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楢木範行年譜2:昭和3年(1928)

楢木範行の年譜を作成しており、その2である。その1は、下記。

昭和3年(1928)に鹿児島県立商船学校の教諭となるが、何月に上伊那農学校を離職し、何月に着任したかは不明である。
※この点に関して、長野県立図書館へのレファレンスの回答があった。

『会員名簿 1982』 上伊那農業高等学校同窓会編 上伊那農業高等学校同窓会
1982【N376.4/155】p.21に旧職員・教諭として(在任期間大正15年~昭和3年7月)楢木氏の名前と宮崎県の住所の記載が確認できました。

ということで、昭和3年7月まで上伊那農学校に勤務していたことが分かる。また、『はやひと』2-1にも、「大正十五年國學院大學高等師範部卒業、長野県立上伊那農学校教諭を振り出しに、昭和三年八月本県立商船学校教諭に来任」とあり、昭和3年8月から鹿児島県立商船学校に勤務したことが分かる。

以下、昭和3年の新聞・雑誌への投稿を見返しながらその経緯を探っていきたい。

この時期に投稿する題材が「やきもち踊」であり、3つの投稿が遺されている。一つは「みや田清雪」というペンネームで「やきもち踊考」という記事が年月日不詳の資料がある。この内容からはその詳細は不明であるが、次に挙げる資料にこの記事の事に触れてある。

1928みや田清雪「やきもち踊考」1 (2)
1928みや田清雪「やきもち踊考」3 (2)

以下に紹介する資料は、「宮田清雪」というペンネームで「土俗学講座 「やきもち踊」を視て」という記事が遺されいるが、掲載誌は不明である。その冒頭に前述の記事の出典が「日外南信毎日』であると記されている。

1928宮田清雪「土俗学講座 「やきもち踊」を観て」1昭和3年5月25日 (2)

さらに記事の末尾には、折口信夫から請われて『民俗芸術』に投稿する事が記載されている。そのため、この時期まで折口との交流があったこと、執筆時期が昭和3年5月25日であることも分かる。更にこの次に同誌に「田植と輝との関係」というテーマで寄稿を宣言しているが、その投稿は遺されて居らず、この後、鹿児島へ移動すると考えると、鹿児島への着任が9月であることが推測される。

19280525宮田清雪「土俗学講座 「やきもち踊」を観て」3昭和3年5月25日 (2)

昭和3年7月の『民俗芸術 1-7』

19280700楢木範行「やきもち踊」『民俗芸術 1-7』昭和3年7月_ページ_2 (2)

『民俗芸術』は、昭和3年1月に民俗芸術の会が地平社書房から創刊した雑誌である。その内容について、雑誌の広告には、次のようにある。

文書名小寺融吉『民俗芸術』地平社書房、昭和4年digidepo_1452710_PDF (2)

編輯者は、小寺融吉である。小寺融吉と雑誌『民俗芸術』については、鈴木正崇「「民俗藝術」の発見 ―小寺融吉の学問とその意義―」に詳しい。

http://meijiseitoku.org/pdf/f52-3.pdf

雑誌には、投稿規定などはないことから、小寺融吉・柳田国男・折口信夫らが推薦して、執筆者を決めていたのであろう。

昭和3年1月の創刊号(第1巻第1号)には、巻頭論文に折口信夫「翁の発生」、続いて柳田国男、その他、早川孝太郎などの名が並んでいる。第1巻第3号には折口は、「翁の発生」の続編を寄稿している。
その次の投稿が第1巻8号の「無頼の徒の芸術」であるが、第7巻と第8巻は「諸国盆踊号」とされ、2号にわたる特集である。その7号への執筆を折口から楢木に対して執筆依頼があったということであろうか。

楢木は、この後、「鹿児島神宮の馬踊り」『民俗芸術2-5』昭和4年5月
、「田ノ神掠奪その他」『民俗芸術2-6』昭和4年6月、「古琴節・ションガ節・其の他」『民俗芸術2-10』昭和4年10月、3回投稿する。

楢木範行の昭和3年の投稿は、「やきもち踊」が最後である。9月に新任地、鹿児島商船学校へ移ったとしたら、多忙などで執筆ができなかったのだろうか。昭和4年の執筆は、前述の「鹿児島神宮の馬踊り」『民俗芸術2-5』であり、その後、立て続けに学会誌に投稿を始める。

ちなみに「やきもち踊り」について、楢木範行の記事が紹介されていないか、伊那市立伊那図書館にレファレンスしたところ、下記の回答があった。

当館所蔵の資料『伊那街道 ふるさとの道』柿木憲二/著 (1981年 伊那毎日新聞)「やきもち踊り」の中に、「「やきもち踊り」については昭和初年の「民族芸術」第一巻七号に、楢木範行氏がその歌詞と踊りの状況を
箇条書きにまとめて発表しているし…」「楢木氏は日本民俗学に貢献のあった人で、宮城県の生まれで、国学院大学高等師範部を卒業してのち、二年半ほど上伊那農学校に在職していたことがあるので、恐らくそのときにこの踊りを採集したものだと思う。」という記述がありました(48p)。これは「伊那路」という雑誌の1976年9月号の記事を本に載せたものです。

この本は、国会図書館でも閲覧できた。


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