私の希死念慮
思うところがあったので死生観について。
私は今まで「健康長寿でギネスにのる」ことを目標に生きてきた。歴史が好きで、移り変わりをこの目で見たいから。自分が生きてきた20数年でも携帯電話がスマートフォンになり、切符からICカードが主流になり、世界は大きく変わった。そんな移り変わりを体感したかった。ついでに、生きるなら元気がいいよね、という強欲。
鬱病になってからは、いつでもどこでも、always死にたい。生きることへの執着はなくなり、自分が生きるに値する存在だと思えない。惰性で生きてる。散歩しながら「車が突っ込んで来ないかな〜」と考えている。
おそらく私は、同年代の人と比べて「死」に関わった回数が多い。近しい人だけでもギリギリ両手の指におさまる人数で、しかも片手は身内で埋まる。お葬式に親だけ参列した遠い親戚や、人伝に聞いた人を含めると数え切れない。自分は疫病神かと冗談半分に思っている。
残された側は悲しいし寂しい。もう会うことも声を聞くこともできない。お棺に入った顔を見て、いつも笑顔だったから真顔はこんな顔だったんだと初めて知る。普段は忘れているのに、急に思い出が溢れる。出棺して遺骨を見て、これしか残らないのかと立ち竦む。葬儀に関することをすべて終えた頃にはどっしりと身体が重く疲れている。
こんな経験を何度かしてきた。残された人たちの苦労を味わった。そして今後もまた経験するだろう。現に母方の祖父は入退院を繰り返しているし、両親や親戚もみんな歳をとって寂れてしまった。それでも私は死にたいと思う。
その後残された人たちは、否が応でもその人のいない生活を続けなければならない。人間は残酷なまでに順応力が高い。いなくなったこと以外は今までと変わらない生活だ。初めのうちは思い出し悲しくなり涙を流すこともある。しかし、時間が解決してくれるのだ。暫くすれば慣れるし、笑って思い出話もするようになる。残された人たちで穴を埋め合い生きていく。そうやって世界は廻っている。
このことを知っているから、経験してしまっているからこそ死にたいのだと思う。生きていれば周囲の人に迷惑をかけ続ける。しかし死んでしまえば、悲しいし大変なのは一瞬で、落ち着けば穏やかになる。私が死ねば援助してくれている両親も楽になるし、生命保険に入っているのでお金も入る。友人たちも私の突拍子のない我儘に振り回されなくてよくなる。彼氏もこんな面倒なメンヘラ女から離れられる。そして私は死ぬことができる。win-winである。みんなハッピーエンドだ。私のことなんか忘れて、みんな幸せに生きてほしい。
時間が解決してくれる。
そんな私の死生観と希死念慮のお話でした。