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日之影町の信仰

以下に『日之影町史 民俗』の執筆分の草稿をアップする。

第六章 信仰

第一節 神社と寺

一、神社

 日之影町内の神社の中で最も多いのが、菅原道真公を祀った天満宮、天神社、天神様であり、一つの特徴となっている(本章第三節「天神信仰」参照)。近世期に雷を除ける神として祀られたとする地域が多いが、高千穂地方の古くからの天神の多くは、特異なもので、天神地■という場合の天神で、国津神に対する天津神の天神である。拝鷹天神などのように天神の上に特別な名称の付くものもあるが、天孫降臨の際の際の随神などを特に天神様として祀られている例が多いという(『高千穂町史』)。
 また、日之影町内には、実在の人物を祀った神社が多い。伝説に伝えられている歴史上の人物、その多くが不遇の死を遂げているが、甲斐宗攝をはじめ、三田井親武、藤江監物、織田兄弟などを祀った神社が多いことも特徴である(第十章第一節「伝説」参照)。
 現在の高千穂町、五ヶ瀬町、そして日之影町を「高千穂郷」と称していたが、この地域には、「高千穂八十八社」という高千穂諸神の式内社ともいうべき別格の神社があった。この名称は戦国時代から既にあったとされるが、どのような基準で何の目的で選んだかなどは不明であるという。また、八十八社とは称しても時代によっては九十社を越えることもあったという(『高千穂太平記』)。日之影町内では、見立村の杉ヶ越大明神、七折村の熊野三社大権現(中尾)・穴大権現(徳富)・鷹九社大明神(平清水)、分城村の天神宮(糸平)、岩井川村の太子大明神(大人)などが高千穂八十八社の内に入っている(『高千穂神社仏閣記』には、これらが八十九社としてあげられている)。
 日之影町内の神社の神主は、歴代世襲で引き継がれており、旧村単位に一人の神主が担当してきた。旧七折村は深角の富高家、旧岩井川村は大人の甲斐家、旧山裏村では岩戸の佐藤家が担当してきた。各集落では、それぞれの祭りには神主を迎え入れるが、地元の集落では世話役や頭取と呼ばれる役職が設けられ、日常的な祭事を執り行ってきた。神官のいない大字分城では、新名家が世話役として祭事を執り行っており、大字見立では、煤市吐の吉田憲一さんが祭事なども行うことがあるという。
 ここでは主な神社を『宮崎県神社誌』を中心に様々な資料を交えて紹介するが、それ以外の神社・祠堂については『日之影町史 村の歴史』を参照いただきたい。

1、宮水神社(旧村社)
 祭神は、大山祗尊・三田井越前守親武公・八幡大明神・菅原道真公・月読命・愛宕将軍・稲荷大明神・逆巻大明神。例祭日は、四月三日、十一月二十三日。旧郷社。創立年月日は不詳。
 天正十九年(一五九一)九月、三田井越前守親武公が松山の城主高橋元種公に滅され、その首級■を元種公の実験に供せんとここまで運んできたが、首級にわかに重くなり動くことができなくなったためにこの地に埋葬した。旧領民は親武公を朝に夕に哀慕追悼したが、享和三年(一八〇三)八月石碑を建立し、くだって、天保十五年(一八四四)に至って神として祭祀したいとの願いを、時の神祇祀管領吉田家に願い出、親武大明神の神号を許され、安政三年(一八五六)十一月十五日社殿を創建した。その際袴谷に鎮座していた北山大明神をこの地に遷して合祀し、明治初年郷社に列せられ、宮水神社と改称した。北山大明神は大山祇尊を祀り、天正十五年(一五八七)十一月の勧請にして、代々領主の厚く尊崇する社であった。
【写真6-1 宮水神社 4月3日の例祭日には桜も満開になる。】

2、鹿川神社(旧村社)
 祭神は、伊弉冉尊、事解男命、速玉雄尊(『宮崎県神社誌』では伊邪那岐命・伊邪那美命)。例祭日は、旧暦十一月十四日。旧村社。創立年月日は不詳。
 宝永五年(一七〇八)十二月九日、三神を勧請し熊野三社大権現と称した。領主は三浦壱岐守明敬神主は田尻隠岐守則信に有之其後代々氏神とする。境内に大己貴命を祀る黒尊神石がある。『日向地誌』によれば、当社祭神について伊弉冊尊、事逆解男命、速玉男命を合祀すると記してある。明治四年鹿川神社と改称、現在に至る。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

宮崎県日向国西臼杵郡七折村小字杉ノ原
   一、杉原神社          七折村鹿川門鎮座
   一、波帰鶴八社大明神社  同村同門
   一、天満神社       同村同門
   一、天満神社       同村同門
   一、天満神社       同村同門
 右波帰鶴八社大明神以下四社ヲ七折村鹿川門杉原神社ヘ合併仕鹿川神社ト改称

3、深角神社(旧村社)
 祭神は、素盞鳴■命・織田様・大己貴命・菅原道真公。例祭日、十二月三十日(以前は十二月二十六日)。創立年月日は、不詳。
 古い大木にかけた二面の鏡があり、鏡面に神のすがたがあるこの神は諸病除の神として天正年間(一五七三~一五九二)に祀ったという。鏡一面を素盞嗚命、一面を大己貴命と言い伝えている。杵築大明神を祭り、明治四年神社改正の際、織田神社を合祀して深角神社と改称された。
 祭神名の織田様が信長公ともいうが、織田様とはは織田半平のことで、次のような伝説がある。深角神社はもとは織田重美という人の霊を祀ってあったが、何時の頃からか付近の素盞嗚命を祀った社と天満天神を祀った社とをここに合祀した。織田重美(当地に来てからは半平と称した村人は信長の子孫だといっている)はその弟杢之丞と共に何かの罪によって日向に流され、暫時延岡藩主有馬氏によっていた。ある時有馬氏が重美の下駄をはいたら足に着いて離れなかった。その時重美が「許す」といったらすぐ離れた。家老は殿様に対して「許す」とは失礼だと怒り七折村に遷された。
 ある時お上から何日に彼等を殺せとの状が届いた。しかしその日の来ないうちに「赦免」の状が着いた。ところが代官は遂に彼等兄弟を殺してしまった。重美を殺しに向った者達はその窓下で火事だと叫び、彼が首を出した所を挟木■で絞殺した。その後代官は頓死した。付近には火災が多くなった。「火事」といえぼ「深角だろう」という程であった。人々は織田様の祟りだと考え、小石に大般若経を書いて埋めた。
 社を建てて織田大明神として崇め祀った。神体の鏡は周り一尺位で、中央に一寸位のお姿があり、これは閻浮檀金で作られているという。弟の杢之丞は平底に平底大明神として祀られている。(『日向の伝説』)
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、織田大明神社        七折村深角門鎮座
   一、杵築大明神社     同村同門
   一、熊野大明神相殿    同村同門
     天満神社
   一、天満神社       同村同門
   一、水神社        同村同門
   一、天満神社       同村同門
   一、真中神社相殿     同村同門
     厳島神社
 右杵築大明神社以下六社ヲ深角門織田大明神社ヘ合併仕深角神社ト改称

4、椎谷神社(旧村社)
 祭神は、菅原道真公・秋葉大明神・八幡大神。例祭日は、五月二日(以前は十二月二日)。旧村社。創立年月日は不詳。
 村中の者が雷除のために元禄年中(一六八八~一七〇四)に奉祀したと伝える。旧称天満宮と称したが、明治四年椎谷神社と改称した。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

宮崎県日向国西臼杵郡七折村字椎谷
椎谷神社
   一、天満神社          七折村椎屋門鎮座
   一、天満神社       同村末市
   一、天満神社       同村同所
   一、天満神社       同村椎屋門
 右天満神社以下三社ヲ椎屋門天満神社ヘ合併仕椎屋神社ト改称

 祭神の秋葉大明神に関しては次のような伝承がある。

椎谷神社ハ別ニ秋葉神社トモ稱シ、七折村字椎谷字末市両部落約六十戸ノ氏神デアル。郷民ハ普通ニ「アキヤ様」ト呼ビ、鎭火ノ神トシテ崇敬シテヰル。「アキヤ様」ノ「アキヤ」ハ「秋葉」ノ轉訛音ト見テヨカラウ。祭神ハ「秋葉大明神」ト呼バレテヰルガ、コレハ始メ鎭火ノ神トシテ、安永七年戌三月六日「秋葉三尺坊宮」ラ遠州ヨリ勧請シタニ基ズクモノデアラウ。遠江國ノ何レノ土地カハ詳デナイ。其ノ後「秋葉山大權現宮」ト改メ、嘉永四年亥十月二十六日ニ遷宮式ヲ行ツタノデアル。此レ以前、椎谷・末市ニハ各々天満宮ヲ祀ツテヰタノデ、明治五年ニ是等ヲ秋葉山大權現宮ニ合祀シ現在ノ社地ニ社殿ラ造營シタ。
 神社ハ全部木像デ、秋葉一体・天神四体・金比羅一体・八幡一体、合計七体デアル。例祭ハ毎年旧暦四月七日(春祭リ)及ビ、新暦十二月二日(秋祭リ)デ、秋祭ノトキハ氏子ハ一民家ニ集リ徹宵シテ神樂ヲ奉納スル。現在ハ未ダ村社トシテノ指定ガナイ為、祭費ハ総ベテ氏子ノ負擔トナツテヰル。
        (昭和十二年『七折村・村社・椎谷神社ニ関スル傳説』)

5、波瀬神社(旧村社)
 祭神は、伊邪那岐命・伊邪那美命。例祭日は十二月十四日。旧村社(幣帛料供進社)。創立年月日は不詳。
 神代天兜屋根命の建立と伝えられる。三毛入野命(高千穂神社・十社大明神)が鬼八退治に行かれる際、この場所で御休息された。このとき休息された石を三毛入野命の「腰掛石」と称し、今でも注連を張って祭っている。また元和年間(一六一五~一六二四)島原に戦乱が起り、当国城主有馬左衛門佐直純■島原に御出陣のみぎり、当社境内にて召馬が俄に病気でたおれたため、村の長老を召して当社はいかなる神かとお尋ねになった。長老が「その昔、三毛入野命が鬼八退治のためこの社にご休息された際、イザナキ■・イザナミ二神を形代として山神と称して祭ってきたことを聞かれて、三毛入野命は改めて当社に名字大明神の神号を賜わった」との古伝を説明した。これを聞いて有馬公が召馬の病気平癒と戦捷祈願をされたところ、召馬たちどころに勇み立ち、有馬公は島原の戦において大いに武勲を立てられた。有馬公はその奉賽のためにと内宮を建立されたという。現在では牛馬守護の神として崇敬されている。明治四年波瀬神社と改称された。
 旧暦二月の初午には春祭りがあるが、この日は集落内の祭りである。十二月十四日の祭りは「セッキのまつり」とも呼ばれ、牛馬の守護を求めて町内外から多くの参拝客がある。
【写真6-2 波瀬神社大祭】
【写真6-3 二対の神像】

6、一水神社(旧村社)
 祭神は、菅原道真公。例祭日は、一月二日(以前は十二月二十三日)。旧村社(幣帛料供進社)。創立年月日は不詳。
 村中で申し合せて雷除のため寛永年間(一六二四~一六四四)に祀ったといわれる。旧称天満宮といい、明治四年現社名に改称した。大正十三年五月二十日縣告第二百十九號を以て、明治四十一年七月内務省令第十二號神社會計に関する規定適用神社に指定さる。
 当社の鎮座する一水は、三毛入野尊が鬼八退治の途次、路傍の清水を掬って召されたところ、たいそう美味であったので「一の水だ」といわれたことにより、この地名が起きたという。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、天満神社          七折村一水門鎮座
   一、水神社        同村同門
   一、三神社  相殿    同村徳富
     天満神社
 右水神社以下二社ヲ一ノ水門天満神社ヘ合併仕一水神社ト改称

7、竹之原神社(旧村社)
 祭神は、須素盞嗚命・少名彦命。例祭日は十二月二十五日。旧村社(幣帛料供進社)。創立年月日は不詳。
 勧請の年月は詳ではないが、昔より尊崇されてきた社であり、天正年間(一五七三~一五九二)村中の者申合せて諸病除の神として建立したとの伝えがある。後、享保十一年(一七二六)領主牧野越中守より許可を受け神名を石神大明神と称した。其後代々竹の原の氏神として崇敬し来り、明治四年神社改正の際竹之原神社と改称した。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、石神大明神社     七折村竹ノ原門鎮座
   一、天満神社       同村同門
   一、竹原水神社      同村同門
   一、熊野大神社      同村楠原
   一、天満神社       同村同門
 右天満神社以下四社ヲ竹ノ原門石神大明神社ヘ合併仕竹原神社ト改称。

【写真6-4 竹之原神社の御神石】

8、平底神社(旧村社)
 祭神は、伊弉冊命・事解男命・速玉男命・菅原道真公。例祭日は一月一日(以前は十二月十六日)。旧村社。創立年月日は不詳。
 元禄年間(一六八八~一七〇四)に村中の者が申し合せ雷除の神として創建したという。後に織田大明神並に熊野権現も合祀されている。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、天満神社          七折村平底門鎮座
   一、熊野大神社      同村同門
   一、天満神社       同村同門

9、大菅神社
 祭神は、菅原道真公・明谷大明神・大国神■・八幡大神。例祭日は十二月二十日。旧村社。創立年月日は不詳。
 古老の口碑に雷鳴を恐れて村中が申し合わせ勧請したという。菅原道真公を祀ったため、古くは天満宮と称したが、明治四年に大菅神社と改称した。大菅には神様を祀った森が多く存在していたが、「八幡様の森」「天神様の森」などの神々を「歳神様の森」に合祀された。平成五年の土砂崩れで倒壊したが、翌年再建された。

10、平清水神社(旧村社)
 祭神は、天御中主神・信大明神・大山祇神・神皇産霊神・政大明神・鎮大明神・氏大明神・高皇産霊神・惟大明神。例祭日は一月九日。旧村社。創立年月日は不詳。
  「神蹟明細記」に「高九社神社あり、三田井越前守の弟庄次郎左平太の女子某市の原といふ所より平清水に来たりて住す。高橋元種命じて之を殺さしむ。後祠を建てて祀る。鷹九社明神と称し社側に墓碑之墓あり。」とある。「元和八年の棟札には高六社とあり。慶安元年の棟札には鷹九社大明神とあり高と鷹とし六社と九社とせしは有馬候上阪の海上難風と遭ひ無事を之の社に祈る。三鷹あり来たり船に止まり船姜なきを得たるにより鷹三羽の神といふことを加えて高を鷹に六社を九社に改められたり。」とある。また、「高六社は庄次郎等三人の勧請にして此の人の先祖にはなきか、左平太等の記したる棟札やうのものには寛永五年高六社大明神とあり、然る時は此の六社は庄次郎等三人を加えて九社としたるには非ざるか、而して高を鷹と改めたるは尚考ふべし。」とされ、庄次郎等は親武公没落当時に於ける最後の三田井氏である。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、鷹九社           七折村平清水門鎮座
   一、水神社        同村同門
   一、天満神社       同村同門
   一、天満神社 同村小菅
   一、戸川嶽大明神社    同村戸川
   一、水神社        同村小菅
   一、天満神社       同村戸川
 右水神社以下六社ヲ平清水門鷹九社ヘ合併仕平清水神社ト改称

【写真6-5 平清水神社】

11、中川神社(旧村社)
 祭神は、安穂冨貴壽命・速須佐之男命など、外八柱。例祭日は、十二月十一日(旧十一月十一日。創立年月日は不詳。
 寛文三年(一六六三)十月十九日の勧請で、神号を武大明神と称したという。社伝によれは貞享三年(一六八六)十二月社殿を建立、安穂冨貴寿命を祀る。後大山祇命・彦穂々出見命・開耶媛命・及び中川内前■の守清兵衛家族五人の木像を作り共に合祀したと伝える。『日向地誌』によると、旧称嶽大明神といい、素盞男命を祭る。明治四年今の名に改めたとある。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、嶽大明神社         七折村中川門鎮座
   一、天満神社       同村同門
   一、天満神社 同村同門
   一、元山大明神社     同村同門
 右天満神社以下三社ヲ中川門嶽大明神社ヘ合併仕中川神社ト改称

12、岩井川神社(旧村社)
 祭神は、国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊・大山祇命・菅原道真公。例祭日は一月十四日。旧村社。創立年月日は不詳。
 当地は古来、檍原大日止と称し、後世、大人と改めた。皇孫瓊々杵尊、日向国高千穂の久志布流多気に天降坐して笠沙の御前に国求め通り給う時、御留りありたるにより大日止と名つけ、この霊地を保存する意味にて天津神三神を勧請し、太子大明神と尊崇して今日に至る。永正六年(一五〇九)甲斐和泉守重久再建の棟札があるという。
 明治四年、付近の山野にあった小社を合祀して岩井川神社と改称された。旧暦十二月三日に行われる高千穂神社(十社大明神)の猪掛け祭には、特に岩井川の村人が奉仕し、当地でとれた初ものの猪が神前(鬼八塚)に捧げられた。

13、舟ノ尾神社(旧村社)
 祭神は、菅原道真公。例祭日は十二月二十日(以前は二月十日)。創立年月日は不詳。
 社伝によれば、慶安元年(一六四八)十月二十五日、津隈越後正宣という者が、越前■筑前の筑浦天満宮を勧請したのが始まりという。その後、寛永三年(一六二六)三月五日再興を津隈太郎左衛門藤原宣次によってなされ、更に寛文四年(一六六四)二月有馬左衛門佐直純公より再興せらる。享保四年(一七一九)九月十九日宗源の宣旨下る。享保十七年(一七三二)再興の記録がある。八戸・舟ノ尾・阿下・新町・笠戸五区の中央に位置している。もと、天満宮と称していたが、明治四年、他所にある小社を合祀し、舟ノ尾神社と改称、村社に列せられる。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、熊野大神社         七折村船ノ尾門鎮座
   一、王子神社       同村八戸
   一、正一位天満神社    同村舟ノ尾門
   一、天満神社       同村八戸
   一、天満神社       同村椛木
   一、天満神社       同村新町
   一、水神社        同村笠戸
   一、天満神社       同村同所
 右王子神社以下七社ヲ船ノ尾門熊野大神社ヘ合併仕船尾神社ト改称

14、下顔神社(旧村社)
 祭神は、菅原道真公。例祭日は十二月二十六日(以前は一月十六日)。旧村社。創立年月日は元禄九年(一六九六)十二月。
 夲社は元禄九年(一六九六)十二月十八日高千穂の田尻壱岐守旭則信に依頼し、勧請し、徳川家康代神号を天満大明神と称した。神主は壱岐守旭則信であり、明治維新の際、下顔神社と改称す。旧称を天満宮と称した。明治四年付近の小社を合祀して下顔神社と改称、村社に列せられた。
「管内小社合併社号改称届」『宮崎県古公文書』では、以下の通りである。

   一、天満神社          七折村下顔門鎮座
   一、天満神社       同村同門
   一、天満神社       同村中村
 右天満神社以下二社ヲ下顔門天満神社ヘ合併仕下顔神社ト改称

15、大人神社
 祭神は、品陀和気尊・大年神・大山祇命・菅原道真公。例祭日は十月九日。旧村社。創立年月日は不詳。
 瓊々杵尊が国求めの際、留まりなされたところから汚れの恐れがないことを祈って応神天皇を勧請し、八幡宮■と称した。文禄四年(一五九五)甲斐宗摂を合祀し宗摂八幡宮と称する。明治四年、大人神社と改称した。豊臣秀吉の九州攻めの行賞で、臼杵郡は宮崎地方とともに高橋元種に与えられた。三田井家の実力者で、岩井川村の庄屋だった甲斐宗摂は、用水路を開削するなど、領民に善政を施したが、高橋氏に攻められ、鶴の平で自刃した。
 当社の十月九日の例祭に奉納される大人歌舞伎は、古来、高千穂の鬼八法師の所に娘を生け贄として捧げる習わしがあったのを宗摂が改め、猪を供えることにしたこと、およぴ地域開拓に力を入れた功績に感謝して奉納したのが始まりという。(第■章第二節「大人歌舞伎」参照)

16、小崎神社
 祭神は、菅原道真公。例祭日は十二月二十八日。旧村社。創立年月日は天正二年(一五七四)十一月。
 菅原道真公を勧請し、天満神社と尊崇されていたが、明治四年、小社を合祀して小崎神社と改称した。この社地は神代の霊地といわれ、猿田彦大神が留まられたため、字を猿山といっている。この霊地を汚すことがないように後世菅公を勧請したものと伝えられる。

17、大川平神社(旧村社)
 祭神は、大山祇命・天児屋根命・菅原道真公。例祭日は十二月二十日。創立年月は、元暦二年(一一八五)。
 大山祇命御鎮座地なるを以て字を大山といい、また命の剣を立てられた所を剣が塚という。天暦二年天児屋根命、菅原道真公を奉斎して大山大明神と称したと伝える。『日向地誌』によると、天児屋根命、菅原道真を祀り、旧称春日大明神といったとある。明治四年小社を合祀して大川平神社と改称し、村社に列せられた。

18、小川平神社(旧村社)
 祭神は、日本武命・大宮姫命・菅原道真公。例祭日は十二月二十二日。創立年月日は不詳。
 大宮姫命を五穀の守護神として崇め、今日に至るまで例祭日には五穀を供える。『日向地誌』によると、旧称今宮大明神天満宮といい、大山祇命、菅原道真を合祀していた。明治四年小社を合祀して小川平神社と改称し、村社に列せられた。

19、楠原神社
 伊勢神宮・宮水神社並村社十三社の楠原遥拜所であった。鎮座地は七折中ノ園。
 元亀三壬申十二月五日、國主大神朝臣、三田井鎮宣代三神を勧請し、本所熊野三所権現宮と称し、当楠原の産土神として尊崇された。神主田尻出雲守乗信がその後楠原に鎮座された。明治維新の際合祀の御布達により竹の原神社へ合祀となるが、明治八年五月県区神宮佐藤信寛当中ノ園へ社務所を設けて、右社跡に小社を建立し、宮崎県の許可を得る。伊勢神宮宮水神社外村社十三社の遥拜をはじめ諸官社の遥拜を執行した。

20、若松神社
 仲組区の氏神であり、旭仲組神社とも称する。創立は明らかでないが、神社にある最古の棟札は「延宝八年(一六八〇)」があり、そのほかに宝永・正徳の年号(一七〇四~一七一六)が見られる。祭神は、延宝八年(一六八〇)の棟札に「尾葉餌■村八大龍王宮」、また正徳三年(一七一三)の棟札に「天神弁才天」とある。そのほかにも彩色の木彫神像五体と狐像二体があり、神面も奉納されている。神社境内に、次のように神社の由来が記されている。
 「尾八重と川中に宝塔二基・宝篋印塔二基が現存していることで、私達の祖先は五百年以上昔からこの地に住みついていたことを知ることが出来る。
 神社の祭神は、天神・八大竜王・弁財天・尾八重八幡・御霊神の五方あり、御神殿には、男面二十六・女面二十四・計五十の神面と天神像二体・狐像二体が安置されている。
 十数年前神面十数体が盗まれたことは如何にも残念である。本殿は延宝八年(一六八〇)十一月、徳川五代将軍綱吉の時代に甲斐助左衛門が願主となり、山裏村尾葉餌■に八大竜王一宇を建立した。
 尾八重にある八大竜王の神名と並んで、尾八重八幡神石(文化六年建立氏子中)、弁財天神石(文化六年建立■利藤治弁弥)、五両大明神右(文化十一年建立氏子中)、若宮大明神(文化十一年建立氏子中)外二十を数える墓石が尾八重にある。尾八重に構口と云う所があるが、追掛けて来る敵を防いだことで構口と云う。
 宝永七年三月、大願主工藤次左衛門により山裏南米石村に加倉八幡宮を建立し、国家安穏・武運長久延命所とした。又明治十六年旧暦六月、仲組氏子中により、若松村の天神を合祀、神社一宇の建立となり以後若松神社と云う。
 弁財天は若冠九才の時、容姿風貌は他を圧し、西側にとっては懸念される存在であったので、秘かに抹殺を計画。猪狩りに誘い出し、廻し場に待機させ火縄銃で殺し飯干に埋めた。之を知った東側は弁財天を掘出し尾八重に連れ帰り、懇ろに埋葬した。その霊の祟りを恐れた西側の住民は、東側住民と談合の上、祭神として若松神社に祀ったのである。昭和三十一年、市町村合併法が制定されるや、山裏地区は日之影町に合併され、地名も大字見立旭区、神社名も旭仲組神社と改名され、毎年仲組地区氏子中により祭祀を施し現在に至っている。
 数世時代を生き抜いて来られた祖先の霊を、貴重な文化財として祭祀を怠らず、未来永劫に伝承する。昭和六十年五月吉日建立」

21、洞嶽神社
 祭神は彦火火出見命・瓊々杵尊で、以前は洞嶽大権現と称され、高千穂八十八社の一つに数えられている。例祭日は旧暦二月十六日。川の詰の神太郎水神本殿に遙拝所がある。

 神殿ハ自然鍾乳洞ノ洞窟ニシテ壮厳ソノモノデアル。尚ホ、洞窟ハ天井ニ當ル部分ニ多クノ鍾乳石ガ垂レ、村人ハ洞獄権現ノ御乳ト稱シ,之レヨリ滴リ落チル水ヲ盃ニ受ケテ戴クト、不思議ニ産婦ノ乳ノ少イ婦人ハ乳ガ出ダスト言ヒ傳ヘテレ、遠近ヨリ参詣・祈願ヲナス者アリ。洞窟ニ入ルニハ石段ヲ上ルノデアルガ、十五・六才以上ノ婦女ハコノ中ニ入ルト、神罰ヲ蒙ルトテ今ニ及ビ立チ入ル事ヲ禁ジテアル。(『見立尋常高等小學校区域神話傳説』)

22、奥村神社
 杉ケ越大明神として尊崇されてきた奥村神社は、明治初期に廃社になり、天岩戸神社に合祀されたが、住民は今でも奥村神社の氏子として、旧暦九月九日に例祭を執り行っている。祭神は彦火火出見尊・豊玉姫尊で、高千穂八十八社一つに数えられている。

 維新マデハ、毎年七月ヨリ九月迄ハ「道塞リ」ト稱シ、僧侶婦人鳴リ物果物ヲ携帯シタル者ノ通行ヲ禁シタリト言フ。若シ此ノ禁ヲ犯ス者、アル時ハ暴風雨必ラズ起リ里人之ヲ名ヅケテ大明神暴レト云ヘリト。今モ尚ホ杉ヶ越ニ接セル両村部落ニテハ、道塞リノ間婦女ノ通行ヲナサザル風習アリ、九月九日ノ例祭ヲ道明ヶ祭リト云ヒ家族打連レ参拝ノナス。
 当時ハ豊後小野市村更内ノ地ニ御供田アリテ、必ラズ道明祭ニ新穀ヲ奉リシト云フモ、神鏡ヲ失シテ其ノ事沙汰止トナレリト傳フ。
 尚ホ例祭日ニハ鳥居ト鳥居トノ間ニ雨降リ不自然ナル現象ヲ見ルコト多シト、亦戦国ノ世大友宗鱗日向ノ伊藤ヲ援ケテ島津氏ト耳川ニ戦ヒシ時、比処ヲ通リシ際戦勝ヲ祈念シテ戦勝チテ帰リナバ我ガ佩刀ヲ奉納セン、守護ヲ垂レ給ヘト祈リ出陣、凱旋ノ砌此ノ坂ヲ下ラントセルニ、刀鞘走リノ、其ノ霊驗ノアラタカナルニ驚キ、戦勝ヲ得タルハ一編ニ、神ノ御加護ニヨルナラント、只今佩刀ヲ奉納仕ルト、刀デ大杉ヲ貫ヌイテ折ッタト言フ。近年迄刀刃ノ折レ口ガドコソコキラキラト残ツテイタトヰフ。
 宗鱗カ名貫川ニ敗戦本國ヘ逃ゲ歸ル際、杉ヶ越ヲ越ユルモ追手尚ホ急ナリ、木浦二至リ命シテ飯炊ノ如ク見セカケ薪ナド用意シ釜ノ中ニ火薬ヲ入レ狼狽セルゴトク逃レシニ、追手ハ之幸ナリト火ヲタキツケタルニ爆発死者ク出セリト。此ノ時、初メテ鹿児島藩ニテハ、火薬ノ製法ヲ知リタリトイフ。尚ホ、西南ノ役ニ賊軍此ノ宮ニ立テ篭リ、境内ノ老杉ノ道ヲ塞グタメ切リタルニタチマチニシテ生血滴リ、切放シテモ倒レズ漸クニシテ三日ノ後倒レタルモノナリトイフ。然シテ切倒シタル老杉ハ行衞不明トナリタリト傳フ。然シテ間モナク賊ノ隊長ハ落水ニテ溺死シ、次ノ指揮官ハ失明セントイフ。(『見立尋常高等小學校区域神話傳説』)

【写真6-6 奥村神社 旧暦9月9日に杉ケ越大明神の例祭が行われる。】

二、仏閣

 日之影町内の寺は、大字七折の昌龍寺(曹洞宗)と大字岩井川の真楽寺(浄土真宗)の二つである。この他、隣町の高千穂町・北方町の檀家となっている家も多い。高巣野では、浄土真宗の浄光寺(高千穂町上野)・教願寺(同町向山)の檀家が多い。ただし、大字見立では、神道の家が多く、葬式も神道葬で行うため、それらの家は寺に属していない。

1、昌龍寺
 所在地は舟の尾。惣本山永平寺小本山寺台雲寺末。曹洞宗。本尊は、釈迦牟尼仏。

★昌龍寺の歴史
 高千穂城主三田井越前守親武公は津隈越後守太郎左衛門に綱の瀬の要害を堅めさせた。八戸の古城の城主越後守は大永元年(一五二一)の頃、一の菩提寺を建立し、肥後より追仏の薬師を本尊として薬現寺と称していた。天文・永禄の頃、四海大に乱れ、文禄元年(一五九二)九月二十六日夜、三田井親武は甲斐和泉守宗摂のため害せられ、綱の瀬の要害破れ、津隈は山神峠の北、波羅落野という所に隠れていたけれども後に降参した。
 その後、寛永の頃、津隈宜次為菩提の為、月山心浦和尚を請して地所を字舟ノ尾村尾上というところに薬現寺を引き移し、その時この地生龍の如く西の山には黒雲あり、故に改称して雲峯山昌龍寺と号した。享保三年(一七一八)に小本寺台雲寺五世靈峰丹鎖和尚を請して関山として法憧地となった。遷化は元禄五年(一六九二)三月五日右の困縁により、雲峯山にても開基は津隈越後守にて法名は雲龍院月情浄心大居士と号した(津隈家文書「由緒書(津隈家由来之一座略記)」)。ちなみに文政十二年(一八二九)四月六日火災に遭い焼失し、宝物のことごとくを失っている。
 「高千穂寺院明細帳」には、「曹洞宗、本山近江国坂田郡 経寧寺、中本山当郡岡富村 台雲寺末、美々津県管轄日向国臼杵郡七折村雲峯山 昌龍寺」「永正十三年亥年二月台雲寺心甫創建」「第十五世職実応、当申七月十八日ニ病死ニ付当郡家代村金鶏寺住職大如兼務」「安政五午年五月三日当郡塩見村水月寺於て得度、先住弟子大恵、壬申年二十五歳、安政四巳年十二月廿三日右同寺ニ於テ得度、同弟子大悟、壬申年十八歳、以上僧二人」とある。
【写真6-7 昌龍寺の施餓鬼 平成10年に新築された本堂】

★八戸の観音
 八戸は昌龍寺の元になった薬現寺のあった集落で、八戸観音滝の御泊川左岸に巨大な洞穴がある。ここに昌龍寺の法田長昌住職が文政五年(一八二二)二月二十三日に聖観世音菩薩像を安置した観音堂がある。旧暦一月十六日は初観世音といい、観音祭りが催される。(第■章「祭礼」)

★戸川嶽の五百羅漢
 舟の尾集落の津隈秀男さん宅の古文書には、「雲峯山昌竜寺水号法憧寺ニ相成ル事ハ、享保三年年参月本山十世古童和尚ナリ、遷化ハ元禄五年三月五日ナリ、成願寺に石碑アリ、川内戸川嶽ノ五百羅漢与各附玉ラモ、寛永ノ頃中興開山心甫和尚ナリ」■現文照合」とあり、昌龍寺の僧侶が五百羅漢を祀りはじめたことが分かる。舟の尾の昌龍寺は「享保三年ニ小本山台雲寺五世霊峰圓鎖和尚ヲ諸シテ開山トシ法幢地トナルナリ(県古公文書)」とあり、享保三年の開山である。洞穴に残された、直径二七センチの鰐口には「享保二十乙卯年正月吉日」「日州日向国高千尾五百羅漢堂」との銘があり、昌龍寺の開山とほぼ同時期に五百羅漢が祀られたことになる。(第■章「山の信仰」)

★施餓鬼法要
 昌龍寺の儀式としては、涅槃会・仏誕会・両祖忌・開山忌・達磨忌・成道会・彼岸会・施餓鬼会の他、葬儀及び追悼法要があり、行事としては座禅・花祭・聖餐の集いなどがある。これらの中でも「セガケ(施餓鬼会)」は、檀家にとって最も身近な行事である。お盆の前の決まった期日に行われ、午前中に昌龍寺に檀家が集まり、他の禅寺からも僧侶が訪れ、盛大に施餓鬼会が執り行われる。卒塔婆と施餓鬼の旗をもらい受けるが、施餓鬼会の最後に当日飾られていたセガケの旗を競い合って手に入れる。この様子は「セガケの旗とりのごつある」と競い合って何かをする様を表現する慣用句となっている。「セガケの旗」は持ち帰り、田畑や牛小屋に飾って、虫除けや病気除けとする。また、施餓鬼の故事に習って、禅宗の檀家の家では、施餓鬼棚の意味を持つ盆棚、ショロ棚(精霊棚)が軒先などに設けられる。施餓鬼の旗は、これらの盆棚や仏壇に飾られる。盆棚には、食事とミズノコなどが供えられる。ミズノコは、洗米にナスやハスガラ、カボチャ・ニンジンなどを細かく刻んで混ぜ合わせたもので、芭蕉などの葉にのせて供えられる。(第八章「年中行事」参照)
【写真6-8 施餓鬼のお札 】

2、真楽寺
 真楽寺は、元五ヶ瀬町三ヶ所に開基された寺であった。寛永元年(一六二四)に釈念西が宮崎県西臼杵郡三ヶ所村大字三ヶ所字高畑に真楽寺を開基した。
 明治二十一年七月十九日に、真宗本願寺派説教所として中崎に設立された。
「県同村社以下寺院(明治二十一~二十三年)」(『宮崎県古公文書』)には、「説教所設置願」として「今般村内真宗般依の者、協議の上、宮崎県日向国西臼杵郡岩井川村字中崎三千九百三十番山地二反八畝歩同村寺尾大八より寄付、本願寺派説教所設置仕度候条、此段御許可成被下度管長添書并に地所寄付人信徒惣代連署の上、絵図面相添へ奉願上候也、明治廿一年四月廿五日」という資料がある。そこには「地所寄付人・寺尾大八」「信徒惣代・寺尾福治・城尾新一・城尾団蔵」に続き、「鹿児島県下薩摩国鹿児島郡東千石馬場町十六番地、本願寺出張所長大河順道代理、野崎流夫」の名も見られる。当時この書類のために鹿児島に行く必要があったという。
 その後、明治四十四年に中崎に真楽寺は移転された。「寺跡移転御願(明治四十四年)」には、宮崎県西臼杵郡三ヶ所村の真楽寺が、「右ハ今般維持上ノ都合ニ依リ同県同郡岩井川村字中崎参千九百参拾番地中崎説教所ヘ移転仕度候間」とあり、「右寺兼務住職寺本覚峯、現在地法類専光寺住職 藤巻大寛、現在地檀家総代 飯干与太郎・鈴木俊蔵・後藤重四郎」「移転先法類教願寺住職 三田井貫徹、移転先信徒総代 城尾新一・寺尾運四郎・尾崎市平・寺尾大八」これらの人々により、当時の宮崎県知事有吉忠一に書類が提出されている。
 また、移転・理由として、

真楽寺所在地タル三ヶ所村ニハ現ニ四個ノ寺院アリテ就中真楽寺ハ該村ニ於テ僅カニ四十戸ノ信徒ヲ有スル  ニ過ギス且ツ真楽寺ハ該村ニ於テ基本財産ヲ有セズ為メニ維持ニ困難シ四十戸ノ信徒モ漸次脱退ノ姿トナリ  今ヤ殆ト有名無実ノ状態トハナレリ然ルニ其ノ移転先タル岩井川村ニハ従来一ツノ既設寺院ヲ有セズ而モ右  真楽寺ノ信徒ハ実ニ二百十一戸ノ多数ヲ有シ且移転先中崎説教所ノ名下ニ境内地百五十八坪及金壱千円ノ基  本財産アリ之ヲ真楽寺ノ基本財産ト為スガ故ニ維持ノ方法モ立チ又信徒ノ便利上移転ヲ要スル所以ナリ

とあり、その他次のような断りが記されている。

  二、移転ノ為メ移転先ノ村治上及既設寺院ニ影響ヲ及ホス憂ナシ
  三、岩井川村ニ字寺尾ナル字名ナシ又従テ本願寺説教所ナルモノナシ岩井川村大字岩井川字中崎ニ公認ノ本   願寺中崎説教所アリ真楽寺ト同宗同派ニシテ従来ノ縁故浅カラザルモノナリ、
  四、境内地寄付承諾書坪数ハ百五十八坪ニシテ土地台帳ト同一ナリ書類ハ之ヲ訂正ス、
  五、借用証書ノ宛名ハ別紙写ノ通リ更正登記ヲナシタリ、
  六、真楽寺信徒員数ハ三ヶ所村ニ四十戸岩井川村ニ二百十一戸アリ移転后ハ岩井川村ニ尚多数ノ信徒ヲ増加   スル見込ナリ、
  七、移転先地ト最近ノ同宗派概説寺院トノ距離ハ四里トス、

 以上の申請を元に、大正元年八月三日本県知事有吉忠一の許可を受け小崎に移転した。当時の真楽寺の様子は「西臼杵郡寺院仏堂明細帳 宮崎県 社第十一号永年」に記されている。

  宮崎県日向国西臼杵郡岩井川村大字岩井川村大字岩井川字小崎三九三〇番地
  真宗本願寺派 真楽寺
  一、本尊 阿弥陀仏
  一、由緒 寛永元年釈念西宮崎県西臼杵郡三ヶ所村大字三ヶ所字高畑ニ開基シ、大正元年八月三日本県知事   有吉忠一ノ許可ヲ受ケ現在ノ地ニ移転セリ、
  一、堂宇間数 本堂
  一、境内坪数並ニ地種 八百四拾坪
  一、境外所有地
   一、焼畑 三ヶ所鳥屋ノ平
   一、畑 松ノ平
   一、畑 仁田ノ尾
   一、田 竹ノ平
   一、山林 松ノ平
   一、宅地 松ノ平
   一、畑 岩尾ノ元
   一、田 内野尾
   一、畑 内野尾
   一、山林 内野尾
  一、檀徒 弐百壱拾壱戸

【写真6-9 真楽寺 昭和40年頃は、寺の下は見晴らしがよかった(宮水・菊池彦喜氏提供)】
【写真6-10 真楽寺の住職と檀家 昭和40年頃。中央が三田井忠愛住職(宮水・菊池彦喜氏提供)】
 昭和八年、真楽寺の活動は次第に岩井川村に中心が移り、三ヶ所の土地を処分することになる。「寺院不動産売却許可申請(昭和八年八月三十日)」には、「檀徒総代興梠作市・佐藤潔・甲斐新一」のながあり、「西臼杵郡三ヶ所村三ヶ所内野尾 田、同 畑、同 山林、竹ノ平 田、岩屋ノ元 畑、鳥屋ノ平 畑、仁田ノ尾 畑、松ノ平 畑、同 山林、同 宅地」の土地を売却した。その理由については次のようにある。

  右真楽寺ハ元宮崎県西臼杵郡三ヶ所村大字三ヶ所字高畑部落ニ在リタルヲ明治四十四年三月現在ノ岩井川村ニ移転シタルモノニシテ、今回売却許可申請ノ不動産ハ前宛三ヶ所村時代同地ニ在ル土地ヲ寺院有トシタル関係上現在ノ寺院ヨリ十数里ヲ隔テ交通最モ不便管理上支障甚シキニ依リ是を従前ノ縁故上元檀徒ニ特売シ以テ現在ノ付近適当ナル宮崎県西臼杵郡岩井川村大字岩井川字大楠三千四百六十番地宅地九十八坪同県同郡同村大字同字外造平五千百八十七番弐拾 焼畑四反五畝歩但シ既成植林地価金参百円ニテ購入シ基本財産トシテ管理致度次第ニ有之候、

昭和十七年の「真楽寺寺院規則制定ノ件」は現在も変わりなく続いている。
  「本寺院の恒例法要」
  一、四大節其ノ他国家ノ祝祭日ニ於ケル特修法要 当日
  二、聖忌法要 十二月二十五日
  三、報恩講法要 一月中三日間
  四、宗祖誕生会法要 五月二十一日
  五、春季彼岸会法要 三月中七日間
  六、秋季彼岸会法要 九月中七日間
  七、盆会法要 八月十五日
  八、永代経法要 三月中及九月中各一日間
  九、除夜会法要 十二月三十一日
  十、宗祖月次法要 毎月十五日及十六日
 その他、「本寺院ノ住職ハ世襲トシ三田井家ノ戸主又ハ戸主タルベキ者ニシテ男子タル教師管長ノ任命ヲ受ケヲ継職ス」のような記述も見られる。同意書には、昭和十七年三月十日 総代甲斐新一・姫野行蔵・佐藤潔の名がある。
【写真6-11 真楽寺の彼岸会法要 】

3、杉高寺
 鹿川集落には、寺が存在したとの記録がある。「日向国臼杵郡之内廃寺掴■」には、「日向国臼杵郡岡富村台雲寺末 同国同郡七折村 杉高寺」「境内 東西拾二間 南北九拾一間」との記録がある。廃寺になった後、檀家は昌龍寺に移され、現在に至っている。

4、尾払釈迦堂
 尾払釈迦如来堂は、宝永六年(一七〇九)諸塚村家代金鶏寺から、甲斐弥太衛門・甲斐甚左衛門・甲斐半四郎・矢野人兵衛の四氏が奉主として入仏された。祭事供養を行ったものと言われ、御尊体如来像は二体と弘法大師像一体の計三体が合祀されている。釈迦堂の建立は大工鍛冶屋共、遠く京都河原町から来訪、施工されたものである。入仏後は山附本戸三八戸により祭祀供養がなされ、言わば山附の一つの寺院としての信仰の場であったらしい。区内の死亡者の埋葬も全部ここ一ケ所で行われたそうで、明治時代にはそのための多くの墓碑も並列したそうである。その後墓地が狭くなったため土地整理が行われ、当時の墓碑は他に持ち去られ喪失したものと言われる。旧歴二月十五日と四月八日の釈迦の誕生日と命日に昔は盛大な祭祀供養が行われ、他町村からの参詣者で賑ったとのことである。ここでは以前、よく神楽を奉納したと言われる。当時の尾払は諸塚村との交通の要所、中継地点であり、盆、正月には七ツ山、中村、四狩内■、立岩方面の人達が日之影まで買い物に出る際、一休みしていたという。今は日之影上長川線の開通により車で一時問たらずで日之影から諸塚越しができる。(『ふるさとひのかげ』)

5、日蓮宗妙本寺布教所
高鍋町妙本寺の牧野日亮上人が日之影町内へ祈祷に来ていたところ、御神籤が降りて、近々火災があると言っていたら小学校が焼けた。地元の神官と僧侶が祈祷をしていたところ徳富・深角で火事が起こった。祈祷中に災害が起こったことで、御神籤で火災を予言した日亮上人に祈祷を頼むことになった。逆巻大明神(日亮上人は逆巻龍王権現様といった)による祟り(火災)を鎮めたことが縁で、昭和三十一年十二月十九日に、その弟子の宇都宮孝旬氏が東宮水に来ることになった。十二月二十日が宮水神社の例祭日であった。昭和三十二年、旧暦一月二十四日に、それまで途絶えていた愛宕地蔵の祭りを復活し、地蔵のお札を配るようになった。最初、尾村だけの祭りであったが、後に宮水地区全体の祭りになった。
 宇都宮孝旬氏(大正十三年生まれ)は、川南町の出身で、一八歳の時に妙本寺で修行を始める。山梨県美濃市の信行道場での修行を経て得度を得る。日之影町に移ってからは、葬式などはせず、祈祷だけで生活することを決めたという。当初は、生活も大変であったという。現在、名付け・屋敷祭り・屋敷清めなど各家を訪れて行う。原因不明の病気などは、家相や御神籤を得て判断する。個人的な祈祷から橋梁建設の祈祷など公的なものも行っている。
【写真6-12 一字一石供養塔の移設 宇都宮孝旬氏が供養を行う(小菅)】

6、真言宗無量寺
 一般に仲村観音堂と呼ばれているが、別称を「龍水山無量寺出張祈念所・龍王山観音院修験道々場」という。十一面観音・地蔵菩薩・薬師如来・不動明王・大師様を祀る。大分県大野郡緒方町の真言宗醍醐寺派に属する龍水山無量寺の住職により護摩焚きは執り行われる。牛馬守護の神として牛馬の出産や病気治癒に御利益があると参拝客が多かったが、戦後しばらくは参詣が途絶えていた。昭和五十五年頃、住職が仲村に家祈祷に来た日のこと、住職の夢枕に、風雨にさらされ倒れている観音様が立たれたという。そして十一面観音が倒れているのを発見した。そこで荒廃していた御堂の再建を申し出て、修復に当たった。以来、住職が交代したのちも毎年、護摩焚きの行事は続けられてきている。昔から本地区の信者の家を回り、家祈祷や地鎮際、新築や病人などへの祈祷を行ってきた。アワに虫がついたり、米の発育が不良の時は、作祈祷や風祈祷も行った。現在、二月の星供養には、厄祓や家族の申込みを受けた祈祷も行う。観音堂のお祭りは、旧三月十八日と九月十八日の春秋二回行う。
【写真6-13 仲村観音堂の護摩焚き(仲村)】
【写真6-14 無量寺のお札】

第二節 山の信仰

 日之影町は四方を山に囲まれ、山との共生によって生活が営まれてきた。山は豊富な自然を育みその崇高さから必然信仰の対象となってきたのである。修験者は、自らその山に登り、霊験を得ようとし、庶民はそびえ立つ山々を前に遙拝すると言ったかたちをとってきた。日之影町には、歴史的に大きな山岳修験の拠点となるような神社・仏閣は存在しなかった。むしろ、民間信仰に根ざした山への信仰の方が色濃く出ているように思える。
 日之影町の山岳を見てみる。祖母山・傾山(一六〇四・九m)・新百姓山(一二七二・五m)・夏木山(一三八六m)・五葉岳(一五六九・七m)・鹿納山(一五四五m)・日隠山(一五四四・二m)、これらはいずれも大崩山の連山である。このほか頭布岳■(一四八〇m)・洞岳(一二一八・二m)・釣鐘山(一三九五・九m)・丹助岳(八一六m)・高城山(九〇一m)・戸川岳(九五四・七m)・本谷山(一六四二・八m)・乙野山(一一〇〇・八m)・二つ岳(一二五七・五m)・猿岳(八六三m)などがある。
【図6-1 日之影町の山】※後送

一、丹助岳の信仰

 丹助岳は、八一六メートルと、それほど高い山ではないが、日之影町の中心部にほど近く、町民にとってはもっとも親しみのある風景であり、丹助岳にまつわる多くの伝説を生んできた。しかし、丹助岳の信仰にかかわる文献は少なく、あまり詳しいことは分かっていない。『日向地誌』には、「丹助嶽 本村ノ東ニ当リ矢筈嶽ノ西北ニ聳ユ高凡二百六十丈嶽頂東隅ニ奇岩ヲ戴キ満嶽樹木少ナシ多ク草茅ヲ生ズ」とある。丹助岳中腹の岩屋には猿田彦命・伊佐賀大明神が祭神で、中村を中心に上下顔と阿下の三集落で祀られている。
★丹助祭り
 丹助祭りは旧暦一月十四日で、お籠もりをし、日待ち信仰の一種である。六月十一日の天神様の夏祭り(入梅の頃)に天神様を通して丹助様に願立てをするので、丹助祭りでは願ほどきをするのである。昭和三十年代までは夜通しお通夜、おこもりをしていた。年毎に替わる世話役が行事を取り仕切る。午後三時頃から三、四時間かけて頂上まで登った。冬山の寒さをしのぐために木炭、薪、毛布を、カリボシ(刈った雑草)は洞窟内への風除けにするために持っていった。一晩中、タキモン(薪)を焚いていた。薪は集落でとりに行き、持って上がった。七、八時からすぐに飲み方が始まる。山頂には太夫さん(神官)は来ない。昔は山頂でホシャドンが神楽式三番を舞うこともあった。また、牛の刻になるとガーンという大きな音がするもので、丹助岳から戸川嶽に天狗が飛んでいく音だというものであった。十時頃に下山した。下山後はゴンモドシといって直会をした。昭和四十年に丹助岳が国定公園に指定されてからは昼に山に登り、御神酒あげをした後、その日の夕方に下山するようになった。
★丹助岳の伝説
 丹助岳には数多くの伝説が伝えられている。中山アサエさんは『ふるさとひのかげ』で、「その昔、戸川岳には藤密彷、丹助岳には丹祖坊、城の岳には早鷹中央坊という天狗がいて、色々と秘法秘術を伝授されていたそうです。丹助岳は戸川岳の東の門、城の岳は西の門と言われたそうです。」と伝えており、修行の場であったことが分かる。なかでも工藤嘉治平という人物については、様々な逸話が残されており、ここでは四つの話を『ふるさとひのかげ』から紹介する。

   秘術伝授の巻
 今から一六〇年ほど昔、この地日之影から高千穂にかけて三田井越前守親武公が治めていた江戸時代のことである。今の大字七折宮水の地に、工藤嘉治平という百姓がいた。二五歳の頃、志すところあって、色々な術を修得しようと丹助岳に籠もることにした。丹助岳には、どんな術をもこなすという天狗がおり、嘉治平はその天狗のもとで修行をつむことにした。修行は三週間にわたる厳しいもので、その間、口にするものといえば、炒り米二合一勺、つまり一日に一勺の炒り米とわずかばかりの湧き水であったという。
 そして厳しい修行もあと一日、明日はいよいよ天狗から秘術を伝授されるという日のことである。嘉治平にはカカ(妻)がいた。カカは嘉治平のことが心配のあまり、とうとうあと一日の辛抱ができずに丹助岳に登ってきた。その当時、丹助岳は見立の戸川岳とともに、霊験あらたかなる山として女人禁制になっていた。
 さて嘉治平、カカが登ってきたのを見届けるや「これで折角の苦労も水の泡だ。」と思い、かかの髪を引きずりぐうの音もあげさせず、山裾の中村集落の佐藤守一宅に投げ込んだ。そして丹助岳を後にして、北に聳える戸川岳へと向っていった。そこで今一度修行しなおす決心をしたのである。
 山奥深く分け入って山頂へと近づいた時のことであるヒョイと前を見ると、行手を遮って大蛇が横たわっているではないか。一瞬立ちすくんでしまうのだが、大蛇ごときに怯む嘉治平ではない。大蛇の上をエイッ!とばかりに一飛びに飛び越すと、一層勇んで頂上へと入って行く。ところがそれも束の間、何処ともなく立ち現れたのが、それは大きな入道で、ホラ貝を背にして嘉治平の前を悠々閑々と歩いてゆくのである。怪しみながら後について行く嘉治平だが、愈々山頂に登りつめた時、この大きな後姿の入道が、スウッと風と共に消え失せてしまった時には、流石に驚いた。そして、目の前の樫の大木の根本に一巻の巻物を見つけるばかりであった。夢見心地に辺りの様子を窺いながら巻物を手にした嘉治平は「これは有り難い」と押し戴いたのであった。するとどうであろう。天狗の秘術が自分でも使えるようになったという。はたして嘉冶平が手にした物は、秘術を納めた巻物であったのである。(甲斐将信『ふるさとひのかげ』)
   術競い合いの巻
 嘉治平ばかりが術を使えるかというとそうではなかった。嘉治平同様修行を積み、色々な術を使えるようになった修験者もいたようである。
 ある夕方のこと、シンシンと小雪の舞い出したまことに冷え冷えとした日のことであった。一人の男が嘉治平の家を訪れ、一夜の宿を乞うた。夜が更けるにつれてあまりに寒いので、囲炉裏の火は絶やさずにはおれないほどであった。木ばり■に山と積まれた薪も次第になくなってくる。ところが、なくなったかと思ってみてみると、いつの間にやら一抱えの薪が置いてあるのである。このことに気づいた嘉治平のカカが、夜中にそっと嘉治平に尋ねてみると、「夜が明けたら背戸■の薪を見るがよい。跡かたもなくなっているわい。」とそれはあっ気なく答えると、ダウグウと大きないぴきをかいて寝てしまった。
 夜が明けるのを待ってカカは、顔も洗らわず背戸へと行ってみた。はたしてそこには、薪は一本も見当らず、昨夜雪に飲まれたかのようであった。一方嘉治平は、何も知らない体で「昨夜は何のお構いもできずに済まぬことでしたな。この雪の中じゃ歩いて行くのも大変でしょう。よろしければこの馬に乗って行かれるがよい。」と馬を引き出して、申し出たのであった。すると男は「これは有り難い。それではお言葉に甘えて拝借致すとしょう」と一夜の礼を言って別れを告げると、ヒラリと馬の背に飛び乗り、「ハイドウ、ハイドウ」と掛け声も勇ましく雪道を走って行った。
 しばらくして、男ははっと我に帰った。そして自分の無様な格好に気づき、辺りを気色なく見まわしたのだった。なんと嘉治平の家の前から一歩も離れていなかったのである。それも庭の竹垣に股がっていい気になっているではないか。昨夜は、自らは動かずに薪を運ぶ術を使って嘉冶平を驚かしたつもりのこの男は、まんまと嘉治平に一杯くわされていたのである。男は、昨夜の無礼を心から詑びると、何処ともなく立ち去ったという。                                  (甲斐将信『ふるさとひのかげ』)
   道場破りの巻
 嘉治平、今日は用事ができて延岡まで出かけることになった。用事を早々と片付けて、城山の下をこれといったあてもなくプラブラと歩いていた。すると、「エイッヤッ」と勇ましい掛け声が聞こえてきたではないか。みると近くに内藤藩の道場があり、そこから流れてくるものであった。これはおもしろいと、ひょいと塀に飛び乗り、窓越しに稽古を眺めていた。しばらくすると、道場の門弟の一人に嘉治平は見つけられてしまったのだ。そして、無礼な奴だと数人がかりで、場内へと引きずり込まれたのである。
 「無礼打ちに致すところだが、窓越しに覗く程の者。多少なり腕に覚えがあろう。されば門弟と試合をせよ。さすれば命だけは助けてやる。」
 嘉治平のただならめ気配を感じたのであろうか、道場の指南番と思しき武士が言った。門弟との試合は、嘉治平の所望するところなれば、断る道理もなく、早速、試合が始められた。
 悠長に構え、試合の成り行きを見つめていた指南番であったが、次第に落ち着きもなくなり、手に汗してきた。門弟が次から次へと打負かされ、愈々指南番まであと一人というところまできたからである。嘉治平は「こいつを負かしたら自分は殺される。」とそう思っていた。嘉治平は、この相手をあっという間に打ち負かすが早いか。道場の窓から飛び出したのであった。後飛びに塀に飛び上ったと同時に、くり出す槍を体をひねってかわし、増むが早いか引き寄せては、抜く手も見せずに腰につけてる脇差しで、手元から切って落とすと、その槍をかついで、日之影へと向ったのである。
 さあ、道場では上へ下への大騒ぎ。「あやつをむざむざ帰したのでは、道場の面目が丸つぶれだ」と、多勢の追手をかけたのであった。やっとのことで曽木の手前辺りで追いつき、勢いに任せて飛びかかろうとした時である。嘉治平はさっと振り返り、槍の穂先を天に向けて突き立てるや、穂先にヒョイと飛び上り、あぐらをかいて腰のキセルを取り出して、ぶかぶかと吹かし始めたのである。これを見た追手たちは、ただおろおろするばかりで、手の出しようがなかった。しまいには恐しくなって、延岡へと引きあげて行ったという。それからというものは、高千穂侍には手を出すなと、恐れられたということである。(甲斐将信『ふるさとひのかげ』)
   術きかなくなるの巻
 寒い冬の時期に、畑を「荒起こし」といって深く掘り起し、それを畑の上の方から鍬で引き上げて整地し、それに麻を蒔く。その整地した畑に、一反歩につき三〇束程、肥束を作る。その束に、最初一かつぎの下肥(人糞)を四束にふりかけ、その土を寄せて堆把と混ぜ、麻種を蒔き付ける。その地ぞめが済んで土を寄せ、束がきれいにできあがり細かく作った堆肥を出す準備をしていると、天が俄かに曇り出し、今にも夕立が来そうになった。堆肥舎より畑は三〇〇メートル程の所であるが、嘉治平は麦わらを小束にして、畑めがけて投げた。麦わらはヒュルヒュルと飛んでいき、その下肥を集めた地ぞめの束に次々とかぶさり、真に見事なものであった。
 ところが、それからというもの何一つ術が効かなくなったとのことである。大事な天狗の秘術も不浄なものに使ったので、消されたのであろう。今も工藤家では、年に一回(六月)、巻物を虫干しをしてお祭りしているという。もちろん女は近づけないことはお分りかと思う。これで嘉治平、丹助岳の巻おしまい。トモシカッチリ。   (甲斐将信『ふるさとひのかげ』)

二、戸川嶽の信仰

 戸川嶽は、標高九五四・五メートルで、東側に戸川集落、南西側に中尾集落、北西には徳富集落がある。普はそれぞれの地区有地であったが、明治の地検の際、三地区とも余分の税金がかかるというので、その権利を放棄してしまい、自動的に国有林となった。その国有林は、総面積が六三・一四ヘクタールあり、熊本営林局が学術研究林として、永久に伐採しないという方針の元に管理していた。断崖絶壁に自生するユズ・シソパク・白樫・欅を、貴重な植物として保護するためだったという。昭和三十六年二月払い下げを受け、現在は町有地である。
 戸川嶽は、山自体が信仰の対象となり、女人禁制が守られ、修験者の霊場として崇められたと考えられる。戸川集落の上方約八百メートルの絶壁の洞穴には五百羅漢が祀られている。木製の鳥居、鉄の鉾、銅製の鰐ロなどが残されている。今では、鐘乳石、石筍などとともに傷んでいるが、さらに奥にある直径五〇センチ位の水溜まりは水が涸れることはないという。その水を硯の水として使えば字が上手くなるとの話もあったという。
 羅漢とは、正式には阿羅漢と称し、「仏教の修行の最高段階、また、その段階に達した人。もとは仏の尊称にも用いたが、後世は主として小乗の聖者のみを指す。」という意味があり、後世、「十三羅漢」「五百羅漢」として禅宗において信仰された。
 舟の尾集落の津隈秀男さん宅の古文書には、「雲峯山昌龍寺水号法憧寺ニ相成ル事ハ、享保三年参月本山十世古童和尚ナリ、遷化ハ元禄五年三月五日ナリ、成願寺に石碑アリ、川内戸川嶽ノ五百羅漢与各附玉ラモ、寛永ノ頃中興開山心甫和尚ナリ」■とあり、昌龍寺の僧侶が五百羅漢を祀りはじめたことが分かる。舟の尾の昌龍寺は「享保三年ニ小本山台雲寺五世霊峰圓鎖和尚ヲ諸シテ開山トシ法幢地トナルナリ(県古公文書)」とあり、享保三年の開山である。洞穴に残された、直径二七センチの鰐口には「享保二十乙卯年正月吉日」「日州日向国高千尾五百羅漢堂」との銘があり、昌龍寺の開山とほぼ同時期に五百羅漢が祀られたことになる。五百羅漢として祀られるきっかけになったと考えられるのは、『高千穂神社仏閣記』に「一、十六羅漢 戸川門 是ハ戸川嶽ニアリ、山トノ洞穴ニウエシタヨリ角ノ如クナル石十六アリ、依テ十六羅漢ト云」とあり、洞穴内の石筍が十六羅漢に見立てられ、それを同義語の五百羅漢と称したと考えられる。
 『ふるさとひのかげ』によると、津隈家では、毎年旧正月十六日にはお祭りをしている。また大菅集落の緒方盛男氏宅には、戸川嶽様の巻物が所蔵され、旧正月十六日に欠かさずお祭りをしている。同集落の池田貞義さん宅にはその巻物の写しがあるという。新畑の矢通光治氏宅にも嶽様の巻物があり、棒術の秘伝が納められているという。
【写真6-15 五百羅漢様の掛軸 坂本博さん宅に保管されている(戸川)】
 また、戸川の坂本博さん宅はホリエと呼ばれ、五百羅漢の掛軸が保管してある。その掛軸には、「武城本所天恩山羅漢禅寺」「元禄六年冬」とあり、五百羅漢図が描かれている。毎年旧正月十六日を例祭日として欠かさず供養を営んでおられ、昔は戸川をはじめ、徳富、鹿川方面からも参拝があった。地元としては、昭和三十三年頃、舟の尾昌龍寺の当時の住職大城和尚をお迎えして羅漢供養が営まれたのが最後で、その後途絶えてしまった。
 その頃までは、毎年欠かさず現地までお詣りに行ったという。祭り当日ともなると、今の戸川公民館の傍を起点として七折用水路に至り、それより上は千古不伐のうっそうと繁る大木の連る山道を、途中「針の耳洞」と称する、大人でも子供でも穴一杯あると言われた洞穴を通り、やがて峠に達する。ここには、飯干オサン婆さんが若い日に挿し付けたという亭亭としてそびえる杉の大木が五、六本あったという。それから約一〇〇メートル、急坂を下りて洞穴に達する。そこではその年の五穀豊穣、家内安全を祈願し、若者達は「お籠り」と称して一夜を飲み明かした。また、ホリエの坂本さん宅に下りて直会を設けたりもしていた。
 洞穴には前述の鰐口の他、無銘の鰐口五個、鉄製鈴一個(「願主 戸川村 阪本寅太郎」「明治二十三年」)があり、鳥居は朽ちている。また、残された角柱棒(約一六〇センチ)には、参詣の記念に書き記した「西臼杵郡七折 昭和二十四年二月十三日記念」や「昭和三十三年旧十六日参り 平清水谷川一幸」「三十四年波瀬甲斐正義」「岩本定義■ 昭和五十五年旧正月十六日日之影町戸川」などの文字が見られる。
【写真6-16 五百羅漢様 現在では坂本博さんが旧1月16日に参るだけである(戸川)】
 古来、地元においては「嶽様」「羅漢様」と称し、尊崇の念厚く、その区域では蔓一本切らず、毎年旧八月の戌の日を期して、徳富境の「され越峠」、中尾境は「一つ嶽」までの山道の草切りを双方より出会いて実施し、又、嶽に火災の発生した時の為の通路を同じ日に刈り払いを実施したものである。この戸川嶽においては、信仰的な行に精進した人もあった様で、宮水の工藤梶兵衛という人が、丹助岳と戸川嶽にこもり、剣の修行をしたという。そして無類の達人になられ、数々の剣にまつわる逸話も残っている。(『ふるさとひのかげ』)

  天狗さんの話
 その昔、戸川岳には藤密彷、丹助岳には丹祖坊、城の岳には早鷹中央坊という天狗がいて、色々と秘法秘術を伝授されていたそうです。丹助岳は戸川岳の東の門、城の岳は西の門と言われたそうです。術を習おうとする人は身を清め、二一日間修行するのですが、その間の食糧を少し持って山にこもり、一日に手の平の底に入る位ずつ食ペては木刀を振り振り腕を磨くのだそうです。真夜中、草木も眠る丑三つ時になると肝だめしに色々な怪物が現われるのだそうです。目が顔の真ん中にある一つ目小僧が出たり、大きな種牛が襲いかかったりするそうです。そして、その度に恐れたりすると見放されるので、我慢していると白ひげの仙人が現われ、秘法秘術を伝授したそうです。
 深角に太郎衛門という人がいましたが、戸川岳で修行した人だったそうです。法力の強い人で、あらゆることに使われていたとか聞きます。
 刈千切りに若者と一緒に登った時のことです。上の方で若者達が何やら悪口を言ってるのを耳にした太郎衛門は、「お前達、悪口を言うと下から石をこかすぞ」と言うと「上の方に石が転げてたまるものか」と馬鹿にしたので、術をかけて転がすと、ぴっくりして腰を抜かしたという話です。
 嫁さんは、戸川の白石からもらっておられたとか。ある時、些細なことでケンカをし、嫁さんは夜中に里へ帰ると言い出し、家を飛び出したのです。深角と一の水の境の椛ん戸峠を下り、長谷川に出てとうとう中尾谷を登り、八幡山を通り越し、戸川岳と一つ岳の間の小道を今しも越さんとする時でした。見え隠れに後をつけていた太郎衛門は、「ここを越え家に帰りでもしたら事が面倒になる。」と思い術をかけて大きな山伏に襲いかからせました。嫁さんは「ギャーツ」と死声をあげるや、背後から呼ぶ太郎衛門の「オーイ」という声を聞くなり、振り向きざま死に物狂いで抱きついていきました。そしてそのまま、深角に帰ったということです。それからというもの、もう帰ると言いだすこともなく仲睦まじく暮らしたことは言うまでもありません。
 昔は、麻を蒔くのに、種がよく生る様にと染塚(肥え塚)というのをしてあるのですが、ある時、にわかに雨が降り出し一つ一つにおおいをするのに時間がないので、この時とばかりに法術にて沢山の染め塚に一度にかけられたところ不浄に用いたというので、それっきり術が動かなくなったという話です。              (中山アサエ『ふるさとひのかげ』)

三、黒尊様の信仰

★黒尊様
 黒尊様は、鹿川集落黒仁田の日隠山(約九〇〇メートル)の東山麓から約二キロメートル登ったところにある、断崖に屹立した巨岩であり、鹿川神社の御神体でもある。明治四年、鹿川神社に合祀される前は黒仁田に黒尊神社が祀られていた。祭日の一月十六日は、一般には山の神の祭礼日であり、「作神様」とも呼ばれることから焼畑との深いつながりがうかがわれる。
【写真6-17 黒尊様 眼下にそびえ立つ巨岩が黒尊様の御神体である(鹿川)】
★文献に見られる黒尊様
 黒尊様に関する初見は、元禄四年(一六九一)の『高千穂神社仏閣簿』である。「黒尊山(八十九社内の内)」として「但、御神躰石高サ三十尋餘、廻リ十三尋、尤戊亥の方面にて御座候、村より一里余奥山に御座候、
」とある。高千穂八十九社とは、普通八十八社というが、高千穂郷内の主要神社のことである。その一つに数えられているということは当時から尊崇を得ていたことが分かる。
 次に加来飛霞が記した『高千穂採薬記』の弘化二年(一八四五)四月二十五日の記録は次の通りである

  是ヨリ七里、山中ニ黒尊石(クロソンセキ)或黒尊仏トテ自然ノ石ニテ、仏ノ立タル如キアリトテ、衆人ノ知ル所也。然モ至ラズシテ止ミヌ。後之ヲ水城大可ニ、黒尊石ヲ問ヒシニ、拘留孫ナルベシト云。因テ此ニ記シテ後考ニ備フ。

 後に述べるが、加来飛霞は黒尊をクロソンと記しているが、黒尊仏とも記し、黒尊の語源を拘留孫仏に求めている。続いて『日向地誌』には「黒尊(クロソン)石」として次のようにある。

  東野州聞書五ノ巻ニ云フ國ノ柱トハ鹿島ノ要石又ハ日向國健盤龍王ノ建ラレタル黒尊物(ママ)ナリト事快誕ニ属スト雖モ姑ク存録シテ徴古ノ一端ニ備フ東下野守ハ應仁ノ頃ノ人ナリ

 日向国の「健盤龍王ノ建ラレタル黒尊物」が鹿川のものかは不明であろう。なぜなら、えびの市にも拘留孫嶽があるからである。

★拘留孫信仰
 黒尊様のクルソンに通じる拘留孫という名称は、えびの市だけでなく、山口県豊浦郡にも見られ、クルソンと称する山、あるいは巨岩が存在する。なかでもえびの市の拘留孫岩は鹿川の岩と酷似しており、その伝承にも共通性がうかがわれる。ここでは福永勝美著『飯野郷土史 仏教編』(昭和三十年)をもとに拘留孫の語源について述べる。
 えびの市の拘留孫岩は、拘留孫山瑞山寺と称し、『瑞山寺縁起』には次のような伝説がある。

  昔昔そのまた昔、飯野の北方の山奥、球磨郡との境にケンバン(健盤)、シャカラ(娑竭羅)という二匹の竜王が住んでいた。ある日のこと、ケンバン竜王はクルソン(拘留孫)仏にお願いして、石の卒塔婆を建て、それに『大般若経』を書きつけた。それを見たシャカラ竜王も負けずに、観世音にお願いして石の卒塔婆を建て、それに『法華経』を書きつけた。
シャカラ竜王とは八代龍王の親分株で、仏法の守護者とされ、ケンバン竜王は健盤龍命で、「阿蘇神社縁起」には、神武天皇の孫で、阿蘇山の守護神とされているようである。また、クルソンとは、梵語クラクチャンダ、過去七仏、釈尊及びそれ以前に現れた六人の仏の一人とされ、身長が二五由旬(一由旬とは帝王の一日に歩く距離)あったという。えびの市の拘留孫と山口県豊浦郡の拘留孫にはいくつかの共通性がある。ともに拘留孫といい、シャカラ竜王が建てた観音石の残骸があり、栄西禅師の創建を伝える。

 臨済宗の開祖、栄西禅師が中国から帰国したのは建久二年(一一九一)であり、「日本に帰ったら飯野の拘留孫岩にお詣りせよ」と観音様のお告げがあったという。その後、拘留孫は久しく荒廃していたが、一五世紀に尊海上人が再興し真言宗に改め、「拘留孫仏熊野三所権現」と称されている。
 鹿川の黒尊様に関して、拘留孫仏と直接関連づける確証はないが、拘留孫信仰の延長上に有るものと考えられる。

★裸足・裸参り
 家内に病人が出たとか、農作物が病害虫に犯されたとき、一日も早く全快するよう、また病害虫から作物を守っていただけるよう、村中で裸参りをしたという。フンドシ一丁にシャツ一枚、腰には注連縄に御幣をはさんで、旗一二本(閏年は一三本)を片手に持ち、村中の若者がヤーヤーと大声を上げながら黒尊様までかけ登っていく姿は勇壮であったという。神社参拝・神楽奉納を済ませると、御神酒あげがあった。以前は、集落の者は松岡家に、他村の参拝者は堀口・西村・坂本家に集まって大変賑わったという。昭和十年頃までは、参拝客も多く、延岡辺りからも来て、三、四軒の出店まで出ていたという。

★現在の黒尊祭り
 現在の祭りは次のように行われる。祭礼日(一月十六日)の二、三日前から神社までの道切りをし、子どもたちでも参拝しやすいように山道を整備する。道筋の木の枝に白紙を結びつけて目印にし、間隔をおいて一二本の旗を立てた。夜明け前に集まって黒尊様が祀られている場所まで一時間以上をかけて登る。
 眼前にそびえ立つ黒尊様の巨岩の中程には、幅一メートルぐらいの段差があり、「膝の上」と呼んでいる。その場所に対峙するかたちで、断崖に道が造られ、祭場が設けられている。代官と呼ばれる神役が祝詞をあげ、参拝をすませると、一同は米・アワ・小豆・お賽銭などを白紙にやわらかく包んだものを「膝の上」に向かって投げ込む。段に乗ると縁起がよいとされる。その後、御神酒あげをし、語らいながらしばしの時を過ごす。
【写真6-18 黒尊祭りの登山 御幣を担ぎ、道々に印を付けていく(鹿川)】
【写真6-19 黒尊様祭り 参拝の後は御神酒あげをする(鹿川)】

第三節 村里の信仰

一、弘法大師信仰

 旧暦三月二十一日に、茶屋、茶堂、大師堂などと呼ばれる祠堂で、接待をする習俗は町内全域で見られる。近世期から現代にかけて、多くの八十八ケ所霊場巡りが町内に再現されてきた。なかでも高千穂新四国八十八ケ所霊場は、高千穂町、日之影町にわたり信仰されている。また、川内地区(大菅・楠原など)での接待は盛んである。このほか、観音堂・薬師堂・地蔵堂など、お堂は信仰の場であり、情報交換の場でもあった。

1、茶屋とお接待

★茶屋の機能
古代から大いなる貴い神の訪れを期待し、これを厚くもてなすことにより、外者歓待の態度をもって接して、自分たちの生活の幸せをつかもうとする心が人々にあった。みすぼらしい旅僧を歓待することで幸せがもたらされたという伝説が生まれ、真言宗の普及とともに弘法大師が当てられたという(『日本民俗事典』)。このような思想に基づき、外来者を歓待する場が茶屋であった。現在では、人々が集う場という機能が主体になっている。
【写真6-20 新四国八十八ヶ所の茶屋(大人■)】
【写真6-21 四国八十八ヶ所の茶屋(高巣野)】

 昔はどこに行っても茶堂はありました。そして子供の遊び場となり雨の日などは、大人のカルイやゾウリを作る場所でもありました。茶屋には囲炉裏が切ってあり、火が焚けました。昔は「くわんじん」と言って生活に困った人、病気で願をかけた人等、不幸な人達が茶堂に一夜の宿を借り、明ければ次の村に旅立ちました。この人達は家の前でお経などよんで物をもらいました。村の人達も、あまり嫌な顔もせず、普通小さな皿一杯の米を恵んでいた様です。子供の頃は、人が珍しいのでいつまでも立って見て居りました。又、村の社交場でもあり大師様の命日にはよく御通夜がありまして、私の家は茶堂の近くで夜遅くまで笑い声がして居りました。夏の土用には茶屋番といって、村の家まわしに茶を沸かし漬け物など添えて茶屋に置き道行く人が休んで疲れをいやす様にしてありました。茶堂も時には、倉庫と早変わりして米や麦の束がいっぱいつまる事もありました。各村々に必ずあった茶屋も今は少なくなりました。しかし、昔から祭られて居る神様・仏様は村のどこかに祭られて村を護って居られる事と思います。(上小原・馬崎祝一『ふるさとひのかげ』)

【図6-2 茶屋の所在】
★弘法大師の思い出
 三月二十一日がお大師さんのお接待の日である。また、旧暦七月の一か月間を茶屋番と称して道行く人々にお茶を振る舞う行事を行う集落もあった。大師信仰の本拠地は、四国八十八ケ所であるが、東西臼杵郡の人々にとって大師信仰の中心は延岡市の今山大師であり、地元集落に勧請された各地の八十八ケ所である。三月二十一日は、各地でお大師さんのお接待が行われ、また今山大師への参拝も行われた。民間信仰の中でも最も人々に近しい神仏であるが、お大師さんの思い出話をここで紹介する。

 私のじいさんの父、つまり曽祖父の時代、文久の初期に、村に弘法大師の信仰者が参り、一家に一体弘法大師様の石像を作ってお祭りしろと言って廻ったそうです。そしてその時に、舟の尾に三十体ばかりの石像が作られお祭りしていたそうです。その後、弘法大師をよく思わない反宗教者が来て、石像の頭を、見つけ次第次から次に叩き落とし、現在舟の尾に二十体ばかり残っていますが、頭のついているのは三体ぐらいしかありません。私の家の石像には頭もあります。そういう話を聞いた曽祖父が持ち帰り、隠していたとのことです。
 盆、正月、三月二十一日の大師様の祭日には花柴をあげています。私が小学校四年生の頃までは、大師様の祭日三月二十一日には、母達が赤飯を持ち寄り、藤江監物様のお堂で参拝者には接待をしていました。学校帰りには、立ち寄って赤飯を食べるのが楽しみでした。参拝者はおさい銭を、多い人で五銭、少ない人で二銭位あげていっていました。
 家のじいさんは、大師様を信仰していたので、延岡の大師祭には三十三年間一度も欠かさず連続お参りしました。それも全部歩いて往復したのです。その頃は自動車も一日に四、五台位しか通っていなかったようです。私も十五才の頃、じいさんと歩いて行きましたが、延岡の町を見るのも、また海や汽車を見るのも初めてで、今でもその時の印象が忘れられません。このことを今の子供に話しても本当にしません。時代の変った今日、昔話です。(津隈金松『ふるさとひのかげ』)

【写真6-22 お大師さんのお接待 茶屋を持たない集落でも3月21日には道行く人々にお茶などの接待をする。(新日之影)】

2、川内新四国八十八ケ所霊場
 日之影町の川内という地域には、多くの集落にわたって、新四国八十八ヶ所霊場が構成されている。「川内」というのは、日之影川流域、東西集落の西側、平清水・小菅・萱野・椛の崎・境の谷・白石・戸川、東側の松の内・新畑・奥・大菅・楠原・竹の原の集落で、西側平清水から戸川までが一組、松の内・新畑・奥が二組、大菅・楠原・竹の原が三組となっていた。以下『ふるさとひのかげ』から紹介する。
 大菅集落の地蔵堂の庭の瑞に、柱状「たき」石の面に、「奉請遷南無大師遍照金剛塔」「維時文久三癸亥天集次星宿○春」「正月二十四供養」、右の面に「右者、八十八ケ所、川内中逢立出来如格、石塔柏立並者也」、左の面に「当村中」とある。
・平清水の地蔵堂  第一番から第十二番
・小菅の茶屋    第十三番から第二十四番
・戸川の茶屋    第二十五番から第三十九番
・松の内の茶屋   第四十番から第四十五番
・新畑道路脇    第四十六番から第五十三番
・奥の地蔵堂    第五十四番から第五十九番
・大菅の地蔵堂   第六十番から第九十番
川内新四国八十八箇所は、奥の院二仏付で九拾番まである。
 現在、各戸の人が祭日にお参りを怠らないようである。祭日にまつわる様式は旧三月二十一日と旧八月二十一日の年二回の大師様祭が行われて、自主的に接待米を頭取「村世話人」のところに約二合位を持って行く、これで「オコワ」をたいて地蔵様、お大師様におそなえして、御洒は村内負担でふるまわれる。
 昔は「川内参り」といい、まず自分の村のお大師様を拝んでから、次の村へと川内中を廻り、各自の村でうちあげ祭りをしてこの一日を楽しんでいた。
 夏には、茶屋番といって、大菅では、旧七月一日から八月一日迄、茶屋で二軒一組で、午前中、お大師様にお茶をお供えして、タクアン漬などを持ち寄り、暑い中を道行く人に、ご自由にお召あがり下さいと、昔は一日中お茶をわかしていた。イロリを作り、自在鍵も掛っていたが、今日では頭取から始まって自分の受持の日に廻って来た日に、お茶だけを供えて帰るだけ、それも信仰者だけで忘れがちである。
 八月一日は、山神様祭りで、一ノ瀬というところに、お祀りしてある石塔前で酒宴があり、「茶屋あげ」といって、夏中の茶屋番のうちあげで山神祭りと茶屋番を、この日で終える。この祭りは、現在も必ず行われている。この行事は、楠原では六月十五日から八月十五日まで二ケ月間行われている。

3、高千穂新四国八十八ケ所

 設立願主佐藤勝毅による『日向高千穂四国八拾八ケ所本尊配置世話人名簿』(昭和三十四年四月七日調整)という資料がある。それには「高千穂四国八十八ケ所設立発願趣意書」として、その趣旨が述べられている。

 「昭和二十一年六月十日、シンガポール港に於て、米軍より借用のリバテー形復員船に乗船、一路祖国に向って航海満十日間、和歌山県田辺港入港。先ず驚くは変り果たる祖国の民情たり、神仏を呪い皇室を呪い又軍部を呪う声港間に満ち、多くの人皆我事のみを思いて他を顧みる者なく、古へより我国の美風とする敬神崇祖の念、一時全く廃れたるかの観有り、自らの不徳を省る心なく、戦い敗れて恰も神仏なきが如く誤解し、人間生活の支柱たる可正しき信仰を忘れ、唯瞬間的快楽を求めて苦界に迷ふ世の人の有様を観る、正しき信仰は戦いの勝敗に左右さるべきものに非ず。正法を知らざる者の哀れさよ悲しみても尚余り有り。即ち弘法大師は「それ仏法遙に非ず、心中にして即ち近し、真如外に非ず、身を棄てて何んか求めん、迷悟我に在れば発心すれば即ち至る明暗他に非ざれば信修すれば忽ちに證す」と仰せられたり。ここに於て自ら墓碑石工職の技術を利用し、祖国精神文化の再建に微力を尽くさんと発心す。即ち弘法大師開き給うと伝えらるかの有名なる四国八十八ヶ所の霊場になぞらえて、西臼杵地区に新四国霊場を開き、粗衣・一笠・金剛杖に身を委せ、各札所を巡拝しつつ、相互礼拝(お互いに人格を尊重し合う)・相互供養(お互いに助け合う)、仏教精神を実地に体験して、是を日々の生活に活用し心の糧として各々職務に精進する。特には必ず住みよき平和な社会の実現する事を堅く信じて疑わず、そもそも四国巡拝の功徳は、大師在世の仰せには「一度巡拝する者は無始の罪障消滅し末来し待たず此の世から極楽界会に入るなり」と仰せらると聞く、即ち昭和二十三年八月諸仏菩薩に願かけて、八十八体仏の石像彫刻を起す。もとより石像彫刻の経験なき為め唯一心に諸仏菩薩の御加護を念じつつ、一家の生計維持の旁、昭和二十九年十月満六年有余の歳月を要して八十八体の石仏彫刻を完成す。作品到って稚拙なれども諺にイワシの頭を信心からと言う事有り、要は詣ずる人の一心次第、おかげを得るも得ざるも御仏を信ずるか信ぜぬかに依ると思はる故に始めに仏菩薩との誓いを果さんが為に御縁有る各地に施主を求めて完成石仏を無料配布し仮称高千穂四国八十八ヶ所なる霊場を設立し、広く仏道修行者の為に短時日を以て本四国巡拝修行に替る便宜を与えんとす。是れ新四国設立発願の趣旨なり。希くば右趣旨に御賛同下され悲願達成に御協力賜わらんことを。
昭和二十九年十二月十七日     願主佐藤勝毅 敬白
各位殿」

【写真6-23 赤川大師の像 高千穂新四国八十八ケ所根本霊場には、約3.3メートルの大師像がある(赤川)】
 こうした経緯を経て、昭和三十年四月一日正午より開眼供養が行われた。場所は岩戸村赤川下で、大導師として高野山金剛講日向地番■本部総の高木照幹僧正(延岡市山下町丸山高野山貫照寺貫主)が参加した。
配置場所と本尊名は次の通りである。

【表6-1 高千穂新四国八十八ケ所の配置場所】※一頁内に納めて下さい。

番四国寺名本尊名配置場所
1霊山寺釈迦如来日之影町東日ノ影
2極楽寺弥陀如来    平清水
3金泉寺釈迦如来    大渕
4大日寺大日如来    白石
5地蔵寺地蔵菩薩 戸川
6安楽寺薬師如来 白仁田
7千楽寺■弥陀如来 戸ノ口
8熊谷寺千手観音 横藪
9法輪寺釈迦如来    下鶴
10切幡寺千手観音 川中
11藤井寺薬師如来 赤川下
12焼山寺■虚空蔵菩薩 赤川
13大日寺十一面観音岩戸村 上野ノ原
14常楽寺弥勒菩薩 煤市吐
15国分寺薬師如来 煤市
16観音寺千手観音 川ノ詰
17妙照寺薬師如来 説教所
18恩山寺薬師如来 上川町
19立江寺地蔵菩薩 中ノ詰
20鶴林寺地蔵菩薩 発電所
21大龍寺虚空蔵菩薩 水無
22平等寺薬師如来 奥村
23薬王寺薬師如来 黒谷
24最御崎寺虚空蔵菩薩 仲村
25津照寺地蔵菩薩 飯干
26金剛頂寺薬師如来 高橋
27神峯寺十一面観音 諸和久
28大日寺大日如来日之影町松ノ内
29国分寺千手観音 新畑
30善楽寺弥陀如来 吐ノ内
31竹林寺文殊菩薩 大菅
32禅師峯寺十一面観音 楠原
33雪蹊寺薬師如来 楠原
34種間寺薬師如来 楠原下
35清滝寺薬師如来 竹ノ原
36青龍寺波切不動 竹ノ瀬
37岩本寺弥陀如来 上顔
38金剛福寺千手観音 昌龍寺
39 延光寺薬師如来 八戸
40観自在寺薬師如来 吾味
41龍光寺十一面観音 糸平
42佛木寺大日如来 小原
43明石寺十一面観音 真楽寺
44大寶寺十一面観音 古園
45岩屋寺不動明王 上小原
46浄瑠璃寺薬師如来高千穂町石原
47八坂寺弥陀如来 丸小野
48西林寺十一面観音 教願寺 (祖屋谷)
49浄土寺釈迦如来 興禅寺
50繁多寺薬師如来 宮尾野
51石手寺薬師如来 浅ケ部
52太山寺十一面観音 尾谷
53圓明寺弥陀如来 大野原
54延命寺不動明王岩戸村 神楽尾
55南光坊大通智勝菩薩 才田
56泰山寺地蔵菩薩 秋元
57栄福寺弥陀如来 西ノ内
58仙遊寺千手観音 登尾
59國分寺薬師如来 野々尾
60横峯寺大日如来 今藤
61香園寺大日如来 富ノ尾
62寶壽寺十一面観音 栃ノ木
63吉祥寺毘沙門天王 黒春
64前神寺弥陀如来 下永ノ内
65三角寺十一面観音 泉福寺
66雲辺寺千手観音 五ケ村
67大興寺薬師如来 日差尾
68神恵寺弥陀如来 上永ノ内
69観音寺聖観音 馬背野
70本山寺馬頭観音 立石
71彌谷寺千手観音 尾ノ上
72曼荼羅寺大日如来 大平
73出釈迦寺釈迦如来日之影町椎谷
74甲山寺薬師如来 高巣野
75善通寺薬師如来 西深角
76金倉寺薬師如来 東深角
77道隆寺薬師如来 平底
78郷照寺弥陀如来 一ノ水
79高照寺十一面観音 一ノ水
80國分寺千手観音 徳富
81白峯寺千手観音 長谷川
82根香寺千手観音 影町
83一ノ宮聖観音 中尾
84屋島寺千手観音 波瀬
85八栗寺聖観音 大平
86志度寺十一面観音 中宮水
87長尾寺聖観音 東宮水
88大窪寺薬師如来 西日ノ影

二、庚申信仰と二十三夜信仰

★庚申信仰
 庚申信仰は干支の庚申に当たる日に行われる信仰行事である。中国の道教で、人間の体内にいる三尸が人間の早死を望んで、庚申の日の夜に人が寝ると体内から抜け出して天帝にその人の罪過を告げ、その結果天帝は人を早死させるから庚申の夜には身を慎んで徹夜をするように説かれた。三尸の説は日本に伝わり、奈良時代の末から宮廷中心に広がり、室町時代には僧侶によって『庚申縁起』が作られてから仏教的になり、江戸時代には修験道や神道でも独自の庚申信仰を説きだしたので全国的に盛んになった。神道では猿田彦大神を、仏教では青面金剛を本尊とする場合が多い。(『日本民俗事典』)
 十干と十二支を組み合わせた庚申(かのえさる)の日に庚申講を行い、この祭りを一八回したときに自然石を建立し、三三回目の時に刻字の像を建てたという。
【写真6-24 様々な庚申塔 自然石や板碑の庚申塔が集められている(波瀬)】

★庚申講
 庚申講は、三夜講(二十三夜様)とともに盛んで、二ヶ月に一回やってくる庚申の日に行われる。庚申講は庚申祭りとも称される。庚申講の際には、集落内の人々がお堂や持ち回りの家に集まり、庚申様の掛け軸(三夜様の掛け軸もある)を掛け、お参りをして、御神酒あげをして酒盛りとなる。庚申様の掛け軸には青面金剛の絵が描かれている。大楠では、昔、庚申ダゴを作って、庚申様に供えたといい、供えてある団子は子どもたちがとって食べたものだったという。上下顔では、かつて庚申講があり、庚申の日は、順番で決められた家に集まり青面金剛の掛け軸を祀り米の粉で作った団子などを供え、酒食を共に深夜まで団らんし、講員の親睦を深めた。近年は旧農家一五戸で年六回の庚申の日に輪番で決められた家で、行っている。
 糸平でも庚申の日には庚申講を行っている。昭和四十年代に一時途絶えたが、昭和五十五年に再開した。以前は全戸が参加していたが、現在は一六戸になった。夕方、座元に集まり、「庚申様の掛絵図(青面金剛)」の前で礼拝をしすぐに宴会が始まる。当番の家では、庚申の日、カケグリに御神酒を入れ、代表して庚申様にお詣りする。以前は集落全戸の数のカケグリを作り供えていたが、現在は一組だけであるという。宴の途中で舟形の紙箱に入れたくじを、まだ当番(座元)の経験のない世帯だけがひき、次回の当番を決める。当番の人から「日まわり(左回り)」に御神酒をいただく。酒の肴は当番の家で準備する。以前は庚申様の経を読んでいたという。
【写真6-25 庚申様の掛け軸(鹿川、菅真一郎氏撮影)】
【写真6-26 カケグリを供えた庚申塔(興地)】

★庚申塔
 庚申塔には、自然石のものと文字碑、像のものがある。自然石のものは、大型の石塔が多く、数基が並んで配置されるところが多い。文字碑では、「奉待庚申」と書かれた石塔が最も多く、次に「猿田彦大神」「青面金剛」と記された石塔が多いようである。石像としては、青面金剛が彫られた像が多く、その下部には見ざる言わざる聞かざるの猿が描かれているものもある。また、邪鬼(じゃく)を踏みつけているものもある。
 日之影町では多くの集落で、自然石の石塔や文字碑の庚申塔が多く、なかでも深角・平底・徳富・波瀬・宮水・戸川・楠原などの集落に特に多く見られる。
 『郷土の自然と文化財』では、庚申信仰が町内に入ってきて、まず文字庚申塔や無刻のものが建立され、約五〇年後から刻像庚申塔(青面金剛)が建てられた傾向があり、東臼杵方面から造刻技術が導入されたという。また、文字庚申塔が数では圧倒的に多く、その願文は現世と来世の安楽を祈ったもの、豊作祈願などがあり、願主は「村中」など特定の人物ではなく、集落住民全体で建立したという。刻像庚申塔は七折と分城に多く、このうち半数以上が文化・文政年間(一八〇四~一八二九)の二六年間に建てられているのは何らかの理由が考えられる。『村の歴史』では、追川下の庚申塔・月待塔の多くが天明年間に建立されていることは「天明の大飢饉」と関係があるだろうと述べている。
【写真6-27 自然石の庚申塔 公民館前に集められている(波瀬)】
【写真6-28 文字碑庚申塔 「奉待庚申塔」の文字が見える(上下顔)】
【写真6-29 文字碑庚申塔 「猿田彦大神」の文字が見える(上下顔)】
【写真6-30 青面金剛庚申塔 タンナコ谷の道上に文化4年の像の台座には邪鬼が描かれている(下顔)】
【写真6-31 青面金剛庚申塔 文化3年の像で、三猿と邪鬼が描かれている(波瀬)】

★三夜様
 三夜様は、二十三夜のことで、旧暦一・五・九・十一月の二十三日に月待ちをして、月を拝む行事である。楠原では、庚申様・三夜様両方の掛け軸を保管し、祭り日が来ると神棚の横にかけて御神酒などを供える。昔は庚申講といい、その家に集落民が集まり、用意された煮染めなどを食べながら御神酒あげをした。特に庚申様と三夜様が重なったときには、いつもより賑やかに御神酒あげが行われた。現在は掛け軸が輪番でまわり、担当の家がお供えをするだけという。上下顔では、旧暦一・五・九月の二十三日、年三回行っている。
【写真6-32 庚申様の掛け軸(上顔)】
【写真6-33 三夜様の掛け軸(上顔)】

★日之影町の庚申塔
 日之影町内には数多くの庚申塔が見られ、ほとんどの集落にあると言っても過言ではないであろう。その分布と特徴については前述したとおりであるが、ここでは日之影町内の庚申塔を年代別に、刻像の庚申塔と文字庚申塔を表で紹介する。なお、その詳細については『村の歴史』において、集落ごとに庚申塔が紹介されているので参照していただきたい。
【表6-2 日之影町内の刻像庚申塔(『郷土の自然と文化財』)】※縦書きに打ち替えて下さい。
【表6-3 日之影町内の主な文字庚申塔(『郷土の自然と文化財』)】※縦書きに打ち替えて下さい。

三、地蔵信仰

★火除け地蔵の代参

 旧一月二十四日には、北郷町宇納間の全長寺(曹洞宗)、高千穂町上野の龍泉寺(曹洞宗)などでは、火除けの地蔵祭りが行われる。宇納間地蔵が最も多くの代参が行われるが、遠い集落では地元に勧請し、代参を行わないところもある。
 全長寺は、北郷村大字宇納間にあり、宮崎県内の火伏祈願の中心的な存在である。「宇納間地蔵由緒」(碑文)によると、往古天台宗正岸僧都が宇納間の市木に梅花山宝蔵寺を開削し、延命地蔵を本尊として安置したという。本尊は行基菩薩作とされ、享和元年(一八〇一)延岡藩主内藤政韶が江戸藩邸宅大火の折、鎮火祈願中に異僧が現れ類焼を免れたといい、藩主の保護の下、崇敬を集めてきた。
 地蔵縁日は旧正月・六月・九月の二十四日で、特に旧正月二十四日の前後三日間は縁日大祭で、県内外から多くの代参、参拝客で賑わう。全長寺第十四世秀山和尚のときに遠隔地を含めた「地蔵講」が結成され、代参受付所も設けられた。宇納間代参は、毎年二名が輪番で参った。夜中に家を立ち、早朝に宇納間に着いた。多くの参詣者で賑わい、縁日の露店が数多く並んだ。お札を受け、講詣帳(こうめりちょう)に記帳してもらった。集落に戻ると、「ごあげ」と称する飲み会が開かれた。お札を配り、一年間の安全を祈願とした。お札は、集落の入り口に竹に挟んで立てたり、各戸では火を扱う台所や椎茸乾燥小屋、炭焼き窯などに貼られ、様々な生活の場面で、人々の暮らしを見守っている。
【写真6-34 宇納間地蔵祭り 旧正月24日には大勢の参拝客で賑わう(北郷村宇納間全長寺参道入口)】

★龍泉寺

 高千穂町上野の龍泉寺は、かつて末寺七か寺を有する有数の古刹であり、天正年間(一五七三~一五九二)の大友軍の放った火にも無傷であったと伝えられる「地蔵菩薩」で有名であった。
 草仏などの高千穂町よりの集落では、上野の龍泉寺に参る。上小原は、以前は宇納間・上野の両方に詣ったが、戦後上野にのみ参るようになった。波瀬では、終戦後上野に変わった。高巣野では、寺への代参を講メリ(参り)といい、毎年の順番が決まっており、二戸から一人ずつ出て代参に行きお札を受け取る。講メリには講メリ帳を持っていき、その年に参る者の名が記入される。

★宮水愛宕地蔵尊祭の再興

 宮水愛宕地蔵尊は寛政九年(一七九七)三月二十三日、延岡藩主内藤能登守政韻公の時代、舟の尾代官所が焼失した際、同十一年高千穂代官所を宮水に移転するに当たり、特に火防の神として宇納間地蔵尊の分霊を勧請したものと伝えられる。明治初年に高千穂移転となり、明治五年(一八七二年)四月十二日、同代官所は宮水には出張所として所長門馬勇氏他数名を置くことになった。昭和五年の宇納間地蔵尊祭の代参を努める。同七年の二月には現北方町(当時は村)打扇の地蔵尊祭の代参をすることになった。そう簡単に換えられるものなら、いっそ宮水にある代官所時代に勧請されたものと伝わる愛宕地蔵尊が鎮座されている。ここにお参りすることは代参を廃して全員お参りできると尾村集落員に述べたところ一同が賛成した。同八年二月には尾村集落のみで宮水愛宕地蔵尊を祀ったが、翌九年二月には東宮水・仲畑・西宮水・袴谷集落も、宇納間や上野の各地蔵尊祭参りは止め、宮水公民館下の宮水愛宕地蔵尊祭が催きれることになった。境内の拡張や社務所を建立するなど、昭和三十年には字都宮孝旬氏の移住を迎え、地蔵尊のお姿並びにお礼も調製して信仰者には頒布するようになった。(『ふるさとひのかげ』)
【写真6-35 宮水地蔵のお札】※組写真にしてください
【写真6-36 宮水地蔵尊祭り 旧暦2月24日に宇都宮孝旬氏によって祭りが執り行われる(西宮水)】

★上の原地蔵堂

 創立に関しては不明であるが、神社の棟札に「寛永廿年癸五月」に彩色をしたとの記録が見られる。愛宕将軍地蔵大菩薩の仏像が残され、火伏の地蔵として崇められ、例祭日は宇納間地蔵と同様の旧暦一月二十四日である。
 愛宕将軍地蔵大菩薩は三田井家累代の本尊であった。天正十九年(一五九一)、大野原城が落城したとき、大野原城主戸高弥十郎義清の弟新兵衛親清がこの仏を奉持しこの地に隠れ住んだ。後に堂宇を建て手厚く奉納したという。戸高喜太郎さんによると、文化十二年(一八一五)の大火や昭和三十七年の山火事でも不思議にも堂宇は焼失をまぬがれたという。この地蔵尊は、霊験あらたかで、特に火伏地蔵として、旧暦一月二十四日の地蔵祭には遠近からの参拝者も多く、お札をもらいにやってくる。

★大日止日照山地蔵堂

 集落中央の台地にあり、延岡藩主牧野貞通によって創建されたという。以前は甲斐宗摂寄進の背負い地蔵が安置されていたが、現在は替わりの地蔵菩薩が祀られている。例祭日は旧暦一月二十四日で、神楽が奉納され、参拝者は火除けのお札を受け取り、各家の台所などに貼り、一年間火事のないように祈る。
【写真6-37 大日止地蔵尊祭り 旧暦1月24日に地蔵堂に多くの参拝客が集まる(大人)】
【写真6-38 大日止地蔵尊のお札(大人)】

★下顔地蔵尊の謂れ

 本木像も東宮水現戸主工藤敦三氏宅に伝わるもので、高さ二九センチメートル、巾一八センチメートルで同家の縁故に当たる下顔福川家の近くに祀られる下顔地蔵尊より伝わる木像である。その昔、八月十二日に必ずお参りされて今日に至る。

四、天神信仰

 神社信仰の中でも、最も多い神格が天神様である。菅原道真公を祭った神格であるが、学問の神として祭られているというよりも、雷除けの神としてある時期に流行神として祀られてきたようである。多くの神社は旧称天満宮と称されたたが、その由来に雷を除けるためにという伝承が聞かれる。
・椎谷神社は、村中の者が雷除のために元禄年中に奉祀したと伝える。旧称天満宮と称したが、明治四年椎谷神社と改称した。
・一水神社は村中で申し合せて雷除のため寛永年間に祀ったといわれる。旧称天満宮といい、明治四年現社名に改称した。
・平底神社は、元禄年間に村中の者が申し合せ雷除の神として創建したという。
・大菅神社は、古老の口碑に雷鳴を恐れて村中が申し合わせ勧請したという。
 天神信仰は、菅原道真公を祭ることで、全国的に展開していったが、本来の天神の意味は、国つ神に対する天つ神を意味していた。日之影町内には、椛木に祭られた拝鷹天神、早鷹天神など独特の天神信仰が見られる。こうした天神信仰は古い形を残しているものともいえよう。
【写真6-39 菅原道真公の御神像 松の内神社の祭神は嶽大明神と菅原道真公。12月第3土曜日が例祭日で、以前は神楽が奉納された(松の内)】

★天神様の更衣祭

 菅原道真公を祭った神社では、御神体の道真公像のお衣替えが行われる。白紙に切れ目を入れたものを首に架けるだけの簡単なものである。
 草仏では、十二月第一土曜日の例祭日に衣まつりを行う。草仏には、かつて茶屋があり、天神像をはじめ木像や石像が祀られていたが、昭和五十四年頃に公民館敷地内に移転された。例祭日には、次の年の世話人を決め、世話人になった人は「天神様」に新しい紙の衣装を着せることになっている。裃と袴の衣は、祭り当日の朝切って着せる。かつては、古園(旧十一月七日)・小原(同八日)・松の木(同九日)・栃の木(同十日)・上栃の木(同十一日)・草仏(十二日)のように集落で祭日が違っており、他の集落の祭りにも多くの人が参拝したという。
【写真6-40 衣をまとった菅公像 横迫神社の祭神は菅原道真公。12月第2土曜日が例祭日で、神楽が奉納され、お衣替えが行われる(横迫)】
【写真6-41 衣をまとった御神像 小崎神社の祭神は菅原道真公で、例祭日の12月第1土曜日に、更衣祭りが行われ、神楽が深夜まで奉納される。(小崎)】

五、水神信仰

 集落単位で祭られた水神の中で、日之影町内で最も有名なのは川の詰の神太郎水神であろう。その他、波瀬の御手洗水神、長谷川の長谷川水神・にうけん森、戸川の男渕神社、谷下の吐の内水神、戸の口の柳瀬水神、広瀬の吐水神なども信仰されている。
 水神は、大変に障りやすい神で、神域を犯すことや金属を嫌う。また一方でヒョウスンボは水神であるともいわれ、河童との共通性も見られる。

★神太郎水神宮

 祭神は川の詰神太郎様で、例祭日は旧暦二月十六日。この神太郎水神様は、高千穂郷五水神宮の一座である。神代の時代、天孫降臨の地高千穂郷を鎮守するため神武天皇の兄五瀬命は、この地域を貫流する五ケ瀬川流域の要害の地五カ所に部下を遣わして守備された。その地は東に見立の「川の詰神太郎」、西は三ケ所廻り渕に「雑賀小路安長」、南は七折に「綱之瀬弥十郎」、北は田原に「連波三郎」、中央は三田井の「御橋久太郎」であり、神太郎はその長兄であるといわれる。ここは豊後(大分)路の関所■として、侵入者を防ぐために任ぜられた命たちを祀った社で、建立は不明であるが由緒は古く、同時に各水系に配された水神のなかでも霊験あらたかなことでも知られる。また、水神は武勇の神として崇敬され、当地の氏子は日清・日露から太平洋までの各戦役で一人の戦没者も出なかったという。これは神太郎水神の御守護と村人は語る。安全祈願から縁結び、雨乞い、山火事の鎮火祈願に至るまで実に万能の水神である。また、水神渕の水を使って手習いすると上達するといわれ、昔から遠近の参拝者が多いことでも有名である。神太郎水神に関しては「昔、寺小屋で学習する頃、手習い中に白髪の老人が現れ、その手習いに見入っていた。いつしかその姿は消え去ったという。神太郎水神であったのだろう。」との逸話も残されている。
【写真6-42 神太郎水神宮 川沿いの鬱蒼としげった森は験あらたかな雰囲気を醸し出している(川の詰)】
 また、戸川の男渕神社は、三田井の御橋久太郎水神を勧請したもので、戦時中は村から出征した兵士は武運長久を祈願したという。右祠には「慶応元年丑八月吉日」とあり、祭神は、手置帆負神・屋船久遅神・屋船宇気姫神・彦狭知神を祀る。例祭日は春秋の彼岸中日である。
【写真6-43 男渕水神社(戸川)】

★御手洗水神の伝説
 波瀬神社と共にあらたかな御利益をいただく神様であり、御神木のイチの木は樹齢が見当もつかない程の大木であった。根元は直径一メートルもある大きなもので、中央から二又になり、それに藤がからみついており、風が吹くたぴにバリパリと大きな音がしていた。終戦直後に二又のうちの一本が西の方に倒れたので、残る一本もいつかは倒れると心配されていたが、水神様は特に刃物を嫌われるという事で、自然に倒れるのを待つしかなかった。すると一〇年前の夕方四時頃、大音響とともに今度は東の方に倒れた。一番人通りの多い時間帯であったが、何の事故もなかったのは幸いであった。
 庭に水神様の池があるが、以前に灯明台を献納された延岡の信者一同が団体で訪れ、今でもこの池の水を汲んで帰るという。その池のすぐ後に社が建っている。
 その昔青木幾五郎という人が、延岡高千穂通の荷馬車屋と共に通行中病気になり急に目が見えなくなってしまった。幾五郎は連れの人に「今度高千穂に行ったら帰りに御手洗水神の池の水をもらってきてくれ」と頼んだ。連れの人は高千穂まで来たが、帰りに水をもらうのを忘れ、気がついた時は曽木(北方町)を過ぎていた。しかし、幾五郎を案じたその友達は近くで瓶をもらい波瀬まで引き返し池の水を汲んで帰った。
 幾五郎はその水を神棚に供え「何とぞこの目が治りますように」と祈りながら、水を目につけるやら飲むやらしていたが、その内に効き目があらわれて、本当に目が見えるようになった。喜んだ幾五郎が願成就に大正七年に建てたのがこの社という。
 また、ここの鳥居には「大正八年延岡紺屋町吉田タネ」と記されているが、この人は子宮ガンにかかり、医者も薬もいろいろ変えて養生したが一向に効果がないので、信仰の道に入り、方々を参拝してついに日之影まで足を延ばし、見立の神太郎水神で行をしているうち、熱中しすぎて下の淵に飛びこんでしまった。淵の神様は「お前の体でこんな所に入ってはならん」と救い上げられたが、正気になってみると腰に御手洗水神ののぼりが巻きついていたので「これはどうしても波瀬に行かねば」とすぐに御手洗水神に行き、一生懸命に祈願したところ全快したという話である。そしてそのお礼として奉納されたのがこの鳥居と言われる。吉田さんは終戦後もよく参拝されたが、亡くなった現在でも親族の人が来られ、お神酒や供物を上げられるという。また、延岡や五ヶ瀬方面からの参拝者も多い。                     (中山アサエ『ふるさとひのかげ』)
★はっそう水神
 下顔の甲斐忠治家の裏側に、通称たんなこ谷が流れているが、昔はこの谷の両岸に大木がおい繁り、うっそうとしていたという。この谷に大きな深い淵があり、この淵の底から清水が湧き出ているが、淵の古木も今は枯れて、わずかに当時の面影を残すのみである。ここに祠はないが「はっそう水神」が祀られており、これにまつわるいろいろな伝説も残されている。
 昔は、舟の尾から上下顔を経て中村に通ずる道が幹線であったが、この道路の道普請の時、上顔側の水神淵の上で岩の切り取り作業中に、土砂や岩がこの淵に落ちこみ始めた。ところが何日か経つと、水神淵の上に羽の生えた自宅の馬が姿を現わし、狂ったようにいななきながら、岩の落ちて来る場所を走りまわるので、これは水神様のおとがめだということになり、験者に頼んでお祓いをしてもらい、岩石などが淵に落ちないようにしたところ工事がすんなりすすんだといわれる。
 昭和十五年には、この淵を水源とする用水路工事があったが、作業員の一人が珍しい木を見つけて自宅に持ち帰ったところ俄かに腹痛がはじまり、どうしても治らないので験者にみてもらったところ、水神様の障りだといわれたので御神酒を上げて断わりをいい、その木を元の所に植えたら腹痛が治まったと言われる。
 最近では、昭和四十五年頃、農村集団電話の設置工事が始まり、上下顔地区でも工事されたが、電話線が丁度水神淵の上を通ることになった。淵の上にはクロガネモチの大木がおおいかぶさり、毎年赤い実をつけていたが、その枝が邪魔になるということで作業員が切り落としていたところ、過って水神淵の岩の上に転落し、尊い命を失ってしまった。                         (甲斐寅喜『ふるさとひのかげ』)
★長谷川水神
 長谷川と田子尻川の合流点にある当集落は、昔から洪水におびやかされてきた。集落で祀る水神は、旧暦三月三日の例祭日に集落全員で御幣や竹の筒に酒を入れたカケグリを作り、川の清掃をする。神事の後、各家庭など二、三カ所の水神に御幣、掛けぐりを供えて水神を祀る。塩井谷の「にうけん森」にある水神は、集落の水道の水源でもある湧水地で、「享和三癸亥年十月吉祥日 佐藤安兵衛奉寄進」の祠が建立されている。(『ふるさとひのかげ』)

★家々の水神様
 神太郎水神のように集落単位で祀る水神様だけでなく、水を扱う重要な場所にはすべて水神が祀られてきた。田んぼの水口、井戸、懸樋のある取水口、そして最近では水道にも水神は祀られている。
 追川では、飲料水の元には必ず水神様を祀った。特に祭りはないが、御神酒をあげ、正月にカケグリをあげる程度であった。粗末なことをすると祟りがあった。水神様の脇にあった木を伐って体が悪くなったときには高千穂町の神官を頼んでお祓いしてもらった。三回御神酒をあげると必ず水神様は戻ってくるので、もうこの場所には御神酒をあげないようにと言われたという。
 高巣野では、樋竹を掛けている懸樋が二か所あり、そこに青白の御幣を切り、カケグリと共に供えた。
【写真6-44 田の水口の水神様(徳富)】
【写真6-45 井戸跡の水神様 井戸を壊すときには丁寧に供養をしなければ障りがあるとされる(椎谷)】

六、金比羅信仰

 香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮(旧称金比羅大権現)を崇敬する信仰で、日之影からも多く代参に赴いている。一般には航海の安全を守る神として祀られているが、農村でも金刀比羅様を祀る地域は多い。各家の神棚には、金比羅様のお札が納めてある。例祭日は、金刀比羅宮と同じ十月十日が多く、神無月にも出雲に行かない神とも言われている。
 八戸上では、三王寺権現神社に合祀されていたものを八戸小学校下に移転した。大正五年四月一日付のお札があることからそれ以前から祀られたものと思われる。例祭日は旧三月十日である。
 上日之影には、金刀比羅様を祀り始めた木札に「大正六年八月吉日」「金刀比羅宮奉二夜三日祈祷家内安全守護攸」と記されている。大正初期頃、日之影から木材などを筏に組んで盛んに延岡方面に運んでいた。当時運送業をしていた国弘耕作氏が中心になり、筏師や舟乗りの安全を祈願するために大正六年に金刀比羅宮より勧請し御社を造営した。例祭日は旧四月十日と十月十日である。
【写真6-46 金刀比羅神社(上日之影)】
 波瀬の斉藤文夫氏宅の裏山は金毘羅山と呼ばれ、金毘羅様二体が祀られている。その一体に「大正九年三月十日建立 波瀬村中」と記されている。深角の甲斐伊三男氏宅の裏山には石祠が金毘羅宮として祀られ、「昭和十二年旧三月十日」の刻字がある。
 大楠の金比羅様は、高い場所に祀られ、石の祠の中に木札が納められているだけである。四月第一日曜日を祭礼日として、魚を持って飲み会をする。
 上川では、集落の氏神として金比羅宮を祀る。例祭日は旧暦三月十日と十月十日である。
【写真6-47 金比羅大権現の祭り(川の詰)】

七、その他の信仰

★生目神社
 年代は定かでないが、境谷に住んでいた甲斐武兵衛さんが生目神社(現宮崎市)から勧請したものといわれる。目の病に御利益があることで方々からの参詣者が多い。神社には嘉永六年(一八五三)の棟札と昭和二十六年の棟札がある。祭神は平景清。例祭日は特に定まっていない。
 生目神社の知名度は高く、多くの集落で宮崎市生目神社に代参することも多かったようである。鹿川には生目神社の掛け軸が残されている。
【写真6-48 生目八幡神社(戸川)】
【写真6-49 平景清神像(戸川)】
【写真6-50 生目神社の掛け軸(鹿川)】

★森の信仰
 上栃の木には、天神森・八幡森・地主森・荒神森の四つの森が祀られていた。天神森は村の中心部にあったが、そこが宅地になったため、八幡森に合祀された。八幡森は巨木がしげり、鬱蒼とした森であったが、昭和三十年頃巨木は伐採されてしまった。この時、神木の巨木を伐採するときにノコは貫通したもののなかなか倒れなかったので、御神酒をそそいだところ、やっと倒れたという。天神森にあった棟札では安永八年の建立とのことである(『村の歴史』)。地主森は、開拓者が祀られており、今も五輪塔が残っている。荒神森には巨木が一本残っているが、祟りを恐れてだれも伐らないという。この土地には他にドジョウボウズ(道場坊主)が埋められているという場所があり、誰も近づかない。ある僧侶が即身成仏のために、生きたまま埋められて、しばらくは鈴の音がしていたという。
 大菅には、神様を祀った森が多く、八幡様の森、天神様の森などいくつもの森があった。これらは歳神様の森に合祀され、現在の大菅神社になった。
 中尾には権現森があり、その森の中に凝灰岩の洞穴があり、熊野権現が祀られ、観音菩薩像も合祀されている。創立は不明であるが、文化十年(一八一三)の磨崖刻字がある。例祭日は旧一月十六日である。また集落内には他に「石塔の森」という場所があり、五輪塔・宝塔などの残骸が集められている。
 こうした森の多くは集落で祀られているが、屋敷地内の裏山にあるような小さな森は、荒神塚などと称し、各家や本家分家で祀ることが多い。

★あくた神
 一の水から七折坂・上野峠を越え、岩戸へ通じる東深角の山の中腹の横背とよばれる横道の中間地点に、およそ五、六〇センチメートルの石仏が立っている。昔から「あくた神」と呼んでいる。昔は、この旧道しか道はなく宮水・長谷川や遠く延岡方面からも頻繁に人の往来があった。昭和二十年代までは、岩戸神社の祭りに参詣する人たちの列が横背道に続いていた。山道故に草花も少なく、手向けるのも木の小枝を手折り柴木を供えて拝んでいたので、いつの頃からか「柴神様」と呼ぶようになった。現在は遊歩道となっている。

★稲荷信仰
 田の神として、祭られることの多い稲荷信仰である。西宮水の正一位吉高稲荷大明神、谷下の鵜戸稲荷大明神、竹の瀬の正一位経王稲荷大菩薩、田吹の剣納塚正一位稲荷大明神などは珍しい。
 昭和七年旧二月に木造の祠を建立し、祠内に御鏡一面と祠の裏に神像が一体祀ってある。例祭日は、旧二月の初午の日で数年前までは二十数戸の稲荷講があって、各戸くじ引きで順番を決め持廻りで当たり番の家で酒盛りを開いていた。最近は稲荷講から脱退する家も増え、現在は二〇戸程になり祭の行事は神前のみで行っている。

★牛馬信仰
 日之影町内の牛馬の神として有名なのは波瀬神社である。波瀬神社のお札は、各家の馬屋に貼られている。有馬直純公が召馬の病気平癒と戦捷祈願をされたところ、召馬たちどころに勇み立ち、有馬公は島原の戦において大いに武勲を立てられた。有馬公はその奉賽のためにと内宮を建立されたという。このことから牛馬守護の神として崇敬されてきた。
【写真6-51 波瀬神社の馬の御神像(波瀬)】
【写真6-52 牛舎に貼られた波瀬神社のお札(興地)】
 横迫のぶぜんぶ(武前法)様は、牛神を祀っているが、その由来は不明である。横迫神社後ろの大樹の根元にある小さな祠堂に牛像が奉納されている。旧暦八月の初丑の日に「ぶぜん祭」という家畜の健やかな成長を祈る祭りが執り行われる。
 糸平の「仁田様」が牛馬の神として親しまれている。この他、各家のうまやや各祠堂には、うまや荒神や馬頭観音が祭られているところも多い。
 この他、それぞれの集落に馬頭観音や大日如来などの仏像が祀られる。松の内には、大日如来堂があり、牛馬の神を祀っている。昔は遠方からの参拝客も多かったというが、現在が近所の者のみで旧正月二日に祀る。各家庭のうま屋にはうま屋荒神が祀られている。荒神には、うま屋荒神・カマド荒神・屋敷荒神がある。
【写真6-53 大日如来堂に祀られた牛の神様(松の内)】
【写真6-54 馬頭観音像(■)】
【写真6-55 馬頭観音像 大正13年子牛検査場に祀られる(西日之影)】
【写真6-56 馬頭観音像 うま屋に祀られた小さな像(下顔)】
【写真6-57 うま屋荒神のお札(大人)】

第四節 家の信仰

一、屋内神

★表の間
 日之影町の民家の特徴は、高千穂町の民家の特徴に共通して、横長のものである。民家の中央には、神楽を舞えるような表の間が配置され、神聖な空間として機能している。ただし、日之影町では、ホリモト(代々神楽が舞われる家)が決まっており、そうした家系の特徴でもあった。
 壁側には、仏壇・神棚・床の間が常設され、神楽の際には、この方向が高天原を象徴することとなる。仏壇には、宗派によって異なるが、浄土真宗では比較的簡素な作りで、曹洞宗派では、護符や施餓鬼の旗などが特徴的である。神棚には、氏神社のお札を中心に多くの神札が置かれ、家によっては面様(神楽面)を飾る家も多い。床の間にも多くの神札や神楽の御幣など様々な信仰の品々が供えられている。
【写真6-58 曹洞宗の仏壇 お盆には施餓鬼の旗が飾られる(戸川)】

★大黒様
 台所や次の間の高い位置には、大黒様が祀られている。木像や素焼きの大黒様があり、榊・御神酒・水などが供えられている。旧暦の正月十一日には、「大黒さんの山登り」と呼ばれる作始めの行事が今も行われている。この日は大黒様が山に登る日であるとか、田に出る日であるなどの伝承がある。大菅では、御馳走(豆腐・野菜・雑煮・焼き魚・ご飯)と、シイの木の枝にトビ紙・カケグリを付け大黒様に供える。シイの木の枝は田に立てて豊作を祈る。
 鹿川では、旧暦十月亥の日に一番大きい稲株を一束刈り取って帰り大黒棚に供えるといい、樅木尾では、稗の根こぎを大黒様に供える。また、平清水では、正月の歳の晩に燃やした年太郎と呼ばれる大きな薪の燃え残りを大黒様の神棚に供える。
【写真6-59 大黒様 大黒様の下には宇納間地蔵のお札が貼られている(鹿川■)】

★火伏せ地蔵
 山村において最も心配されたのが火事であった。カマドや火元の周辺には、宇納間や各地で配布される火伏地蔵のお札が貼られている。宇納間地蔵をはじめ多くの場合、旧暦一月二十四日が祭り日で、代参で代表者がいただいてきたお札を各自に配るゴアゲと呼ばれる酒宴が開かれる。
 カマドにはカマド荒神がおり、子供がカマドの火で暖をとっていたりすると怒られるものであった。また、カマドを壊すときには、民間宗教者にカマド供養をしてもらわなければならない。壊したカマドの残骸を裏の荒神塚に納める家もある。
(「地蔵信仰」参照)
【写真6-60 愛宕将軍地蔵大菩薩のお札 (大菅)】

二、屋外神

 日之影町では、あまり屋敷神は見られない。敷地内に祀る祠堂を見ることは少ないが、古くからの家では荒神塚を祀る家が多い。こうした各家の信仰の様子をうかがうには、盆・正月に参る神仏を確認すると明確になる。

★盆・正月の参拝
 平清水の菊池只雄さん宅では、十二月三十一日のお昼から屋敷内の神々を祀った。その順番は、まず先祖の墓(約一二の石塔)にカケグリ(御神酒)・線香・ハナシバを供え、お大師さんに線香とカケグリ、天神様・庚申様にカケグリのみ、そして稲荷様・荒神塚に線香とカケグリを供える。お盆には、これにミズノコが加わる。これはオヤケ(戸主)のみで行う。現在はカケグリを作らず、かけ流しで御神酒をかけるだけである。

★荒神塚
 各集落の古くからの家には荒神塚がある。普段は一切祭らず、盆と正月にオヤケ(戸主)が祭る程度である。民間の宗教者に屋敷祓いをしてもらう家が多い。荒神塚の領域内には滅多にだれも近づかない。近づくとホロセができたり、原因不明の病気になったりするという。荒神は、三宝荒神やカマド荒神とも合わせて考えられ、荒神塚に壊した古いカマドの土や煉瓦を集めることが多い。
 追川では、荒神様は荒々しい神様で、盆と正月だけ、敬意を払って五、六メートル前から裸足になって、御神酒をあげに行った。医者にも分からない祟りがあるもので、ヤワタボウズ(祈祷師)にお祓いをしてもらったという。兵隊のくじのがれをするように(赤札が来ないように)、七荒神を祀って、舟尾の監物様のお通夜に参って願掛けをしたという。
 一の水では、地主様の脇に荒神塚があり、祭り日・盆・正月・彼岸・節句に御神酒をあげる。ヤワタボウズがやってきてお祓いをしてくれた。
 樅木尾では、二件の家に荒神塚がある。盆と正月に御神酒をあげる程度であるが、壊したカマドを荒神塚に集めるときにはワハタボウズに頼んで、荒神塚に集めるものであった。ヤハタボウズは東郷町の盲僧で、琵琶を弾きながら家々を回って、屋祓いやクド(カマド)祓いをしていた。
 鹿川のある家では、荒神塚は、シメキのコウジンといい、二軒一緒に祀る。正月には注連縄をはって、榊・ハイの木、カケグリなどを供えた。餅正月には、ヤナギモチの小さいものを、お盆にはミズノコを供えた。ジョウマンさんが来たときにお祓いをしてもらった。
【写真6-61 荒神塚 荒神塚の御神木は朽ちるまで伐ることはできないとされる(鹿川)】
【写真6-62 荒神塚 小正月には柳餅が供えられる(鹿川)】

★便所神
 山の頭では、便所のことをセッチンといい、そこにはヒョウギノカミサマがいると言われていた。花を便所に飾るものではないといい、妊婦が便所を掃除してきれいにするときれいな子供が産まれるといった。

三、民間宗教者

 家庭での信仰を陰で支える存在として、神社付きの神官や寺持ちの僧侶とは別に、民間の宗教者の存在は欠かすことができない。年に一、二回の屋敷祓いの他、その時々での病気や失せ物家庭の相談事まで、様々な相談に答える存在である。町内では、一般にモノシリと呼ばれる。
 宮水の宇都宮孝旬氏は、現在数少ない祈祷師で、多くの人々の信望を集めている。高鍋町妙本寺布教所という看板で、名付け・屋敷祭り・屋敷清めなど各家を訪れて行っている。原因不明の病気などは、家相や御神籤を得て判断し、個人的な祈祷から橋梁建設の祈祷など公的なものも行っている。昭和三十二年、旧暦一月二十四日に、それまで途絶えていた愛宕地蔵の祭りを復活し、地蔵のお札を配るようになった。最初、尾村だけの祭りであったが、後に宮水地区全体の祭りになった。(第■章第■節参照)
【写真6-63 宇都宮孝旬氏(宮水)】
 追川には、ヤワタボウズと呼ばれる祈祷師が年に二回、彼岸の頃やってきて、祈祷のお礼はその時できた穀物(トウキビ・麦など)をお礼に差し上げた。次々と家を回るうちに、荷物が重くなるので、次の家まで荷物を運んでやった。日が暮れたらその家に泊まらせるものだった。主に屋敷祓いや荒神の祭りとしてお経を読んだ。この他、よく失せ物探しをしてくれた。例えばヨキ(斧)が無くなったとき、自分の生年月日を言うとそれは~の方向にあるといって占った。果たしてすぐに山中に置き忘れたヨキが見つかったという。
 ヤワタボウズとは、一水ナツシロ■さんのことで、大菅から深角にかけてある程度の檀徒を持っていた(一水)。
 鹿川には、昭和三十五年頃まで北方町からジョウマンさんという祈祷師が来ていた。年に二回、六月と十一月、家祓いに来ていたが、六月には麦を、十一月には米をお礼にしていた。
 門川町の牧山さんには多くの人が見てもらいに行ったという。病気などの様々な相談事を空の一升瓶に水を入れて占うと、その水を通して解決が見えるという。県内外から多くの参拝客があったという。(『宮崎県史 民俗2』)

第四節 俗信と妖怪

一、魔除けと呪具

★軒先の呪物
 大楠では、玄関口に五月節句のチマキが魔除けとして下げられた。五月の菖蒲の節句に、菖蒲・ススキ。ヨモギを束ねた物を軒先に刺していくのは、茅葺き屋根の頃の名残である。この節句にはヒモでぐるぐるに巻いたチマキを作り玄関口に魔除けとして飾るが、これは、昔、鬼に追いかけられたときにチマキを投げると、鬼はそのヒモをとくのに時間がかかり、その間に逃げおおせたという故事にちなむ。
 正月の注連縄を一年間張ったままにしている家が多いが、これは高千穂町での一つの流行のようである。これとともに目立つのがサイワイ茸■を玄関に飾った家が多い。
 他に玄関口に、星祭りのお札や山中神社の疱瘡除けのお札などが貼られていたりする。山中様は、高千穂町尾狩にある山中神社に祀られており、昔から疱瘡除けやはやり病や熱病を避ける神として親しまれている。昔、肥後国から阿蘇坊というお坊さんがこの地を通りかかったときに病にかかり、村人が手厚くもてなした。看病の甲斐なく亡くなった坊さんが世話になったお礼として、この村に疫病を入れないと約束した故事にちなんでいる。
【写真6-64 魔除けのチマキ 五月の節句に作ったチマキの一部は玄関口に飾られる(大楠)】
【写真6-65 注連縄とサイワイ茸 正月の注連縄を一年中張ったままにするのは一つの流行(赤川)】
【写真6-66 祈祷札 曹洞宗の寺で配られる■(竹の原)】
【写真6-67 山中様のお札(■)】※後送

★カケグリ
 カケグリは、宮崎県の山村には欠かせない信仰用具の一つである。竹を三〇センチメートルくらいに切って二本を一組にして束ねたものである。これに御神酒を入れて、様々な神仏に供える。
 大楠では、十二月二十六日に神楽が行われるが、この日には集落内の様々な神にカケグリを供える。オコシンサン(庚申様)・地蔵様・稲荷様・馬頭観音(大日如来)・薬師様・お大師様・神社・金比羅様・山の神(二か所)・妙見森・ウトヤマ(山の神)・地主様である。
【写真6-68 カケグリ 公民館前の庚申塔に多くのカケグリが供えられる(興地)】

★ヒロ
 盆と正月に屋内外の様々な神仏へ御神酒と様々な供え物をすることが日之影町の特徴的な信仰の形である。お盆には、ミズノコを供えるのが禅宗檀家の行事である。一方正月には現在あまり特徴的な物が聞かれなかったが、鹿川で貴重な話がうかがえた。
 鹿川では最近までヒロという飾りを小正月に供えていた。ノリウツギという木の若い枝を三〇~四〇センチメートルの長さに切り、二ヶ月くらいイロリなどの上で乾燥させる。これを紙のこよりくらいの細さで数十回削り、片方は付けたまま残しておく。この作業をヒロカキという。これを屋内の神棚・仏壇・大黒様など、屋外の荒神様・水神様など、墓地の先祖の墓すべてに一つずつ供えていった。(口絵参照)
【写真6-69 ヒロ(江口司氏撮影)】

二、妖怪

★ヒョウスンボ
 見立煤市では、ヒョウスンボとセコは別物という。ヒョウスンボは川におり、川原で相撲を取った話をよく聞いた。また、釣りにあまりよい餌ばかりを使うと「ヒョウスンボがつくど」と言われた。夜釣りのウナギ釣りなどで、ハチノコのようなよい餌ばかりを使ったときに「ヒョウスボが出るぞ」といった。一方、セコとは山の尾根づたいを「ヒョイヒョイ」といって渡っていく鳥のようなものだという。セコの出るところには家を建てるなと、炭焼きの人が小屋を建てるときに言うものだった。
 鹿川では、ヒョウスボはケツゴ(尻)を引くという。ヒョウスボの通り道であるウジがあり、オバネを通るものだといった。昭和十年頃の話であるが、鉱山関係者のある息子が、友達の名前を大きな声で呼びながら、自分の背丈と同じくらいの切り株と裸で相撲を取っていた。一人でぐるぐると木のまわりの回って、かなりの時間相撲を取っていたようで切り株のまわりはすっかり荒れていたという。
 鹿川で、ある山小屋に泊まっていると、ものすごい勢いで家を揺さぶられたので、ヒョウスボの仕業と思い、「御神酒が欲しいつか?明日持ってくるは。」というと、おさまったという。道の突き当たりに家を建てるといけないといい、その様な場所は「オを引いている」という。鹿川では、オカタ(屋号)、ホリオ(地名)、クボンセド、マツオ(屋号)などがオを引いている悪い場所だという。また、ヒョウスボは夕方に川に来て、夜明けに山に上がるといい、水神になったり、山の神になったりするという。そのため、夕方にキュウリを採りに行くものではないといい、キュウリを採った場合には一番に水神様に供えるものだという。

★タヌキ
 タヌキにばかされた話は多い。
 仲組では、工藤さんというおじいさんが行方不明になり、三、四日さまよい続けて、畑の水たまりに沈んでいるのを発見されたが、その時、タヌキの毛がいっぱいついていて、「タヌキにばかされたのだろう」と言われた。
 見立煤市では、タヌキはばかさず、ムジナがばかすのだという。ムジナとはアナグマのことで、ホンダヌキはばかさないという。

★山女がすむ方姫山

 昔時、猟師等猟ニ出向ケル毎ニ水ノ滴ル様ナ美シイ女ニシテ背ノ側ハ恐ロシイ髭爺ノ怪物ヲ見タリト、依テ此ノ山ヲ方姫山ト名ヅケント云フ。
 元禄ノ頃、鉱山ノ始マリシ頃人離レニ、一軒ノ工夫長屋アリ。請負ノモトニ、二十餘人ノ若キ土方アリ。賄ノタメニ一人ノ若キ女使ハレ、若者ハ夜ノホノボノ明チル頃仕事ニ出ルヲ例トセリ。或朝、女ハ何時モノ通リニ起キ長屋ノ炊事場ニ前夜構ヘタル御飯ノ下ニ大ヲタケルニ眠気来リテウトウトセルニ、向ニ時ナラヌ物音ニ驚キ眼ヲ覚シ見ルニ誰一人トシテ起タル様子モナク何ノ影ヲモ認メズ、棚ノ上ノ燈明ハ吸上ル種油ノ火ガ物怪ゲニ灯レルノミ、物不思議ト思ヒレニ又コトコトト物音騒ガシク女ハ驚キ覗キミタルニ、人無キ戸ス-ト開キ、外ハ眞ノ闇ヒヤリトシタ一陣ノ風ト共ニ戸ノ隙間ヨリソット差込マレシハ、美女ノ顔ソノ美髪サハ、雪ノ如クサレドモ眼ハ異様ノ輝ヲ持チ、白イ歯・真ッ赤ナ唇、女ハ冷水ヲ浴セラレタル如ク思ハズ気ヲ遠クシタ。シバラクシテ夜ハ明ケタレ共一人トシテ起キ出ス女ハ不思議ニ思ヒ、一人々起シ見ルニ其ノ咽喉ニハ、恐ロシイ牙歯根痕アリテ、冷タキ骸トナリヰタリト。山女ガ嫣然白歯ヲ見セテ笑フ時人ノ生キ血ヲ吸フト言フ。只シ一人残レル女ハ、毎朝燈明ヲアカレ御飯ヲ供ヘ神佛ヲ念シタル功徳ナラント傳フ。    (『見立尋常高等小學校区域神話傳説』)

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