宮崎県における出産の習俗
以下は、『宮崎県史 別編』草稿である。引用の際には原文を確認下さい。写真・表などは後に挿入します。
本稿では、出産の習俗のなかでも、特に産婆に焦点を当てて、その実体と変容について整理していく。
【産婆の呼称】
『日本民俗学事典』には、産婆について「一般に出産に伴う分娩を助ける職業の女性を産婆といっているが、古くは職業的な産婆は少なく、経験を積んだ集落内の老女に頼むことが多かった。これを一般にはトリアゲババといい、中国・四国地方ではヒキアゲババ、九州地方ではコズエババなどと呼んだ。」と記されている。産婆ということばには、産婆が出産に携わる女性という広義の意味と免許制になってからの狭義の意味と別次元の意味が併用されている。ところが、一般に産婆という名称は民俗学の学問的な用語としては前者の意味を通常使用されつつも、事例分析に関しては暗黙の内に後者の産婆にも前者の意味を重ね合わせてしまう傾向があった。そこで本稿では、まず、宮崎県の事例を中心に、産婆(出産に携わる女性)の習俗及び実態を整理し、その産婆の時代による変容を文献的に把握し、それをもとに一人の産婆を取り上げることで具体的に産婆の習俗の何が変容して何が維持されてきたのかを明らかにしたい。
宮崎県内での産婆の呼称について『民俗事象調査』(宮崎県教育委員会)で見てみると、主に産婆・トリアゲババ・コズエババの三つに分類できる。その分布を地図化したのが図1である。
地図にはトリアゲババ系とコズエババ系のみを記した。産婆という言葉は、助産婦に通じる職業的存在との混同が見られ、現在標準語として使用されているので割愛し、その言葉の変化については後述する。コズエババ系のものとしては、次のような呼称がある。
コジババサン(串間市福島南方)・コジババ(串間市都井大納・串間市市木)・コジバサン(延岡市赤水)・コジバサン(延岡市行滕)・コズエバアサン(えびの市真幸岡松)・コズバアサン(東郷町山陰)・ゴセババ(串間市福島奴久見)・ゴゼババ(川南町通山)・コゾエバアサン(高城町大井手)・コゾエ(高原町蒲牟田狭野)・コゾエババ(高岡町浦之名瀬越)・コゾエ(都城市太郎坊町高木)・コウジバサン(北川町俵野)。トリアゲババ系は、トリアゲバアサン・トイヤゲババ・トリアゲバサンなどである。このほか、コマゼババ(日南市大窪)やコトリバアサン(国富町)などがある。
【出産と産婆】
明治後期から戦前までは、免許を持った産婆に出産を介助してもらう機会がなく、近所のお産に詳しい経験を持った女性が出産にあたった。『民俗事象調査』には、次のような記述が見られる。
「お産は、臨月まで農作業をしていて、特に休んでいた者はいない。産気づいてから近所の手慣れたおばさん(トリアゲバサン)に来てもらい納戸か表の間にムシロかゴザを敷き、カマスなどを置いて握らせ、力綱の代わりにして、産ませた。難産の時以外は正規の産婆、医者などにはかからなかった。」(日向市平岩鵜毛)
「自分で、出産した子のへその緒を切って、子を洗ったという。一般にはトイヤゲババと称する出産になれた人を頼んだ。」(都城市夏尾町西岳)
「助産婦がいなかったので、ゴセババといって助産婦のかわりをする老婆がいた。この人がお産をさせたり、へその緒を切ったり、赤ん坊を洗ったりした。」(串間市福島奴久見)
「助産婦の開業者がいなかったので、その代わりをするトリアゲババと呼ばれる老婆がいた。お産をさせ、へその緒を切って、産後一週間ぐらい湯浴させた。」(串間市北方)
以前の出産には、当時から免許を持った産婆はいたにも関わらず、経済的な理由や産婆の絶対数が少ないこともあって、地元のお産に詳しいとされる女性が当たることが多かったようである。ただし、こうした介添え者の持つ知識はその土地の慣習を反映したものであって、現実には不幸な状況をもたらすことも少なくなかったようである。
「コジババとは産婆さんのことだが、職業としてではなく、器用な人でお産の手伝いをする人。へその緒はハサミなどで切ると出血するので、竹のヘラで石の台の上でこさぎ切った。出産は納戸でするものとされており、出産が始まると籾殻をカマスに入れた物を二俵立て、産婦はそのカマスに体を横にして、寄り掛かって出産した。」(都城市太郎坊町高木)
「分娩は産婆さんを頼んだが、車とてない当時のこと、間に合わないこともあった。しかし、近くに「子とり婆さん」と称される人がいて、いろいろ手伝ってくれた。後の始末に、ぼろ布を使うなどの不衛生的な処理をしたり、産後早くから身体を動かしたりしたので、産じゅく熱が出たり、いわゆる「産後の肥立ち」が悪く、死んでいく人もあった。」(『くにとみの概要・くにとみの歩み』)
全国的に聞かれる「産女」の伝承は、こうした出産の困難さに起因して発生したものであろう。また、沢武人氏は次のような報告をしている。
「西米良の老人夫婦から聞いた話ですが、当時、西米良には産婆もいず、妊婦は子供が何時産まれるのか、全く知らなかったといいます。ですから、独りで作小屋に仕事に行き、そこで独りで子供を産んで、六キロ以上もある山道を、赤ん坊を前ダレに包んで、下りて来ることさえあったそうです。赤ん坊の泣き声が夕暮の静寂の中、怨々と聞こえていたといいます。」(『宮崎県地域史研究会会報二』昭和五一年)
また、なかには「馬小屋の片隅で出産。明治中期以降は押し入れ。」(三股町長田)などの例もあったようである。出産にたいする負のイメージは強かったのである。
【産婆の子育てに関わる習俗】
出産がいよいよ近づくと妊婦の家の者(主に夫)は産婆さんを呼びに自転車で出かけるものであったという。産婆さんが妊婦の家に来ると、その家の者は伝統的習俗を実行に移すべく行動を始める。ところが衛生を第一に考える免許制度の産婆さんは、そうした伝統的習俗をある部分は受け入れ、ある部分は廃止すべく教育していこうとする。
廃止された習俗でまず上げられるのが、生まれた赤子には蕗の根の汁を飲ませるというものである。赤子が生まれて、何をしてよいか分からない夫にできることはフワブキ採りぐらいしかなかったとも言われていた。その後、ツワブキの根の汁に代わって、砂糖水などを脱脂綿に含ませて飲ませるようになる。
産婆さんが衛生的にも、習俗的にも容認せざるを得なかったのが、後産の始末であった。後産は、昔はエナやイヤなどと呼ばれた胎盤であり、これが出ることでお産が終了する。宮崎県内でのこの後産の始末については図2に示す分布がある。
主に、「床下に埋める」か「墓に埋める」の二つの方法が多く聞かれる。床下とは、古くお産の場であった納戸の床下が多かった。家の中では他に土間や入り口などがあった。屋外では、便所や馬屋の脇に埋めるなどの事例も多かったが、西米良村や川南町では畑に埋めるなどの例もあった。墓に埋めるのは、納戸とも共通するが、異界、つまりあの世との出入り口と考えられていたからと解釈できる。衛生上の問題から以前納戸の床に埋めていたが、墓に埋めるようになったという事例が多いことは、納戸に代わる異界との通路に墓地が選ばれたといえよう。以下、『民俗事象調査』より特徴的な事例を上げる。
「ワラツトに入れて納戸の下に父親が埋める。埋めたところを踏むと親にそむかないと言う。」(串間市福島奴久見)
「夫が墓地にソーメンの箱に入れて埋めた。犬が掘らないように上に古い墓石を置いた。」(串間市北方・市木)
「父親が納戸の床下に埋め、足でドンと踏み付けておかないと「トトを見限る」といった。家によっては墓に埋めるところもある。」(都城市太郎坊町高木)
「戦後改築して整地した際、埋められてあった壷が出て来た家が数軒あった。」(西都市都於郡)
「土間(トヂ)のワラたたき石の下に埋めた。」(西郷村田代・山瀬)
また、産婆は、出産の分娩に関わるのみならず、取り上げた子どもの生涯に関わる重要な存在であった。まず、名付け祝いに呼ばれる。
「名付け祝いにはコジババサンを招いて祝った。」(串間市福島南方)
「一四日以内に、コジババを招いて名前を付けて謝礼をした。」(串間市都井大納)
「名付け祝いにはコゾエババも呼んで祝う。」(高岡町浦之名瀬越)
名付け祝いにおいて行われる儀式にも産婆の参加が見られる。例えば、弦音(つるおと)とは、宮中で行われる鳴呟の式に似た習俗で、宮崎市や西都市などで行われる。式の次第は、まず産婆がその年のあき方に向かって新生児を抱き、前方に箕(セクモン)を立てて座る。これに相対して両親がそろって他の童子が座る。童子は桑の弓及び竹で作った矢を二本持つ。童子が「男の子か、女の子か」と尋ねる。宮崎市では、反対を答え、西都市ではその通りのことを答える。産婆の答えと同時に矢を箕に向かって放つ。次に「名は何と付けたか」と童子が尋ね、産婆が答える。次いで童子は今用いた矢二本を持って、戸外に出て、宮崎市ではその家の鬼門の方向に向かって、西都市では家の棟を越させるように、「悪魔を射祓う」といいながら、第一の矢を放ち、第二の矢は弓とともに床の間に飾る。童子の質問も産婆の答えもともに節を付けて言うことになっている。(『宮崎県医史』)
【間引きと産婆】
近世期から現代に及ぶまで様々な理由を持って、堕胎や間引きという行為が続けられてきたが、その背景に出産に携わる者の介在があったことが指摘されている。
「古来の地方の諺に「人口三万を超過すれば藩は維持(でき)ぬ」といい、「一家三人の子を育つれば家の衰微」というがあるは周知のことなりき。明治維新以前には、実際一家に三人以上の子女を有する家庭は甚だ少なかりしは事実なり。この古諺、この事実は経済上の原因に基けるは言をまたず。佐土原領内においては、それらの因習的原則とでもいうべきものに支配せられて、間引きということ行われたり。間引きとは蔬菜類の間隔を疎にする意味に用いらるる言葉にして、立木の間伐にも用いらるるなり。間引きと称する人事上のこの言葉は産児制限の意なり。即ち堕胎、生児圧殺等の方法を用いるなり。医師、産婆等この技術家たり。固よりその産家の父兄、産婦、夫妻等の意をうけてこれを為すなり。一に「へし児」、又略して「へし」と言う。「へし」は方言押すの一層強き意に用いらる。即ち押し殺すの意なり。他の家に産事あるときは育ちしや否やを問うこと普通なり。育つとはその生児を生かし置くの意に用いらる。この習慣は公然の秘密にして人も我も敢て怪まず。従って藩の法律も全く不問におけり。武人の家にてはこの間引きを躊躇するを卑怯未練とそしらるるか、然かく自ら感ぜしむる程度に達し居り、若き夫婦が老親、舅姑にせまられて、涙ながら産褥にて産婆に施行せしめし例をきかされて、今なお耳朶に新たなる所なり。島津忠寛公は安政六年十一月二十八日付にてその禁令を発せられしが、因習の久しき容易に根絶せざりしが如し。(「佐土原藩雑聞 第五輯」)
堕胎や間引きは全国的に見られる事例であり、そうした古い因習に従わない科学的な存在としての産婆を養成する必要があった。古来より引き続けられてきた産婆の慣習に対しては、幾度にもわたって政府の指導が行われ、次のような太政官布達が出されている。
・明治元年十二月二十四日
「太政官布達
近来産婆ノ者共、売薬ノ世話又ハ堕胎ノ取扱等ヲ致シ候者コレアル由相聞ヘ、以テノ外ノ事ニ候。元来、産婆ハ人ノ性命ニモ相拘ハル容易ナラサル職業ニ付キ、タトヘ衆人ノ頼ミヲ受ケ、余儀ナキ次第ニコレアリ候トモ、決シテ右等ノ取扱ヲ致スマシキ筈ニ候。以来、萬一右様ノ所業コレアリ候ニ於テハ、御取糺ノ上キット御咎コレアルヘク候間、心得ノタメ兼テ相達候事。 明治元年十二月二十四日」(『南那珂郡医師会史』南那珂医師会、平成四年)
ここでいう「産婆」とは、許可制がひかれていない時期であることから子供を取り上げる女性一般を指している。明治六年四月の「堕胎・洗子並棄児取締規則(本庁ヨリ布達・都城支庁)」には、「正副区長並戸長ヨリ丁寧懇切ニ此旨ヲ説諭シ爾後心得違之者無之様」と消極的な形ながら、別紙規則として六つの項目が挙げられている。「一、村々町々ニ於テ兼テ五人組立置、其伍中懐妊之者アル時ハ五ケ月目ニ当リ候節、同伍ヨリ戸長江届出、戸長之可簿記事」などと戸長にその責任を任せていた(『南那珂郡医師会史』)。
明治九年八月(庶第七三号 各区ヘ)になると、具体的に産婆などへの積極的な堕胎や間引きへの規制が始まり、次のような法令が出された。
「堕胎・洗子・棄児等ノ天理人情ヲ滅スルハ論ヲ俟タス、夫レ此悪風ヲ来スノ源ハ貧窮ニシテ鞠育ノ力ナキト私生ノ不義ヲ恥チルトニアリ、流俗ノ久シキ悪風更ニ悪弊ヲ生シ、貧窮ニアラス私生ニアラスシテ、一婦多子ヲ産スルヲ恥チ亦此猛悪ノ事ヲナスニ至ル、実ニ冥頑ノ甚シキ事ニ候、当県、従来此悪風有之哉ニ付、去ル六年四月其取締規則相達置候處、今般更ニ下記ノ通リ規則ヲ設ケ候條一同堅ク相守リ、天理ニ従ヒ親子ノ情ヲ遂ケ候様可心得、此旨布達候事、
明治九年八月十四日 宮崎県権令 福山健偉」
この法令にはさらに細かく条文が添えられ、産婆に関しては、第二条・第七条に触れられている。第二条では、
「第二条 尋常出産ノ届ハ成規ノ通リタルヘシト雖トモ流産並死体出産・産後即時ノ病死等ハ翌日迄ノ内、戸主或ハ親戚等ヨリ證書ヲ以テ事状ヲ具シ、(中略)但シ戸主等ヨリ出ス書面ニハ施治ノ医案或ハ産婆ノ證書ヲ添ユヘシト雖トモ其手数ニ及ビ難き場合ニ於テハ同伍ノ證書ヲ附スヘシ」
のように、出生証明書を産婆が書くことができるとしている。また、第七条では、
「従来ノ産婆ハ勿論、今後産婆タラント欲スル者ハ医務取締並区戸長に於テ其人品技術ヲ取糺シ、堕胎・洗子等不正ノ所業一切致ス間敷證書ヲ出サシメ、県庁ヨリ免許鑑札ヲ渡スベシ、無鑑札ノ者ハ産婆ノ業ヲナサスヲ禁ス、若シ之ヲ犯ス者ハ相当ノ處分ニ及フヘシ、但シ免許鑑札ハ料金ヲ納メシメス」
とあり、初めて免許制度を導入するに至っているが、まだ、専門的な産婆の教育はなされておらず、いわゆるトリアゲバアサンが希望して鑑札を得るという程度のことであった。
この後、産婆が専門的な教育を受けた上で処置を行うようになるのは、明治二十三年頃からの産婆講究会の発足による。
「昭和四年の産婆試験の要項と受験人心得」には、身元証明書として「堕胎の罪、産婆の業務に関する罪及び禁錮以上の刑に処せらるべき罪を犯したることの有無に関する本籍地市町村長の証明書」が必要であるという記述がある。昭和四年当時、免許を持たなかった産婆に堕胎や間引きの慣習がまだ残っていたことを示していると言えよう。ちなみに、「昭和四年四月施行本県産婆合格者調」(表1)によると、「学校ニ出デズ医院産婆ニ就キ修業セシ者」の合格者は0名(合格総数六三名中)であった(『宮崎県医史』)。この頃になると、トリアゲバアサンが簡単に免許を取ることが難しくなっていることが分かる。
【トリアゲババから産婆へ】
『民俗事象調査』によると、産婆の普及に関しては次のように地域差があったことが分かる。
「助産婦が来るようになったのは、大正ごろからで、それまではコゾエ、トイアゲババと称するお産に詳しく、慣れた女性を頼んだ。」(都城市太郎坊町高木)
「戦後から産婆にかかるようになり、現在では家でお産するものはなくなった。」(日向市平岩鵜毛)
「お産の介添え・手助けはすべて産婆がした。産院に入院してお産をするようになったのが、昭和四十二年ごろからで、産婆の最後は昭和四十七年である。」(西米良村小川)
例えば、都城市が大正時代、日向市が戦後から、西米良村が昭和四十二年頃と、宮崎県内でも産婆あるいは助産婦の普及には地域差が大きかった。
【産婆学校の設立】
産婆学校設立の歴史について『宮崎県医史』『宮崎県大百科事典』をもとにここでまとめておく。
宮崎県立産婆養成所ができる以前には、各地方の産婆の技術向上を目指すため、産婆術講究会を開いていた。
「産婆術講究会に関する要項
1、産婆術講究会は開業産婆及び産婆志願者をして其業務に関する学術を講究せしむるものとす、
2、産婆講究会の位置を定むること次の如し。但し宮崎、北那珂、南那珂、児湯、東臼杵各郡は其講究会区域を定め予め届出で且郡長及関係町村長に報告すべし
宮崎郡 宮崎町、広瀬村 南那珂郡 飫肥町、福島村 北諸県郡 都城町 西諸県郡 小林町、加久藤村 東諸県郡 高岡町 児湯郡 高鍋町、下穂北村 東臼杵郡 延岡町、富高村 西臼杵郡 高千穂村
3、産婆術講究会は毎月二回之を開くを例とす。但し土地の状況に依り毎月一回之を開き其日子を二日以上とするも妨げなし
4、産婆術講究会の期日及び会場は予め之を定め届出づべし
5、産婆術講究会の講師は各医会に於て選定し其氏名を届出づべし
6、各医会に於て講述に充つべき教科用書及試験法を定め届出づべし
7、試験合格の者には次の書式に依り修得証書を附与すべし。但し試験問題並に合格者の氏名は其時々届出づべし(証書式略)
8、前各項の届出は開会場所在の町村長及郡長を経由すべし」
宮崎県連合医師会(現県医師会)は明治二二(一八八九)年創立以来、毎年のように産婆養成を県に建議し、医系県議田村義雄の活動もあって、明治四二(一九〇九)年宮崎町瀬頭に宮崎県立産婆養成所(所長中元寺長風、講師は医師安藤保、佐藤己之助、薬剤師植松政治郎、産婆一政すえ)が開所した。修業一年で、年々二〇人前後の卒業生を出し、大正九(一九二〇)年に産婆看護婦養成所と改称し、翌年県病院開院と共にその附属産婆看護婦講習所に吸収された形で閉所、一二回生をもって終了する。その後、県病院内の附属産婆看護婦講習所として改称吸収された。
この閉所により産婆・看護婦が不足したため、大正十年四月、宮崎市郡医師会講堂を校舎に当て、修業年限一ヵ年定員五〇名で、午後七時より三時間の夜間授業を開始した。宮崎市宮崎郡医師会長綾部千平の主唱で大正一一年四月私立宮崎産婆看護婦学校が産婆養成所跡に創立される。志願者の激増にともない、大正十五年より定員を一〇〇名とし、新しく産室一棟を建設して妊産婦の収容にあて、実習訓練の充実に努めた。宮崎市郡医師会と同様に東臼杵郡医師会(延岡医師会)、都城北諸県郡医師会においても同様の産婆養成学校が設立された。児湯郡医師会産婆看護婦学校も設立された。私立宮崎産婆看護婦学校は、一九五〇年(昭和二五)三月の第二九期生を最後に閉校した。講師は医師会員が務め、最終期には医師夫人、子女が短期特別講習で資格取得に努力した。戦後の制度改革によるもので、このあとに准看護学校が誕生することとなる。
昭和四十五年四月には宮崎県立宮崎保健婦助産婦専門学院は県立宮崎病院の敷地内に保健婦助産婦看護婦法及び同学校養成所指定規則に基づき、昭和四十五年三月十日厚生大臣の指定許可を受けて県内唯一の保健婦及び助産婦養成施設として発足した。
【産婆から助産婦へ】
産婆から助産婦への言葉の変更は、古い因習にとらわれた産婆という言葉のイメージを払拭するために行われたと考えられる。昭和二十二年以降、「産婆」という言葉に替わって「助産婦」という言葉が使われることとなる。助産婦の名称が用いられるようになり、資格も厳しくなった。現在では県立宮崎保健婦助産婦専門学院で養成されている。
現在、助産婦は病院・診療所に勤務する人、独立して助産所を開業している人、市町村母子健康センターの助産部門の責任者になっている人、などであるが、いずれの場所でも、妊産婦に保健指導や育児相談を行い、正常なお産の介助を責任をもって行い、出産後は母乳の与え方、風呂の入れ方など手をとって指導している。(『宮崎県大百科事典』)
【母子健康センター】
母子健康センターには、保健指導部門と助産部門があり、助産部門では助産婦が正常出産を介助し、赤ちゃんの保育について、母乳の与え方やお風呂の入れ方などを指導し、母子の管理、保健指導を行っている。特に医療機関に恵まれない山間僻地においては妊婦が安心して入所し、お産ができる助産施設として役割を果たした。センターが設置されていたのは、北郷村・須木村・清武町・高岡町・北浦町・五ヶ瀬町・野尻町・都城市・山田町・諸塚村・綾町・高崎町・高原町・北方町・北川町である。産婦人科の普及とともに廃止されているところもある。
母子健康センターの例として、野尻町をあげる。母子健康センター設立以前は、ほとんどが自宅分娩であったが、昭和四十二年の設立後は、すべての妊婦はこのセンターに入院し、出産及び産後の数日間をここで過ごした。野尻町内の助産婦、岩切ハツエ(三ヶ野山)・酒井ハル(東麓)・原田ユキエ(東麓)・永田シズエ(紙屋)の四名がセンターの助産婦として交代制で勤務した。それまでの自宅分娩では、妊婦から連絡があるのを自宅待機しなければならないため、自由に出かけることはできなかったが、センターができてからは交代制のため計画的に休日を取ることができるようになった。センターには六室あり、一八人を入院させることができ、多いときには一五、六人入室していた。センター設立の目的は、健康・衛生的な面と経済的な面で、自宅分娩より善いと考えられたからのようである。
【産婆長友タケヲさんの経歴】
次に宮崎市青島に住む助産婦長友タケヲさんの経歴をもとに、産婆から助産婦への移行の過程を見ていく。
長友タケヲさんの経歴は概略以下の通りである。
大正五年三月十五日、旧青島村(現宮崎市青島)に生まれる。
昭和十三年九月、産婆看護婦学校に入学する。まったく縁のなかった産婆に友人の入学を聞いて興味を持ち、二学期生として九月から入学した。当時の産婆学校は二学期制で、四月と九月の入学があった。翌年九月に産婆看護学校を卒業し、十月、県の資格試験に合格する。合格するとすぐに和知川原町の鬼塚産婆院へ実地のために勉強で、十一月から勤務する。卒業後の実地研修が義務づけられていたので、鬼塚先生について初歩から勉強した。最初は沐浴も何もできず先生の助手をした。初めての出産介助は鬼塚先生が留守の時に妊婦がやってきて、しょうがなく子供を取り上げることになった。突然のことと初めての経験ということで非常に緊張したという。直前に先生が到着して無事成功したという。
昭和十五年七月十六日、旧青島村の目井町で産婆院を開業する。県の認可番号は第一五六二号であった。青島の目井町には、その当時、鳥井さんと小島(おじま)さんという二人の産婆さんが活動していた。ところが小島さんが倒れたため、そのかかりつけの妊婦がすべて長友さんにかかるようになった。初めての妊婦の時には、出かける前に神様にお願いして出かけたことを覚えている。一人で取り上げたときは天にも昇るような気持ちであった。滞りなく成功したという。取り上げるときのエピソードとしては、お産が近づいて、妊婦の家に行ったところ、空襲警報が鳴り始めて、家族の者は怖いのでみんな防空壕に行ってしまい、産婆さんと妊婦だけが家に取り残された。死ぬときは一緒だと言って励ましながら出産に成功した。
昭和十五年の出産料は五円、昭和二二年の出産料が三〇〇円であった。
昭和二二年、産婆(産婆院)が助産婦(助産所)と改称され、看板を取り替える。(昭和五一年八月三一日、国から厚生省免許証登録番号・第73724号を取得したときに、さらに看板を替え現在も取り付けてある。)この年は、年間で一二三名の赤子を取り上げる。青島小学校のその学年の子どもが一四六名であったことを考えると、青島の八割以上の子供を取り上げていたことになり、我ながら驚いたという。
昭和二三年、母子保健推進委員として発足時より活動する。また、昭和二七年一〇月、受胎調節実地指導員認定講習会を修了し、昭和二八年一二月には、家族計画指導員妊婦中毒証訪問指導員、新生児訪問指導員として保健所長の許可を取得する。
昭和四七年一一月、宮崎市友清産婦人科医院に夜間非常勤勤務する。長友助産院とは兼務であった。平成三年一二月、友清産婦人科医院を退職する。産婦人科から婦人科のみに変更されたため、参加がなくなったために退職することとなった。
昭和六三年九月、宮崎市郡助産婦会支部長に任命され、平成六年七月、高齢のため、助産婦会支部長を辞退し、於田初美さんへ委任した。平成八年三月、継続の要望もあったが、母子保健推進委員も離任する。平成二年二月二日、宮崎県知事表彰を受賞する。
現在助産婦としては活動していないが、赤子の沐浴などを手伝ったり、簡単なマッサージをしたり、育児の相談にのったりなど、地域のアドバイザーとして活躍されている。
【帯祝い】
宮崎市青島では、妊娠することを腹に入ったといい、「ハライッタ」という。妊婦と産婆の関わりは、女性が生理がないことや親のアドバイスによって、だいたい妊娠二、三か月して、産婆さんのところに訪ねてくることに始まる。母親が気にかけて、産婆さんの所へ行くようすすめたり、自分で気づいて産婆さんの所へ行った。生理のなくなった日などを聞いて、出産予定日を計算する。次に妊婦は、妊娠五か月目の戌の日に、産婆さんの所に来るようにいわれる。
青島の人たちは、安産祈願へ白浜の御崎寺の観音様に行く。お守り札と護符を貰い受けた。御崎寺の受け付けの人が男か女かで生まれる子の性別が分かると言われていた。観音様には針を持っていた。針子といって安産になるという。産婆は特に関与しないが、「帯祝い」の前に安産祈願に行くことが多いという。
長友さんの出産には母親が山の神にお産が軽くなるように家から祈願していた。妊娠して便所をきれいにしたり、お花を上げたりするときれいな赤ちゃんが産まれる。
五か月目の戌の日を「帯祝い」という。産婆さんが行くと、ごちそうがしてある。まず、妊婦を診察して、一丈の木綿布のちょうど腹に当たる部分に「寿」「戌 吉日」と産婆が筆書きし、これを腹に巻く。お産の軽かった経験を持つ人に妊婦が腹帯を締めてもらうと安産になるといわれていた。幸い長友さん本人も安産だった経験を持ち、それで多くの場合軽く済んだのではないかと考えている。親兄弟、身近な親戚が五、六人集まって、奥さんの里から帯を贈った。この時点では旦那の実家にいる。初産の里帰りは、一〇か月たってからである。
帯祝いの後は、月に一回ずつ診察をした。聴診器で心音を聞く。長友さんは診察の度にマッサージを行い、これが大変評判であったという。腹、背中、足の順にマッサージをする。このマッサージは学校で習ったことではなく、鬼塚産婆院で習ったという。
【出産】
出産予定日が近づき、おなかが痛くなったら、妊婦の夫あるいは父親が産婆さんの所に連絡に来る。長友さんの時の出産は、納戸を使うことはなくなっていたという。ただし、表の間で出産することはなく、主に次の間で出産をした。漁師の家では、一部ではあるが、出産に夫は立ち会ってはならないとして、分娩が近いとなると夫がさっさと家を出ていく家があった。一度出産に立ち会うと次の子供の時も立ち会わなければならないといった理由からである。実際に、お産がなかなか進まないときに、聞いてみると一番目の子供を産むときに夫がついていたという。夫は漁に出かけてしばらく帰らないということなので、長友さんは機転を利かせて、妊婦が苦労すると思い、その夫の着物を着せて慰めてやったら、すぐに生まれたという。
人が生まれるのは潮が満ちてくるときで、人が死ぬのは潮が引くときであるという。長友さんは今でもそれを信じており、当時の産婆の知識としては十分であった。旧暦の暦を見る。例えば、
旧暦六月三日 三日×八(定数)=二四、十の位の二が干潮の時、更に、二四の一桁の四×六(定数)=二四、これが分、つまり、六月三日の干潮は、二時二四分である。
これが干潮の時間であり、満潮までの六時間の内に生まれていたという。これは迷信ではなかったという。子供が産まれそうだというと、出かける前に先ず計算をして、干潮が何時かを確認していく。そして、お産が長引きそうなときでも、何時頃までには生まれるからというと、必ず当たっていた。患者は実に不思議がって、先生はすごいですねと言っていたという。満潮になるときに子供が産まれるというのは良く知られたことでもあり、知っている人の子供が干潮時に出産してしまって、心配しているときには、「アメリカでは今頃潮が満ちてきているから」などと慰めたという。
頭が固いときは男、柔いときは女の子が生まれる。取り上げるときに長友さんがニコニコしている時には安産であると患者は感じているという。逆子を取り出すときには牽引機を利用した。高齢出産というのは三五歳ぐらいの初産をいった。
明けの日(次の日)に砂糖湯を乳首のように脱脂綿に含ませて飲ませた。地元の人達は、子供が産まれたとなると、すぐに父親がツワブキの根を採りに出かけようとした。しかし、長友さんはそれは子供に気の毒だといい、その風習をなくすように指導した。母乳が出ないときには、熱い湯で乳房を温めてやれば、出るようになった。乳管開通主義法という。乳が出ないときには、粉ミルクは高いので重湯を飲ませていた。戦時中には粉ミルクの配給はあった。戦時中に子供が産まれたことを届け出ると、脱脂綿二個とガーゼ五〇センチが配給された。
へその緒は、とれた時に、名前を書いた半紙に包んで、タンスの引き出しに入れておいた。へその緒は「命の綱」といって結婚式をするときには持っていった。
後産のことは昔はエナといい、学校では胎盤と習った。しかし一般には後産といった。赤ちゃんができない女性は、出産の時の後産を跨ぐと良いと言われていた。子供のなかなかできない女性がいたので、その女性の親戚の出産の時に電話して、すぐ来るように言って、後産を跨がせたところ、一か月で妊娠した。乳が出ないときには、胎盤を煎じて飲ませるとか、胎盤を焼いて粉にして結核の薬にするなどの言い伝えはあったが、実行したことはない。胎盤は、新聞紙に包んでお墓に埋めに行った。埋めた場所を越えた動物を怖がるという話は聞いたことがある。
沐浴は一週間、毎日、産婆が行う。熱いお湯を先に入れて後から水を入れてぬるくする。沐浴をするときに地元の人達は、胎脂をとるために卵を付ける人が多かった。
【双子の出産】
長友さんの経験で、双子の出産は三例あった。一例では、双子とは思わずに、一貫目(約三七五〇グラム)の大きな子供と思って、一人目を取り上げたら、実に小さい子供だった。おかしいと思ったら、まだおなかに子供がいて、逆子になっていた。以前は双子の出産を嫌う人が多く、長友さんとしても困ることがあったそうであるが、幸いどの双子出産も両親ともそのようなことは言わず、三例とも無事に取り上げることができた。
【名付け祝い】
産婆が来るとまず赤子の沐浴を済ませて、晴れ着に着替えさせる。一週間毎日沐浴に来ていたのが、これが最後の沐浴となる(場合によっては産婦の要望でもう少し延期させることもあったが、沐浴料金は必要であった)。母親の消毒を済ませる。同席するのは他にホッドン(神官)の長友茂清さんがいて、お祓いをする。愛宕神社のホッドン(神官)の長友茂清さんは常に長友産婆さんと一緒に「名付け祝い」に呼ばれていた。長友産婆さんが名前と生年月日を筆書きした。昔は半紙に書いたが、今は鶴亀の絵入りの名付け専用の用紙を助産婦会から購入して使用した。書かれた用紙は床の間の中央に上部に張り付けた。
名付け祝いのときには、「弓の音」という行事を行ったという。床の間の前に産婆さんが赤ん坊を抱いて座る。赤ん坊を片手に抱いて、もう片手でセクモン(片口箕)を弦の部分を畳に付け立てておく。産婆の向かいに七、八歳の男児が弓を持つ。この男児は両親兄弟が健在の者を選ぶ。「なーにおか」といい、弓を放ってセクモンに当てる。当たったと同時に、産まれた子供の性によって男児であれば「おとこーん子よ」、女児であれば「おんなーん子よ」と答える。これを二回繰り返す。
弓の音を行った後に、子どもにごちそうを食べさせるまねをして食べ初めとした。ごちそうの後、鯛や鶴亀などをかたどったラクガンを添えて出産費用を支払った。