田中熊雄「「浜くだり」の習俗」『日本民俗学会報 9』昭和34年10月
”浜くだり”の習俗
田中熊雄
宮崎海岸周辺の神社祭礼の御神幸は浜くだりすることが多い。浜くだりという詞は神社の祭礼行事の意味にも用いられる程一般化しているのである。又一方宮崎市阿波岐原町、山崎町、村角町、住吉町の一つ葉海岸沿いの、又それに近い部落の人々の中に今も尚若干継続されている"浜くだり"行事は、個人乃至は家族の夫々が海浜に現実に出かけて行う禊祓いの行事であり、前者と関係深い単独性信仰行動としての浜くだりで、実修態度は別概念によるものとして以下この習俗事例の二三を説述したい。
(一)陰暦月の一日十五日定例浜くだり
太平洋戦争中或は終戦後も引続いて、その実修を欠かさない老婆の浜くだり実修をそのmodel caseとして記録した。
当日提げて出かける二個のシオツト(マサゴ)にしお華を入れて持ち帰ることが重要な使命でもある。
それは材料の藁(スグリワラ)二〇数本、その根もとを截りとつて五〇糎~八〇糎の長さに残し、根と端より一六糎の箇所を"藁すぼ"でくくり、包み込む如くに折り曲げ、元から十一糎程度の所で再びくくり、その間の中央を舟底形に折り開き、上方二分して夫々撚りをかけ、繩状にして提げるのに都合よくする。早朝、日の出の刻、緩傾斜の砂浜に、はぎ物を抜き捨て、シオツトをかいばさんで波打際に進み、小波転びよする波端に素足を浅く踏み入れ、何の躊躇することもなく、素早く両掌を中くぼみに揃えて、潮水を抄いとつて嗽いする心には、眇茫洋々として視界もとどかぬ太洋の神秘の中に禊ぎの実修開始を示しているのであった。そこには海水の汚穢なるもの、不浄なるものとの都会的工場都市周辺海水に対する意識の片影すらも認められない。絶対なるきよめの力の信仰なのだろう。湖水と嗽い、何の批判もなく、自然にひたむきに行われる。次にマサゴが用意されて祝詞が唱へられる。
"高天原に神づまります、かむろぎ、かむろみの、みことをもちて、すめみおや、かむいざなぎのみこと、ちくしの日向のたちばなの、おどの、あわぎが原に、みそぎはらいたまうときになりませる祓戸の大神たち、もろもろのまがごとを、つみけがれを祓いたまえきよめたまえと申すことのよしを、天つ神、国津神、八百よろづの神たち、ともに、あめの、ふきごまの、みみふりたてて、きこしめせと、かしこみ、かしこみ、もうす、
と唱えて、持参の、マサゴ(シオツト)に潮あしの、おおいかかつて洗いきよめられた砂・・・それがしお砂であり、しお華又おしおである。ただなる砂ではない・・・を抄い入れて一回目、再び祝詞を唱えておしおを抄い入れて二回目、三たび祝詞を唱えて、しお華をマサゴに抄い入れて三回目、しお砂を充たし終るのである。かくして、しお華は二提げのマサゴによつて持ち帰られる。おしお採取が終ると波しぶきを、さけて敬虔な四方拝の実修が行われる。帰路に及んで途中部落の神社に参拝して一提げのマサゴを供えて社域神殿を祓いきよめて家路につく。
家では天照皇太神、御大師様、仏様、荒神様(釜場)、水神様(井戸)、ゆろり(いろり)、湯殿、厩、鶏小屋、便所(ここにはおしおをつまんでいつて撒く、しおつとを持ち込まない)等の神聖なところから不浄ヶ所まで、すみずみに及んで、おしおを撒く、撒くことが浄め祓いを行うことの意識なのである。残りのおしおで本家に祀る氏神様を祓い浄め、祝詞のまつりの中でマサゴはそのまま供へ納めて、次期に及んでとりさげられ人の踏まない附近の藪木に吊りかけ廃棄処分されていく。かかる家での祓いの順序は氏神様を最初に行う家もあり、最初か最後かの何れかに順序づけられているようである。月の一日、十五日はかかる浜くだりの実修がくりかえされている。
(二)氏神祭祀と浜くだり・・・附"シトギ
同姓氏族団(血縁的同姓と非血縁的同姓とがある)は本家分家の関係のもとに、四五軒位を近接地屋敷内協同体的形態のもとに生活するのが一般的で、本家もしくは或る事情によっては、分家に氏神を祀り、毎年交代制で一一月二六日(阿波岐原町の祭日、部落によつて異なる)を例祭日としている。この日、早朝既述の如く浜くだりの実修を終る。祭主をはじめ、同族各戸更に嫁入出先からも里帰りして祀りに参加する。当日参加する親戚は、米一升持参するの習いである。
特に祭礼当日、氏神に献供する品には、注目すべきものがある。シメ縄をとり換えて祠を清掃した準備のとどいた氏神様に、おごく(赤飯)白ごはん(或は饌米のまま)御神酒、シトギ(ひとぎ)等を供え、ほりどん(神官)による祝詞の裡に祭典が進められる。古い時代からの食物として、シトギは特別の趣向をもつて作り、供えられるのである。適量の白米を一晩中水に浸しやわらげて、臼(古くは大臼手杵―今は石臼柄杵を使用)で粉搗いてねばりを出し餅のように固めたもので、楕円形に二個を作り、他の供物と共に祀り場に運ぶ。神官の手によって竹篦を用い、シトギは菱形に細分割してその一個ずつを木地(浅い木製皿)に盛ったおごくの上にのせて神前を飾る。木地は氏族戸数だけが準備され、残りの分割シトギは近所、親類等におごくと共に届けられ、又子供らに分与される。このシトギを搗く人々は両親の揃った人がえらばれて、しかも搗き終つた臼杵は二三日間そのままにして、すぐ取かたづけないものだと云われている。
(三)旧六月夏祭(おんばれ様)・・・・附チノワクグリ
江田神社、熊野神社、高屋神社を奉祀する。阿波岐原町、山崎町、村角町の氏子には古くから"おんばれさま"と称して、六月晦日の前日夕刻、浜下りの風習が今も尚多くの人々によって続けられている。“フテッコッ云わんようにステッツくる“といつて各種の曲ごとを涙くだりによって一切捨て去り、さつぱり祓い浄める精神なのであるらしい。六月晦日、前日の夕刻、一日の仕事も終り、思い思いに部落近くの浜辺に出て打寄する波のしぶきに素足を踏み入れ、嗽いに始まり、しお華を掬いとり、両の肩、頭上正面にふりかけて全身の祓いを行い、天神社殿に祈願して帰る。
この時常例のマサゴにおしおを採取して家に持ち帰ることをしないのが相異する。凡てを祓い捨てて、何物も残さない。後すら振らないで家に帰るものだという。その態度が大祓い(おんばれ)の姿だという精神である。江田神社ではその夜引続いて拝殿板の間において忌籠りを行い。翌晦日の祭典を迎える。これを"おつうや“といい、浜くだりを終った大人や子供混りに神酒を献じて歌もうたい、四方山話に花を咲かせて一夜中もしくは一時の間、外部の穢をさけて物忌に入り慎んで。晦日の祭典を待つのである。
神霊をかしこみ、おそれて潔められた身心のまま祭りの行事に参列する。
この時の浜くだりは晦日祭典出席の予備行為としての祓いであり、準備の日であった。
茅の輪くぐリ・・・江田神社にはこの日夏祭りの祭典、所謂庶民の言葉としてのワクグリ行事が今も実施されている。藁で縄をない、所々に茅をはさみ着け茅の輪を作り神前にお供えして祓い浄め、茅の輪くぐりの祝詞の後に、茅の輪をとりさげ拝殿広間において、先神職者の輪くぐりの後、参拝者一同可能な人数が同時に次々に繰りかえして進められる。その方法は、ワクグリする者、即ち氏子同志茅の輪を捧げもつて、左足よりくぐり入れ、右足よりくぐり抜けることを三たびくりかえして行うのである。今は唯黙々として実するけれども、輪くぐりの時の神歌か、或る唱え詞が存したのではあるまいか、子供らには新調手織りで親心のこもった着物(いいきもん)を着換えさせ、輪くぐりのおはらいさまに列席させることが親子共々のよろこびでもあり、又礼儀とも考えられ、多数の子供が先を争い、我れ勝ちに又幼児は親が抱きかかえて、茅くぐりするのであった。かかる熱中する行動の中には芽をくぐれば病気しないで健康であるという念慮が茅くぐりに対する常民の心の持ちかたであったことを古老は物語っている。江田神社における夏祭りは前日の夕刻の浜くだりに始まり、次に神社拝殿でのおつうや行事、明けて晦日の茅の輪くぐりの祭典を最終的第三節の段階として、おんばれさまの目的を遂げ、その精神的安穏を享受するのである。
浜くだりの行事は阿波岐原町山崎町、村角町の人々がひとしく実修しているのに反して、茅の輪くぐりの神事を執行しているのは、阿波岐原町の江田神社においてであり、前者の一般性に対して後者は特殊である。その発生の先後、地域限定如何の問題が課題として残る。
(四)その他定例
浜くだりとして年中行事の中の祝事(三月三日のひなまつり、五月五日のこいのぼりなどの節句)五穀成就の願行事、部落所属の神社の例祭日などに行う。
臨時的のものに
(五)伊勢講代表者のはまくだり
阿波岐原町、山崎町寺、伊勢講の構成人員は、約三七戸位のもので、部落戸数の八割程度に相当する。その中から首尾人(世話係)として年長者の人望ある者を推薦決定する(昭和四年当時出費額五円)。代参者は講中から毎年二戸を抽籤決定して、一戸から夫婦揃つて出かけることが普通であり、三月十日頃の好日がえらばれた。その門出でに当つて浜くだりの実修が行われる。
代参者の家では、縁側の柱と柱の間にシメ縄を張り渡して門出の場所の準備をととのえ、出発当日、早朝浜くだりをすませて身を浄めた代参者は、神官からの祓をうけて、縁側のシメ縄をくぐり抜けて門出する習いである。
そこは参拝出張期間中通り抜けを禁止し、聖なる処として保ち続け、代参者の帰りが待たれる。留守家族は毎日浜くだりして、しお華で身心並に家居共に清浄に努めて、その無事を祈って慎重である。又一方諾中仲間は所属の神社に参拝し、又代参家庭に対し、米一升持参して留守見舞をする。代参者出発に際して仲間の者が伊勢琴平様等に賽銭を依頼して、その信仰心を充たすことも行われた。
代参者は伊勢にお参りした認証を代参帳にうけることが必要であり、その為には、九州地区、参拝者の案内係主任神官、福島御崎太夫なる人が事務所を構えて指図した。その認証記帳をうけ又希望の接待を受けたのである。接待には本御供、半御供の二階級があり、食膳の品等、案内の方法等、その規定によって異なっていたという。使命を終り、帰宅に際しては近くまで講中仲間の出迎えを受け、門出の時のそのままに保存されたシメ縄をくぐって家に入る。翌日代参者は浜くだりし、又講中一同の者は神社に集合し酒迎えをして無事に使命を果たしたことを祝い合い、代参中の模様について語り合い、次期代参者の抽籤決定をも行われて、神恩感謝の裡に代参行事を終了する。
臨時的なもので既に述べた、浜くだりとは一寸仕草の異なるもの次に述べる。
(六)葬式とくだり
葬式の翌日、家族全員、或は会葬者全員浜くだりして、素足を波打際に踏み入れて湖水の少滴を体にふりかけ、身を浄める。この時祝詞を唱えたり、四方拝などの実修を行わない。又普通浜くだりの時に用意するマサゴ(シオツト)二提げを持参して、それにシオ華を採取することは止める。けれども浜辺に散在する貝殻を拾ってそれにきよめの砂を採取して帰り、又貝殻の有無をおもんばかつてマサゴの大きいもので一提げ持参しきよめの砂を採取することもある。家では氏神様にも関係しないまま、家の中、葬儀関係衣類、浜くだりのできなかった人々をも併せて、きよめの砂できよめてやり又神官の不浄払いをも行って、黒不浄を祓いきよめるのである。以上のこれら浜くだりは、薄明の道を通る時もあり、田圃道の途中の災難をさけようとする心遣いがある。
(七)浜くだりと呪言
途中“いたち”に横ぎられると、不吉があらわれるので、次の呪言三回を繰り返して称れば難をさけらると信じられている。
“いたちよこぎるな
わがいく先はあららぎの里
アフラウンケン ソワカ“
又ゆたて(細長い虫)がよこぎった時、
"ゆたてよこぎるな
おみち小道よこぎるな
我が行く先はあららぎの里
アブラケン ソワカ“
と三回となるなど、日向における阿波岐原とその周辺に今も尚生き続ける。はまくだりの実修は、この地が伊弉諾尊禊祓いの伝説地と称されることから、その神々の話が地理的環境をも考慮の上、この浜くだりの習俗を発生させたのであろうか。原住民の浜くだり習俗が神話を産む基礎になったのか。即ち、神話的習俗か習俗基礎の神話なのか思いめぐらして興味尽きない。(一九五九・八・一〇)(宮崎市神宮町一四三)