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大将軍神社 小野重朗『民俗神の系譜』

小野重朗『民俗神の系譜』(法政大学出版局、1981年)より抜粋

大将軍神社(デショグンサア)

 大将軍神社、あるいはデションサア、ショウグンサアとよばれる大小の神社が、私の採訪手帳に四五例みられる。ほとんどは宮崎県の海よりの部落にみられるものだが、鹿児島県で五例、熊本県南部で一例がある。私の調査部落は宮崎県ではだいぶ粗であるから、宮崎県南部でもまだまだ多くの例があるものと思う。また私の調査は南九州に限られていて宮崎県北部に及んでいないので、例えば延岡あたりにも大将軍神社は見られる由であるが、宮崎南部のこの濃密な分布の北限がどのあたりであるかは不明である。

 ここには先の四五例を表にして示し、その内の幾つかについて簡単な説明を加えることにし、終りにそれらについて考えられることの概略を述べてみようと思う。

 大将軍神社の事例表(三一四~三一五頁)については、まず宮崎県の南部から北部へと並べ、次に鹿児島の五例、熊本の一例の順にあげた。呼び名はドンとか様(発音はサア)とか、神社とか区別してあるが、特に違いがあるわけでなく、大きい神社は一般に大将軍神社といい、小社、小堂、石祠のようなものではドンとかサアという一般的な敬語をつけてよぶ場合が多いのにならった。馬の神、牛馬の神も結局は同じことで、大正の初めまでは牛より馬が比較にならぬほど多く、それが牛と徐々に交代して、今は馬がきわめて少ない。つまり馬の神が後に牛馬の神になったということである。次に説明する事例の番号は表の事例の番号を用いることにする。

2串間市市来、藤浦の将軍サア
大字市来の部落神を若宮神社というが、この若宮神社の神殿にはお稲荷様と将軍様を合わせ並べて祀っている。後述の柱松の柱引き歌の中に「右に将軍、左に稲荷、中のボサツが若宮様よ」とあるように、ここらでは将軍神と稲荷神を合わせ祀る例が多い。旧暦八月十五夜にはこの若宮の境内で、部落の青年が柱松をする。引いてきた高い松に竹をそえて立て、頂上には扇と燃え代の入ったットをつけ、夜、下から火を投げあげて燃やす。その柱の根に大綱を巻いておいて、後でその綱を用いて綱引をする。今はほとんどやらないが、臼大鼓とよぶ太鼓踊りもこの晩にまず神社で踊るものであった。これらの行事は将軍様に奉納するという気持が強い。将軍様は水の神であり、この部落には水死人がないといい、将軍様は作の神、田の神だといって、この部落でする田祈念講の日、旧暦八月十一日には講の宿に将軍様の御輿を迎えて、幟を立てて講をする。八月十五日に神社へ御輿を返す。部落の戸主が年齢順に宿をつとめるきまりになっている。この宿のことを将軍宿とよぶ。

6南那珂郡南郷町中村、目井津の将軍堂
目井津の在(農家部落で浜に対していう)の方にある小さい堂で平原卯平家で花香をとっている。ショウグンサアは水神様であると言われ、子供たちが川にヘラン(川で水死しない)ように守ってくれる神とされていて、六月の土用に部落で集まってオミキ上げをしている。水神様だから田の水をくださる神でもあるという。またセキの神とも言って子供が百日咳にかかると、孔のあいていない火吹竹を七日参れば七本供えて、子供の咳がなおればそれに孔をあける(鹿児島、宮崎を通じて古い神、石祠、古墓などをセキの神として火吹竹を供えるものは多くみられ、その神の本来の性格というより、古くからの小民俗神がセキの神となるものらしい)。

9日南市鵜戸、宮ノ浦の大将軍様
部落神の玉依姫神社とは別にデショグンサアとよぶ小宮がある。お祭りといって特別にはなく、玉依姫神社の九月九日の祭りの日に幣を切ってあげ、供え物をするだけである。馬の神といわれ、馬の仔が生れて一週間目にはその馬の仔を曳いて参るのがこの近在の部落のならわしになっている。その時に小さい布の旗を供える。こうすると馬の仔が川にヘランと言う。

10宮崎市内海、エビス町の大将軍様
部落の神社には中央に天神、右に大将軍、左に年の神の御輿が三つ並べて祀られている。そのうちの大将軍様の祭りというのは旧暦八月十五日の夜に、四〇年ほど前までは太鼓踊りを奉納していた。各戸必ず一人は出て太鼓を吊って踊った。またこの日にデショグンサアコといって大人が宿をきめて集まって講をする。この講の方は現在も続いている。

14宮崎市本郷南方、辻の大将軍様
南方部落全体の神ではないが、田の中に小さい大将軍神社がある。馬の神であると言われていて、正月十一日の作始めの日には農家は必ず参っているが、元は馬を曳いて参るものだった。旧暦七月十九日が祭日となっていて、部落で奉納した幟を立てるが、各々の家でも大将軍サアの旗というのを家族の数だけ作って供える。七夕の色紙を一〇センチ幅ほどに切ったものを三色または五色ほどつないで細長く作る。上端は天で青色、下端は地で赤色、中は何色でもいいという。その表面に家内安全、牛馬無病などという文字を書く。これを細竹につけて神社に参り、拝殿に立てておき、帰るときには他の人の供えた旗をもらって帰る。この旗はウマヤの入口に垂らしておくが、残りは子供たちがもらう。

22宮崎市瓜生野、竹の大将軍様
竹篠部落の部落神で馬の神だといい、家々で馬の仔が生れると、曳いて参って安全を祈るならわしである。旧暦八月十五日には部落から臼太鼓踊りを奉納する。背に大きな矢旗を立て大きな太鼓を吊り、ドロドロドロンと打ちならしながら踊る。これは大将軍様についた踊りであるという。

26 宮崎郡田野町上学之木の大将軍様
部落神が大将軍様で大正の初めに地主神を合祀した。大将軍様は牛馬の神といい、旧暦八月二十四日にヤンバタコ(矢旗講?)という祭りをする。各家からは七夕色紙を青赤黄白などつないだ一メートルをこえる細長い旗を神社に持って参る。神社では神官が減った上で、それに「奉納大将軍馬牛安全祈願」といった文字を書いてくれる。それをもらって帰ってウマヤの牛馬の前に垂らしておくと牛馬の病気が入ってこないと言われる。また部落の婦人たちは観音講の日にカネスノオリといって糸を集めて短い色布を織り、それを旗にして観音様だけでなく、将軍様にも地主様にも供える。

29 東諸県郡高岡町川原田の大将軍神社
この神社ははじめ同じ大字浦之名の田之平部落にあったのだが、明治になって川原田の伊勢神社に合祀したものである。田之平の大将軍様と言えば県下でも有名で、諸県地方一帯にこの神社の札をウマヤにはってあるほどである。この大将軍は出雲の国から来た神で、今の宮崎市赤江に上陸し、宮崎郡の清武をへて田之平に来られたという。神社はフツヌシの神とタケミカヅチの神を祀ると伝え、神体は古い木像である。旧暦八月八日が祭りの日で、その日は境内で大将軍踊りが踊られる。大将軍踊りは太鼓踊りで太鼓をうち、矢旗を背負って跳躍して踊るもの。浦之名のあちこちの部落が組を作って奉納するが、その中で田之平の太鼓踊りが先に踊らねば他の組は踊れないことになっていある。旧暦八月八日には部落によっては大将軍講を行なっている。

34 北諸県郡三股町長田高野の将軍様
方一間ほどの宮に、神体は二〇センチほどの蛇が二まわりのトグ口を巻いた上に、武将らしい冑をつけた像が立っているもの。馬を描いた絵馬が多く奉納してある。この神は牛馬を守る神だと言われるだけでなく、マムシ除けの神だといわれ、この神社の土を持ち帰って家のまわりに撒いておくとマムシにやられないという。

35 北諸県郡高城町大久保の将軍神社
大久保にはもと将軍山という小山の上に将軍社があったのを、明治の頃に隣りの桜木部落の将軍社に合祀した。ところが、その後、大久保部落に馬牛の病気が流行したので、将軍様を合祀したからだということになり、またとりもどして、部落神の春日神社の横に新しく将軍様の社を作り、古くからの白馬にまたがった武将姿の木像を祀っている。旧暦八月十九日が祭日で、その日は将軍踊りといって奴踊りなどを奉納して牛馬の安全を祈る。

42 薩摩郡入来町副田、山口の大将軍神社
大将軍神社は現在は浦之名に住んでいる山口家の内神といい、旧暦十一月卯の日の祭りには、山口家の人々が参加する。現在は山口部落の部落神になっている。手力男のミコトを祀るといい、山口家の祖先が宮崎県に近い伊佐郡からここに持ってきたと伝え、病気の侵入を防いでくれる神だと言われ、農神とは考えられていない。

45芦北郡津奈木町福浜の赤崎の将軍神社
ニチラ将軍という朝鮮の武人で、赤崎のダテクヤブ(ダンチク藪に船で上ったのを祀ったという。相撲を好まず、踊りを好むので旧暦十一月三日の祭りにはいろいろの踊りを奉納する。この神がいるので福浜は病気や火事のひどいのにやられないのだという。

 以上で将軍神社、大将軍神社の事例は終るが、そうした具体的な神社の例以外にも一、二の将軍に関する伝承がみられる。
 その一つは鹿児島県肝属郡大根占町皆倉の神官家中林善太郎氏の家に伝わる「諸祭文祭順」の記録で、元文五年の筆写になる文書の中に内神祭りのときに唱える勧請祭文というのがあり、多くの諸神を勧請し祭りをしたものと思われ、その神々の名の中に実に雑多な民俗神の名が出てくる。その一部に、

「......八大龍王妙見モロコシ天宮殿天大将軍地大将軍殿諸将軍殿藤松主馬将軍殿一頭二頭有永守永月ノ月宮日ノ日宮天神八房新殿加羅津葉舟蔵舟玉恵比須三郎殿・・・・・・」

という部分がある。加羅津葉はガラッパで河童の方言であり、河童も神様であることがわかるが、ここに出る天ノ大将軍、地/大将軍、諸将軍、藤松主馬将軍が、先の将軍神社と関係のあることは間違いあるまい。
 もう一つは、宮崎県の諸県地方一帯では、九月十一日の頃に大きい神社を中心に神楽が夜明しで行なわれるが、その三三三番の神楽の中に将軍舞いというのがあり、その中に衣冠をつけたショウグンドンという人物が登場する。この人物は他の登場者からからかわれたり鼻をつままれたりするが、知らぬ顔で表情を変えずただじっと腰かけている。この地方では無表情の人を将軍殿のようだと言うほどである。そしてその将軍の臣下が農作業などをいろいろ滑稽な仕草で行なうものである。
 これら民間信仰の中に出てくる将軍と、先の将軍神社とは結局は同一のものと思われ、さらには橋本鉄男氏の調べられた滋賀県の将軍神社をはじめ、全国にみられる将軍信仰とつながっていることも当然に考えられる。将軍信仰を全国的視野で把えることは私の任ではないので、南九州の例に限ってその性格を概観してみよう。
 まず、宮崎県南部で大将軍様に臼太鼓踊りを奉納するという例がきわめて多いことから考えてみよう。この臼太鼓というのは鹿児島では太鼓踊りといい、熊本では楽といい、佐賀で浮立というものと同一で、背に矢旗を負い胸に太鼓を吊って鉦と太鼓を合わせて踊るものである。南九州のこの太鼓踊りを行なう行事の圏の大きなものだけを拾いだしてみれば分布地図(三一〇頁)のように三つある。
 A圏は北部薩摩を中心に南部薩摩に拡がっていて、ここでは諏訪神社の旧暦七月下旬の祭りに奉納するものだが、その圏の中に部落の開拓先祖またはそれに類するキリアケドンに奉納するのを古態とするらしい例がみられる。
B圏は北部大隅の平地で、旧暦八月十五夜前後に部落の水神(用水路付近にある石祠)の祭りをするときに踊るもの。
 C圏は宮崎南部の平地の地方を中心に旧暦八月の頃に大将軍神社に臼太鼓を奉納するもの。
 分布図で明らかなように、B圏とC圏とは地域的にひき続いている。しかもC圏の南部では祭日が八月十五夜の例が多く、しかも綱引も併せて行なう例が幾つもあり、さらに将軍様は水の神だという例もまた幾つかある。もっと興味があるのは、大将軍の祭りの日に、1・25で説明したような色紙を細長くつない大将軍旗というのを奉納して、ウマヤにも立てる例が広くみられるが、この旗と全く同一の色紙をつなだ旗をB圏では水神様の旗といって水神祠に供え、家々の井戸や用水溝の傍などに立てることである。このような相似点から考えてみて、B圏とC圏とは同質のものであると結論してよいものと思われる。
 B圏とC圏とがひき続いた同質なものだとするなら、それらの信仰対象である水神と大将軍とが同質なものと考えなければならぬ。すなわち、大将軍の第一の性格は水神的であることと言えよう。ここで深く触れることはできないが、臼太鼓などの太鼓踊りも綱引も、柱松行事も水神系の行事であると私はいろいろの民俗事象から考えている。
 大将軍が水神的性格をもつことが、大将軍を作の神すなわち農耕神とする幾つかの例の元になっていると思われる。作の神田の神というのは、水神の当然の副次的性格なのである。作の神といっても主に水田の神で、田に水を供給する神の意味であることは言うまでもない。B圏、C圈さらにはA圏までも広い水田地帯にひろがっていることはそれを裏づけている。B圏の水神も水田の神としての性格があることは、この地帯一帯で水神石祠と田の神石像が並べて祀られていることからも明らかであろう。
 南九州の農耕神には、大別して水神系のものと山之神系のものとがあるように思える。二つはその祭る季節や祭りの行事からほぼ判別できるようである。そうして大将軍様は明らかに水神系の農耕神なのである。
 大将軍様は牛馬の神、特に馬の神だという例が最も広くみられる。この馬神としての性格も水神としての性格につながっているものと思われる。鹿児島には水神が馬の神になった例がきわめて多い。水神そのものに馬の神的傾向があることも事実であるが、一方では近世のある時期に馬の病気が非常に流行して、それを除けるための信仰行事が盛んになり、神々の馬神化ということが盛んになったことが重要な原因であろう。前の馬の神の章でみたように、南九州を通じて牛馬の神というのは実に多種多様である。大将軍はまず水神、農耕神としての性格をもち、それが同じ農家の信仰する馬の神に転じたものであることは、大将軍の圏の分布をみれば周圈的にも当然に言えることである。
 大将軍を軍の神とする例や、タケミカヅチ、タヂカラオノミコトとする例は、その大将軍という名称からみても考えられることであるが、これが何故に水神的性格をもつかという点に問題が残る。ここで考えられるのは、先に書いた太鼓踊りのA圏が、諏訪神社に太鼓踊りを奉納することである。諏訪神が威の強い武神であることは言うまでもなく、その強い力で水田の害虫や干害を除いてもらうために、七月の下旬に太鼓踊りを奉納しているのである。しかもその元にはキリアケドンの御霊的性格が元になって、同じく威力ある諏訪神に移ったことが考えられる。このA圏の諏訪神に相当するのがC圏の大将軍であると思われる。
 おそらく水神に出発したと思われる農耕神が、九州の西側、薩摩側では諏訪神の威力をとり入れたし、九州の東側、日向側では大将軍の威力をとり入れたものであろう。水神そのものにそのような御霊的性格に近いような、神をとり入れ手を結ぶような要素を含んでいたと見るのが正しいのではないかと思う。九州の東岸、西岸で同質の民俗変遷がおこりながら、その神は別のものであるといったことは、私にとっては実に興味深いものがある。
 以上簡単に南九州だけの事例によって、大将軍信仰の性格を考えてみたのだが、全日本的視野に立ってさらに検討されるべきことは言うまでもない。

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