもたらしていく。

 河合塾も負けてはいない。1966年3月に名駅校を5階建てに増築し、ほぼ同時に5階建ての新校舎千種校が完成。続いて5月に3階建ての名駅校2号館を完成させるが、早くも7月に4階建てに増築している。河合塾の勢いは止まらず、翌年6月に名駅校3号館を建設し、その次の年には男子寮を開設した。
 河合塾の建設ラッシュを主導したのは、理事長の邦人だった。河合塾の内部で密かに「建設大臣」と呼ばれていた邦人の性格について、斌人はこう語っている。

河合塾の理事長になるや、何事についても、よっしゃ、よっしゃで、気前よくどんどん校舎の建設などをしましたからね。邦人には、正直、僕は本当にドキドキさせられました。お金というものに関して、ものすごくリスキーだったんです。

片山修『塾経営こそわが人生――河合斌人』

 自らを「ティミッド(臆病)」と評する斌人は、邦人の大胆な経営戦略に何度もヒヤヒヤさせられた。興銀から辞令が下りロンドンの駐在員となっていた斌人は、毎週のように名古屋へ国際電話をつないで財務状況を確認していた。日本に帰国して経営陣の会議に参加する際には、邦人と議論を白熱させることもあった。河合塾の経営は、すべてが塾主たる斌人の思い通りというわけではなかったが、時代の潮流は邦人に味方していた。河合塾は1965年からの2年で、生徒の数を約2,000人から約5,000人まで増加させている。

 西田が大型コンピューターの導入を提案したときも、邦人は即断でゴーサインを出したという。アイデアマンの西田と豪快な邦人の歯車が噛み合い、河合塾はいよいよ東海地区を制圧しようとしていた。

 政府もベビーブーム世代の到来に向けて動いていた。
 文部省内の高等教育研究会が「大学入学志願者急増対策について」を作成したのが1964年4月。その中で国立大学1万人、公私立あわせて6万人、短大3万人、合計10万人の増員計画を打診する。国立大学協会がおおむね賛成の姿勢を見せたのに対し、私立大学の関係団体は国の助成や税制改革がなければ協力できないと消極的な態度を示した。

 すでに私立は大学進学率の上昇にあわせて定員を増やしていた。直近の5年間で学生数を約24,000人から約39,000人と1.6倍以上も増やした日本大学を筆頭に、早稲田、慶応、明治、中央、法政といった大学が数千人規模で学生を増やしていた。1980年代後半のバブル期以降、大学のレジャーランド化が嘆かれるようになるが、その原型はマスプロ教育が広まったこの時期に作られたとも言える。大学側は学生数の増加にあわせて施設の拡充や教員の確保を行う必要がある。さらに定員を増やすのであれば、大学が国からの補助を求めるのは当然だった。

 文部省は私立大学の意向をふまえて、改めて8月に「大学志願者急増期間中における大学の拡充整備について」を立案する。ここでは今後2年間で67,500人の定員増員という当初の計画を縮小させた提案を行った。増員の振り分けは大学と短大をあわせて国立11,000人、公立4,000人、私立52,000人とし、私学に対しては融資その他の財政的援助を強化すると伝えた。

 新たな計画を受けて、私立の大学・短大は翌年度の定員を全国で21,000人増やした。しかし政府からの助成措置は、私学振興会からの貸付金が110億円に増額されるにとどまった。私立大学は足りない資金を学費で穴埋めしようとした。この年、私立大学の約7割が学費を値上げしたといわれる。

 これに猛反発したのが学生たちである。
 実は以前から私立大学の学費は急騰していた。1960年に年額平均約32,000円だった授業料は、1965年には約68,000円と2倍以上になっていた。一方で教育環境の整備は学生増加に追いついていない。講義の立ち見は当たり前で、図書館の座席は足りずろくに本も読めない。下がるばかりの教育の質と上がるばかりの学費を前に、ついに学生の堪忍袋の緒が切れる。

 最初の噴火口は慶応義塾大学だった。
 1965年1月、大学が授業料の値上げ決定を発表する。大学は入学金や授業料を上げるだけでなく、新入生に対して施設拡充費の納入と10万円の塾債購入も義務付けるとし、初年度納入金は前年度の3倍にも膨れ上がった。学生たちはすぐさま抗議集会を開き、授業を放棄して全学ストライキに入った。当時話題となっていたサントリーの「トリスを飲んでハワイに行こう」というキャンペーンをもじった「慶応やめてハワイに行こう」というスローガンも飛び出す反対運動が繰り広げられた。

 翌年、早稲田大学でも授業料値上げを巡り全学ストライキが起こる。学生たちは各学部の入口を机やイスで作ったバリケードで封じ、期末試験の実施を妨害した。以後約150日間にわたり、早稲田のキャンパスでは大学本部の占拠、警官の導入、学生同士の乱闘など混乱が続く。
 学費の値上げと並行して進められていた学生への管理強化に対する反発もあいまって、学生運動は次々に他の大学へ飛び火した。明治大学、中央大学、法政大学も紛争状態に入り、お茶の水女子大学や東北大学といった国立大学でも大学の運営を巡ってストライキが発生した。

 そして迎えた1968年は東大激震の年となる。始まりは、医学部だった。


次回、「東大炎上」は2/22(土)更新予定です。


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